第20話 巫女は笑わず、妙なことばかり言う
「ほんに、おぬしはそのうち面倒に食われるよ」
おつねのその言い方が、妙に耳に残った。
面倒に食われる。
なかなかよい言い回しである。人は大抵、飢えか病か戦に食われるものと思うておるが、よくよく見れば、面倒ごとというやつもなかなか腹が大きい。しかも目に見えぬぶん、気づけば膝下くらいまで呑まれておることがある。
もっとも、わしの場合は、食われると言うより、気づけば自分から噛まれにいっておる節もあるのだが。
「おぬし、今ちょっと嬉しそうな顔をしたね」
と、おつねが呆れたように言った。
「嬉しそうとは何じゃ」
「“面倒に食われる”を褒め言葉にした顔だよ」
「いや、少し感心しただけじゃ」
「やはり嬉しそうじゃないか」
「言葉の綾よ」
「おぬしの綾は、だいたい碌でもない」
まことにその通りである。
だが、今はそれどころではなかった。
さきほど通りの向こうに立っていた、あの巫女装束の娘。白と緋の衣は、町の中ではどうしても目を引く。だからこそ、最初は見間違いかと思うた。だが目だけは忘れようがない。あの娘の目は、何かを見ておるというより、人の中にまだ言葉になっておらぬものを拾っておるような目をしている。
以前、寺の近くでほんの一瞬だけ顔を合わせた時もそうだった。
猫目のように鋭く刺す目ではない。
おつねのように現実を突きつける目でもない。
農村娘のように土へ根を張った目でもない。
簾の向こうの声の主のように、上から人を量る目でもない。
あの巫女の娘の目は、もっとこう、風の向こうを見ておる。
「おい」
と、おつねがわしの袖を軽く引いた。
「また抜けた顔をしておる」
「見たのじゃ」
「何を」
「巫女じゃ」
「……何?」
「ほれ、向こうに」
指さしかけて、やめた。
もうおらぬ。人波はいつものように流れ、魚売りが声を張り、桶屋が木を削り、菜を抱えた女が急ぎ足で通っていく。そこに、巫女装束の影は残っておらぬ。
おつねが眉をひそめた。
「巫女?」
「うむ」
「寺のかい」
「たぶん」
「たぶん?」
「前にも少し顔を見たことがある」
「……また娘かい」
「そう言うな。今回はだいぶ別口じゃ」
「別口も何も、おぬしの周りは今、娘ばかりではないか」
「それは偶然じゃ」
「偶然で済む顔かい」
その言い方に、わしは少しだけ笑った。
おつねの言うことはもっともである。町娘、農村娘、猫目の忍び、簾の向こうの声、そして今また巫女。たしかに、近頃のわしの周りには女ばかり増えておる。しかも、どれも一筋縄ではいかぬ。普通の縁というものは、もう少し平らで優しいものではないのか。
「仕方あるまい」
と、わしは肩をすくめた。
「面白いものは、たいてい向こうから来る」
「だから、その考え方が危ないと言うておる」
「では、おぬしはここで待っておれ」
「何だい、その言い方は」
「巫女を探してくる」
「……は?」
おつねの顔が、実に嫌そうなものへ変わった。
「おぬし」
「何だ」
「今、何と言うた」
「巫女を探してくる」
「それを真顔で言うのかい」
「真顔ではない」
「そういう問題じゃない!」
おつねは本気で呆れておる。
だが、わしも本気であった。何しろ、あの娘がただの通りすがりにこちらを見たようには思えぬ。こちらを探していたのか、警告か、あるいは別の何かか。何にせよ、あの目で見られたまま知らぬふりをするのは、どうにも気持ちが悪い。
「少し見てくるだけじゃ」
と、わしは言う。
「そう言うて、いつも余計なところまで行く」
「今回は相手が巫女じゃぞ」
「だから余計に嫌だと言うておる」
「なぜ」
「妙なことを言うに決まっておる」
「たしかに」
「認めるのかい」
「だが、妙なことが当たる時もある」
「おぬしは、そういうのに弱すぎる」
弱い、というのは少し違う気もするが、否定しきれぬところもある。
わしは空になった包みを畳み、おつねへ返した。
「すぐ戻る」
「戻らぬ顔をしておる」
「大丈夫じゃ。今日はもう猫目にも、武家屋敷にも、薬種屋にも近づかぬ」
「巫女には近づくのだろう」
「うむ」
「もう本当に、刺される前に祓われるよ」
そう言いながらも、おつねは完全には止めなかった。
止めても無駄だと分かっておるのだろう。そういうところは、ほんによく分かっておる娘である。だから、わしも頭を下げて礼だけはしておいた。
通りを歩き始めると、さきほど巫女のいた辺りにはもう痕跡もない。人が多い町の中では、目立つ装束ほど逆に消えるのも早い。皆、ちらりと見るが、見続けはせぬからだ。
だが、わしは少し考えてから、寺へ向かう道筋ではなく、その一本裏の道へ入った。
あの娘のような者が、ただ真っ直ぐ寺へ戻るとは限らぬ。むしろ人目につく表の道を一度外し、裏から回る方が自然だ。猫目ほどではないにせよ、あの目を持つ娘が、まったくのうかつということはあるまい。
その読みは、半分当たった。
寺裏へ続く細い道と、城下から上がってくる道が交わる小さな祠の脇で、その娘は立っていた。
巫女装束の白が、春の薄い光を受けて少しだけ眩しく見える。だが、顔はやはり笑っておらぬ。整っておるが、愛想のために整っておる顔ではない。人を迎える巫女というより、人の運ぶものを見極める巫女の顔だ。
わしが近づいても、娘は驚かなかった。
むしろ、来ると分かっていたような目をした。
「やはり来たか」
と、娘が言った。
声は静かだ。
柔らかくはない。だが冷たすぎもしない。水の底に小石が沈んでおるのを、そのまま見せるような声だ。
「やはりとは」
と、わしは笑って返す。
「わしが来ると思うておったか」
「おぬしのような足は、気になるものを見れば向く」
「ほう」
「止められても向く」
「それは……少し心当たりがある」
娘はそこで、わずかに目を細めた。
猫目のように睨むのではなく、おつねのように呆れるのでもない。ただ「やはりそうか」と確かめる目つきである。やはりこの娘は、不思議な見方をする。
「以前も」
と、娘が言う。
「言うたはずだ。おぬしの足は、城へ向く」
「覚えておる」
「なら、今はどこへ向いておる」
「今は……」
わしは少し考えた。
「寺か、城か、薬種屋か、猫目のいる方か」
「全部だな」
「全部、とな」
「おぬしは、一つの道だけを歩いておらぬ」
それは、妙に図星だった。
わしは村から城下へ、城下から武家屋敷へ、薬種屋へ、寺へ、猫目の方へと、たしかにふらふら足を向けておる。だが、それはただ気まぐれというだけでもない。気になる匂いのする方へ向いてしまうのだ。結果として、いくつもの道の中間に立つことになる。
巫女の娘は、祠の小さな鈴を指先で軽く触れた。鳴らしはせぬ。触れるだけだ。
「名を聞こうか」
と、娘。
「日吉丸」
「そうか。日吉丸」
「そちらは」
「今、名は要らぬ」
またそれである。
名を聞いても、すぐ返ってくることは少ないらしい。近頃のわしはそういう娘とばかり縁ができておる。
「皆、名を隠したがるのう」
と、わしが言うと、
「名は、人を縛る」
と、娘はすぐ返した。
「軽く渡してよいものではない」
「そういうものか」
「そういうものだ」
理屈は分かるようで、分からぬ。
だが、あの猫目も名を明かさず、武家屋敷の簾の向こうの声の主も名を見せぬ。城下というのは、人が多いぶん、本当の名を出さぬ者も多いのかもしれぬ。あるいは今、わしの足が向いておる方角が、そういう顔の集まる場所なのか。
「で」
と、わしは腕を組んだ。
「巫女殿は、わしに何ぞ言いたいことがあって立っておったのか」
「ある」
「おお、珍しい」
「珍しいか」
「大抵は、わしの方から余計なことを聞きにいくので」
「では、今日は逆だ」
娘はそう言って、通りの方を見やった。
人の流れはある。だが、この小祠の脇は半歩外れており、声を潜めれば他人には届きにくい。猫目が好みそうな位置取りだのう、と思うてしまったあたり、わしもだいぶ感化されてきた気がする。
「おぬし」
と、娘は言った。
「近ごろ、妙な縁を拾っておるな」
「ほう」
「武家の内に触れ、町の娘に叱られ、土の娘に止められ、目の鋭い者と道を違えぬ」
「だいぶよく見ておるのう」
「見ておるのではない。風がそう言う」
風。
また妙なことを言い出した。
だが、この娘の口から出ると、ただの気取りには聞こえぬから不思議だ。
「風が言う、か」
「うむ」
「わしには腹しか言わぬが」
「それも大事だ」
「認めるのか」
「人は腹が減れば、道を誤る」
「……それは、たしかに」
猫目とも、おつねとも違う答えである。
巫女の娘は、わしの顔をまっすぐ見た。
「おぬしは、まだ何も知らぬ」
「それは分かっておる」
「だが、知らぬまま近づいておる」
「それも、分かっておる」
「ならば、ひとつだけ覚えておけ」
「何じゃ」
娘はほんの少しだけ間を置いた。
祠の小さな鈴が、風もないのにかすかに鳴った気がした。いや、気のせいかもしれぬ。だがその一瞬、辺りの音が少し遠のいたように感じた。
「尾張のうつけに近づく者は、皆いずれ戻れぬ」
わしは目を瞬いた。
うつけ。
またその言葉だ。
市でも聞いた。おつねの口からも聞いた。荒くれ者も婆さまも、城下の皆が少しずつ違う顔で口にする、あの織田の若殿を指す言葉。
「戻れぬ、とな」
と、わしは繰り返す。
「死ぬという意味か」
「それだけではない」
「では」
「前のままでは戻れぬ、ということだ」
妙な言い方である。
だが、たしかにただの凶兆とは違う。死ぬ死なぬという話ではなく、近づいた者の何かが変わる、ということか。
「ずいぶん、うつけ殿を大仰に言うのう」
と、わしは半ば笑って言った。
「会うたこともないのに、皆が妙に気にしておる」
「気にせぬ者の方が少ない」
「それほどの男か」
「それを確かめに、おぬしの足は城へ向く」
「……」
「違うか」
「違わぬ、やもしれぬ」
巫女の娘は、それを聞いても特に驚きもせず、ただ静かに頷いた。
「では、よく見よ」
「ほう」
「だが、見たものをすぐ口にするな」
「皆、同じことを言う」
「皆が言うなら、そういうことだ」
「それもそうか」
わしは少しだけ苦笑した。
町娘は余計なことに首を突っ込むなと言う。
農村娘はそのうち刺されると言う。
猫目は知り合いの顔はするなと言う。
そして巫女は、見たものをすぐ口にするなと言う。
皆、言い方は違うが、要するに「黙って慎重にしろ」と言うておるのだろう。
「だがな」
と、わしはつい言った。
「わしは口が先に出る」
「知っている」
「それは風が言うたか」
「顔が言うておる」
「ひどい」
「事実だ」
そこだけは、妙に猫目やおつねと気が合うらしい。
巫女の娘は、そこで初めて、ほんの少しだけ笑いそうな顔をした。笑いそう、であって、実際には笑わぬ。口元がわずかにやわらぎ、すぐに元へ戻る。
「おぬしは」
と、娘は言った。
「まだ乱世の入口に立ったばかりだ」
「ほう」
「入口に立つ者ほど、よく周りを見る」
「では、わしは向いておるか」
「さあな」
「そこは濁すのか」
「その先は、自分で歩いて知れ」
そう言うと、娘は祠から離れた。
引き止める間もなく、白と緋が春の光の中でふわりと揺れる。町の娘らのようにせかせかもせず、武家の侍女のように身を固くもせず、ただ風の通り道を知っておるような歩き方である。
「のう」
と、わしは思わず声をかけた。
娘が半歩だけ止まる。
「何じゃ」
「次に会うた時は、名くらい教えてくれぬか」
娘は振り向かずに答えた。
「おぬしが無事にその日を越えておればな」
なんとも縁起の悪い返しである。
だが、そのまま巫女の娘は人波の向こうへ消えた。
残されたわしは、小祠の前でしばらく立ち尽くした。
尾張のうつけに近づく者は、皆いずれ戻れぬ。
耳に残る言葉だ。
武家屋敷の簾の向こうの声も妙に耳に残ったが、この巫女の言葉もまた別の意味で残る。あれは脅しではない。脅しにするには静かすぎる。むしろ、知っておることをそのまま置いていく言い方だ。
「戻れぬ、か」
わしは空を見上げた。
空は高く、春の風はまだ柔らかい。城下のざわめきはいつも通りで、魚売りは魚を売り、菜売りは菜を売る。うつけと呼ばれる男がどれほどの者か、まだわしは知らぬ。だが、その名が人の口にのぼるたび、皆が少しずつ違う顔をすることだけは知っている。
町の者は面白がる。
荒くれ者は悪態をつく。
婆さまは人を惹くと言う。
おつねは厄介が増えると言う。
そして巫女は、戻れぬと言う。
「……まったく」
思わず笑ってしまった。
こんなに多くの人間が、ひとりの男のことを好き勝手に言うておるのだ。うつけで済むなら安いものではないか。
だが、その“うつけ”の方へ、わしの足はたしかに向き始めておる。
それは腹のためか。
面倒の匂いのためか。
それとも、まだ名も知らぬ何かに引かれておるのか。
わし自身にも、まだよう分からぬ。




