第21話 村の水は、ただ流れるだけでは済まぬ
村の朝は早い。
いや、城下の朝だって早いのだが、あちらは人の気配で早い。戸を開ける音、荷を引く音、魚を並べる声、井戸端の喧噪。人が人を押し出して、朝を朝らしくしていく。
だが村の朝は違う。
もっとこう、土と水が先に目を覚ます。夜露の残る畦、まだ白く冷えた水路、朝日を受けて光る田の面。人はそのあとから、鍬を持ち、桶を持ち、ようやくそこへ出てくる。
わしは城下でひとつ小口の使いを片づけたあと、どうにも気になって、再び村境の方へ足を向けていた。
昨日の火事のあとの足跡。
寺と薬種屋と武家屋敷を結ぶような流れ。
猫目の、相変わらず人を食ったような物言い。
巫女の、「尾張のうつけに近づく者は、皆いずれ戻れぬ」という妙な言葉。
どれもこれも気にかかるが、今のわしに全部を追えるほどの足も顔もない。ならば、まずは一番手近な、村の方の空気を見ておくのがよかろうと思うたのだ。
村はずれの火事が、ただの悪戯ではないとすれば、村には村の揺れが出る。
水の流れ、田の具合、人の顔つき――そういうものは、嘘をつくにしても限度がある。
「ま、どうせ腹も減るしのう」
もっともらしい理屈をつけてみるが、半分は本気、半分は言い訳だ。
わしはしょせん、気になった方へ足が向く男である。立派な志があるわけでもない。ただ、面倒の匂いが鼻につくと、つい見に行ってしまう。それだけだ。
朝の道を歩きながら、遠くから声が聞こえた。
怒鳴り声である。
元気がよい。元気がよいということは、だいたい碌なことではない。
「やはり、か」
わしは肩をすくめ、歩みを少し速めた。
村境の水路へ近づくにつれ、声ははっきりしてきた。以前も揉めておったあのあたりだ。細い水路と、簡素な堰と、そこから分かれていく田への流れ。春先はまだ苗の時季そのものではないが、水の配分はすでに死活である。早い者が流れを取れば、遅い者は乾く。それが村だ。
着いてみると、案の定、人が集まっていた。
上流側の村の男たちが三、四人。下流側も同じほど。年寄りもおれば、腕に力のありそうな若いのもおる。女たちは少し離れたところから見ており、子どもは近づくなと追い立てられている。
前とは少し違う。
前の水争いは、怒りに勢いがあった。売り言葉に買い言葉で、今にも鍬でも振り上げそうな熱があった。だが今日は、熱よりも先に、何やら腹の底の固さがある。怒っておるのだが、怒りながらも、皆どこかで身構えておる。
「だから言うておるだろうが! 朝見た時は、ここまで水がなかった!」
と、下流の男が怒鳴る。
「夜のうちに誰ぞが堰を寄せたに決まっておる!」
「勝手なことを言うな!」
と、上流側が返す。
「こちらは昨夜から何もいじっておらぬ! 水が細いのは、川の加減だ!」
「川の加減で、寺の田ばかり都合よう流れるか!」
その言葉で、わしは少しだけ眉を上げた。
寺の田。
ほう、そこが出るか。
わしは人の輪の外から、水路と田の面を眺めた。上流から流れてくる水は、完全に止まっておるわけではない。だが、下流へ回る筋が少し弱い。しかも一方で、少し外れたところにある寺の田へ引かれていく細い溝には、たしかに水がよく乗っている。
たまたま、で済むこともある。
だが人の怒りというものは、たまたま一つではここまで膨れぬ。こういう時は、大抵、その前にいくつか似たようなことが重なっておる。
「おやおや」
わしはわざとらしく感心した声を出しながら、輪の外から近づいた。
「朝から景気がよいのう。田の水でも、酒の代わりに飲んだか」
何人かが一斉にこちらを見た。
見慣れぬ若い男がへらへらしながら出てくれば、そりゃあそうなる。以前わしがここへ口を出した時におった者もおるようで、何とも言えぬ顔をする年寄りもいた。
「またおぬしか」
と、その年寄りが言う。
「またじゃ」
と、わしは笑う。
「水は一度揉めれば、それで仲良しとはならぬからの」
「笑いに来たなら帰れ」
と、別の男。
「いやいや、喧嘩を止めた礼に、今度は茶でも出るかと思うて」
「ふざけるな」
「ふざけておるとも。真面目な顔をした者ばかりでは、ますます話がこじれる」
だが、今回は前ほど簡単には拍子が崩れなかった。
下流の男が、わしをにらんだまま言う。
「今回は口先で収まる話ではない」
「ほう」
「こっちは本当に田が乾く」
「……」
その顔が、前回と違った。
怒っておるだけではない。追い詰められておる顔だ。こういう時の男は、笑われても笑えぬ。何しろ、相手に勝つ勝たぬ以前に、自分の田が死ぬかどうかがかかっておる。
「軽口で収まるほど軽くない」
その声は、輪の外から飛んできた。
振り向くまでもなく分かる。農村娘である。
藁縄を束ねた腕を抱えたまま、少し離れたところに立っておる。今日も相変わらず、真っ直ぐで、容赦がない。日に焼けた頬に朝の光が乗っておるが、顔つきは柔らかくならぬ。
「おお」
と、わしは手を上げる。
「朝から手厳しい」
「手厳しくもなる」
と、娘。
「今度は笑って済む空気ではない」
「それは、見れば分かる」
「なら、最初からふざけるな」
「最初にふざけぬと、人は話を聞かぬこともある」
「今日は違う」
「……そうらしいのう」
わしはそこでようやく、本当に軽口を引っ込めた。
村の空気は、時々これだから面白い。城下なら、多少の冗談でひとまず息を抜く者も多い。だが村は違う。腹が減っておる時と、田が乾く時、人は本当に笑わぬ。
笑えぬ者へ無理に軽口を向ければ、それはただの無神経だ。
わしは輪の中へ入り、水路を覗き込んだ。
堰は小さい。木と土で簡単に組んだだけのもので、流れをほんの少し変えるには十分だが、隠れて大きくいじるには不向きだ。夜のうちに誰かが触れば、朝には跡が残るはずだ。
「見せよ」
と、わしは年寄りへ言う。
「何を」
「どこが昨夜と違うと思うておるのか」
「……」
年寄りは渋い顔をしたが、やがて顎で堰の脇を示した。そこは土が少し崩れ、流れが横へ逃げるようになっておる。
「ここじゃ」
と、年寄り。
「夜のうちは、もっとまっすぐ流れとった」
「誰か見たか」
「見たわけではない」
「では」
「だが、こうなると下の筋が痩せる」
それは、たしかにそうだ。
わしはしゃがみ込み、土を指で触った。湿り具合を見る。今朝崩れたなら、表面の土がもっと柔らかいはずだ。だがこれは――
「ふむ」
完全に夜の細工とも言い切れぬ。朝になってから、誰かが踏んだだけで崩れたようにも見える。だが、崩れた位置が妙に都合よい。下流が弱り、横の溝が生きる場所だ。
「この横の溝は、どこへ」
と、わしが聞くと、
「寺の田へ続く」
と、農村娘が即座に答えた。
「前からある筋だ。だが、ここ数日、あそこばかり水の乗りが安定しておる」
「ふむ」
「寺は寺で、“こちらは何もしておらぬ”の一点張りだ」
「では、寺を疑うておるのか」
「疑うておるのではない」
と、娘は言った。
「疑わざるを得ぬ」
その言い方に、村の現実がにじんでおる。
寺を正面から責めるのは厄介だ。信心の場でもあり、顔を立てねばならぬ相手でもあり、時に武家ともつながる。百姓がただ「おかしい」と思うても、簡単には口にできぬ。だが、田が乾けば黙ってもおれぬ。
その板挟みが、今この場の空気を固くしているのだろう。
上流側の男が、わしに食ってかかった。
「おぬし、何を見ておる」
「土と流れと、人の顔じゃ」
「ふざけるな」
「今日はあまりふざけておらぬぞ」
「なら、どちらが悪い」
「それを今ここで決めるのは早い」
「またそれか!」
今度こそ、何人かが本気で苛立った。
だが前と同じことを言うておるようで、今回は少し違う。前は本当に「まあまあ」で済ませるつもりもあった。だが今は、決めるには材料が足りぬと思うておる。誰が悪いと断じるには、土も流れもまだ少し曖昧だ。
「夜のうちに誰かが触ったなら、足が残る」
と、わしは言った。
「朝に崩れただけなら、残り方が違う」
「なら見つけろ」
「今、人が踏み荒らしておる」
「役に立たぬ」
「だからといって鍬で殴り合えば、もっと分からぬ」
その言い方に、ようやく年寄りの一人が小さく唸った。
「……たしかに、今ここで殴り合えば、水より先に村が濁る」
「そういうことじゃ」
と、わし。
「それに」
わしは水路から顔を上げ、寺の田の方へ目をやった。
「本当に寺が何もしておらぬなら、それを確かめる手もある」
「どうする」
と、農村娘。
「見るのじゃ」
「何を」
「寺の田へ入る水の筋を」
そう言うた時、場の空気がまた少し変わった。
村の者たちは顔を見合わせる。寺の田を見に行く、というのは、簡単そうでいて簡単ではない。寺のものに気づかれれば面倒だし、正面から確かめるにしても言いようが要る。
だが確かに、水がどう入っておるかを見ねば、ただの言い合いで終わる。
農村娘が、じっとわしを見た。
「おぬし」
「何じゃ」
「そういう時だけ、本当に面倒なところへ行く顔をするな」
「褒めておるか」
「違う」
「残念じゃ」
「だが」
娘は少しだけ声を落とした。
「それでも、見ぬよりはましだ」
おや、とわしは思う。
今のは、だいぶ認められたのではないか。
もっとも、その直後に上流側の男が吐き捨てた。
「勝手に寺へ目をつけるな。こちらまで巻き込まれる」
「巻き込まれておるのは、もう皆同じではないか」
と、わしが返すと、
「口が軽い!」
と怒鳴られた。
「軽いのは口、重いのは腹じゃ」
「訳の分からぬことを言うな!」
なるほど、まだ皆が同じ方を向くほどには煮えておらぬらしい。
それでも、場の熱は少し変わった。
さっきまでの「誰が堰をいじった」だけの怒りから、「では、どこを見ればよい」という方向へ、わずかにずれたのだ。それだけでも、今は十分かもしれぬ。
年寄りがわしへ言った。
「若造」
「何じゃ」
「おぬし、また余計なことに首を突っ込む気か」
「気づけばの」
「……」
「じゃが、わしひとりで寺へ喧嘩を売りに行くわけではない」
「当たり前だ」
と、農村娘がすぐ切る。
「そんな真似をしたら、本当に刺される」
「やはりそう言うか」
「前にも言うた」
「皆、似たようなことを言うのう」
娘は鼻を鳴らした。
その顔を見て、わしは少し笑った。町娘とは違う。猫目とも違う。だがこの娘も、結局は「やるな」と言いながら、こちらの顔色を見ておる。止めねばと思いつつ、止めきれぬのだろう。
水路のそばでは、男たちがまだぶつぶつ言い合っておる。だが、鍬を握る手の力は、さきほどよりわずかに抜けていた。
「よし」
と、わしは立ち上がる。
「とりあえず、今日はこれ以上ここで怒鳴っても水は増えぬ」
「偉そうに」
と、誰かが言う。
「偉そうではない。腹が減る前に決められることを決めよ、と言うておる」
「結局そこか」
「結局そこじゃ」
場に、ほんの少しだけ笑いが混じった。
ようやく、少しだけだ。
農村娘がその様子を見て、息をついた。
「本当に、おぬしは厄介な男だ」
「よい意味か」
「半分だけ」
「十分じゃ」
そう答えながらも、わしの頭の中では、別のことがじわじわ形になり始めていた。
村の水。
寺の田。
薬種屋。
武家屋敷。
城下の茶屋。
そして、見えぬところを走る猫目。
全部がひとつに繋がるとは、まだ言えぬ。だが、どれもバラバラとも思えぬ。誰かが、水や物や人の流れを、少しずつ都合よく動かしておるような匂いがある。
それが気のせいなら、それでもよい。
だが、気のせいでないなら――
「のう」
と、わしは最後に一つだけ問うた。
「寺の田に入る水だけ、なぜ妙に安定しておるのだ」
その言葉は、小さく言うたつもりだった。
だが、水路の上では妙によく響いた。
場が、しんとした。
怒鳴っていた男も、縄を持っていた年寄りも、後ろで見ていた女たちも、一瞬だけ口を噤む。誰もが思うておったのに、はっきり言わずにいたことを、ついに口へ出してしまった時の静けさである。
農村娘が、ゆっくりとわしを見た。
その目には、さっきまでの苛立ちとは別のものがあった。
止めたい。だが、そこを見ねばならぬとも思う。そういう、厄介な現実を前にした目だ。
村の水は、ただ流れるだけでは済まぬ。
どうやら、わしもその流れの端へ、また足を突っ込んでしまったらしい。




