表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/32

第19話 転ばされるたび、縁が増える

人というものは、転ぶたびに何かを拾う。


土を払うだけで済む時もあれば、恥を拾う時もある。打ち身を拾うこともあるし、腹立ちを拾うこともある。わしのような男になると、そこへさらに面倒ごとやら、目つきの悪い娘やら、妙な縁までついてくる。


「まったく、碌な拾い物ではないのう」


薬種屋の裏口から寺へ向かった僧の背を見送ったあと、わしは小さくそう呟いた。


隣では猫目が、呆れたようにこちらを見る。

「拾い物ではない。おぬしが勝手に鼻を突っ込んでおるだけだ」

「半分は向こうから来ておる」

「残り半分が余計だと言うておる」

「では、ちょうどよい」

「よくない」


猫目はぴしゃりと言い切った。


だが、その顔には、最初の頃のような“今すぐ消えろ”という冷たさばかりでもなくなってきていた。むろん、油断すればまた短刀を喉へ当てかねぬ娘ではある。だが、こちらが見たこと、拾ったこと、そこから勝手に繋げることを、完全には嫌っておらぬのも事実らしい。


薬種屋の件は、ひとまずここまでとするしかなかった。


昼の城下は人目が多く、寺へ向かう僧の後をそのまま追えば、かえってこちらが目立つ。猫目もそれは分かっておるのだろう。しばらく薬種屋の周囲を見ていたが、やがてふっと息をつき、小さく言った。


「今日はここで切る」

「切る、か」

「これ以上追えば、こちらの顔が立つ」

「忍びの端くれも、顔が立つのを嫌うか」

「おぬし、言葉の選び方が雑だな」

「褒めておるのだが」

「褒めるな」


そう言いながらも、猫目はもう薬種屋から意識を外し、通りの人波へ気を戻していた。切り替えが早い。本当に、この娘は“見ておる時”と“離れる時”がきっぱりしておる。


わしはそれを感心半分で眺めてから、肩を竦めた。


「では、わしも飯の種へ戻るとするか」

「最初からそうしろ」

「今日はだいぶ働いたぞ」

「足りぬ」

「厳しいのう」

「おぬしの腹がな」

「それはいつも厳しい」


猫目はまた少しだけ口元を動かした。笑うかと思うたが、その前に顔を背けた。やはり、そう簡単には笑わぬ娘らしい。


「ではな、猫目」

と、わしは言った。

「呼ぶな」

「また会うであろう」

「会わぬ」

「薬種屋の裏を気にしておる顔で、それは無理がある」

「……」

「知り合いの顔はせぬが、知り合いではある」

「面倒な理屈だな」

「生きるのに要る」


すると猫目は、ほんの少しだけ目を細めた。


「おぬし、そのうち本当に刺されるぞ」

「皆そう言う」

「皆が言うなら、そういうことだ」

「だが、刺される前に飯を食う」

「勝手にしろ」


それだけ言って、猫目は人波の中へ溶けるように去った。


町娘の顔をしておるくせに、背だけはやはり普通ではない。どこかいつでも走れるような、軽い背だ。ああいう娘が、町や寺や武家のあいだを音もなく行き来しておるのだと思うと、城下の見え方が少し変わる。


「……さて」


わしは大きく伸びをした。


薬種屋と寺と武家屋敷の線は気になる。だが、気にしたところで今すぐ銭にはならぬ。こういう時、わしのような男は自分の腹で頭を冷やすのが一番である。


そう思い、城下の通りをおつねの店のある方へ向けて歩いた。


おつねの店先は、昼を少し回ったあたりで、朝ほどの勢いは落ち着いていた。菜の数も減り、味噌玉もだいぶ売れたようだ。母親は奥で何か包んでおり、おつねは桶の水を替えている最中だった。


わしの姿を見ると、おつねは一瞬だけ目を細め、それからすぐにそっけない顔へ戻った。


「何だい、また来たのかい」

「また来てはならぬか」

「よいとは言わぬ」

「相変わらず、容赦がない」

「おぬし相手にはちょうどよい」


その返しに、わしはほっとした。


昨日、町娘ならぬ妙な娘と裏へ消えたのを見られたせいで、もう少し機嫌が悪いかと思うておったのだ。だが、今日の棘はいつものおつねのそれに近い。いや、近いように見せておるだけかもしれぬが、それでも昨日よりはましだ。


「働いた顔をしておるね」

と、おつねが桶を置きながら言った。

「だいぶ働いた」

「口か、足か」

「両方」

「まただ」


おつねは呆れたように言うたが、籠の脇から布包みをひとつ取り出した。渡してくる。


「何じゃ」

「昼の残り」

「おお」

「礼を言う前に中を見てがっつくなよ」

「それは難しい注文だ」


中は、握り飯であった。


しかもひとつではない。ふたつ。小ぶりだが、塩がよく利いていそうな顔をしておる。人の手で握られた飯は、それだけで胸へ沁みる。


「おお……」

と思わず声が漏れた。

「ありがたや」

「大げさだねえ」

「大げさではない。今のわしには、城ひとつ賜るより嬉しい」

「また城か」

「夢は大きく」

「腹は小さくならぬのに」


おつねはそう言いながらも、口元に少しだけ柔らかいものを浮かべた。


わしは店先の脇へ腰を下ろし、包みを開いた。米の白さが眩しい。塩の匂いがよい。春の昼の空気の中で、握り飯ふたつというのは、それだけで少し世界がましになる。


「……おつね」

「何だい」

「おぬしはよい娘じゃのう」

「突然何だ」

「飯をくれる」

「そこかい」

「大事なことだ」

「おぬしは本当に腹で人を見る」

「腹で見ぬ者があるか」


おつねは鼻を鳴らしたが、今度は否定しなかった。


その時、店先を通りかかった小僧が、わしの手元の握り飯をじっと見た。まだ幼い。着物はくたびれ、足も汚れておる。後ろにはもっと小さな子もいる。兄妹か、近所の子か。いずれにせよ、腹を空かせた目である。


「あ」

と、おつねが小さく声を漏らした。


わしはその目を見た瞬間、もう駄目だった。


「……やれやれ」


自分に言いながら、握り飯のひとつを二つに割る。


「ほれ」

と、小僧へ差し出す。

小僧は目を丸くした。

「いいのか」

「よくはない。わしも腹が減っておる」

「じゃあ、なんで」

「見ておれぬからじゃ」


小僧は戸惑いながらも受け取り、後ろの小さい子へ半分渡した。二人とも、最初は信じられぬような顔をしたが、やがて夢中で食べ始める。ああいう顔を見ると、飯というものは本当に偉いと思う。


わしも残りを食う。うまい。やはりおつねの握る飯はうまい。塩の加減がちょうどよく、米の握り具合がよい。飯のうまい娘は、それだけでだいぶ偉い。


食いながらふと横を見ると、おつねがこちらをじっと見ていた。


「何じゃ」

と、わし。

「……いや」

おつねは視線を逸らした。

「おぬしは、ほんに損な男だね」

「そうか」

「せっかく貰うたものを、すぐ半分やってしまう」

「半分残ったぞ」

「そういうことを言うておるのではない」

「では何じゃ」

「……分からぬなら、よい」


その言い方が妙に小さくて、わしは少しだけ首をかしげた。


だが、おつねのそういう時は、だいたい深追いせぬ方がよい。下手につつけば、倍の棘が返ってくる。


わしは大人しく残りの握り飯を口へ運んだ。


うまい飯を食うておると、人の心も少し平らになる。武家屋敷の簾の向こうの声も、薬種屋の裏口も、猫目の忍びらしい目つきも、すべてが少し遠くなる。


……と、思うたのだが、そう簡単にはいかぬものらしい。


握り飯を食い終え、水を一口もらって一息ついたところで、またしても猫目の顔が頭に浮かんだ。


町娘に化けた時の顔。

薬種屋を睨む時の顔。

「おぬし、目だけはよう利く」と言うた時の、小さな笑い。


「……いかんな」


思わず漏れる。


おつねがすぐに反応した。

「何がいかん」

「いや」

「また余計なことを考えた顔だ」

「そんなに分かるか」

「分かるよ」

「おつね、おぬしは占い師か何かか」

「おぬしが分かりやすすぎるんだよ」


そう言ってから、おつねは少しだけこちらを見た。


「その“余計なこと”ってのは、あの娘のことかい」


ぎくり、とした。


人は、図星を突かれると本当に一瞬息が止まるものらしい。わしの反応を見て、おつねはますます面白くなさそうな顔になった。


「やはりね」

「いや、違う」

「どこが」

「余計なことは、寺やら薬種屋やら、うつけの噂やら、もっと広い」

「その中に娘が入っておる時点で十分だよ」

「言いよう」


おつねは桶の縁を指で叩きながら、ぼそりと言った。

「おぬし、変な女にばかり目を引かれるね」

「そうか」

「そうだよ。町娘、村娘、目つきの悪い娘」

「おぬしも入るか」

「わたしは普通だ」

「口は普通ではない」

「おぬしに言われとうない」


その返しに、わしはようやく笑った。


おつねもそれで少し気が抜けたのか、肩の力を落とす。先ほどの“面白くなさそうな顔”は、まだどこかに残っておる。だが、完全にこちらを遠ざけるほどではないらしい。


「のう、おつね」

「何」

「おぬしはやはり、よい娘じゃ」

「だから、飯をくれるからだろう」

「それもある」

「それ“も”かい」

「怒るな。褒めておる」

「褒め方が雑なんだよ」


そう言いながらも、おつねは小さく笑った。


よかった、と、わしは少しだけ胸をなで下ろした。おつねに本気でへそを曲げられるのは、どうにも落ち着かぬ。飯の種を失うから、というだけではなく、何というか、城下で「また来たのかい」と言うてくれる娘が不機嫌のままだと、通りの景色まで少しよそよそしく見えるのだ。


その自分の気持ちが、少し不思議でもあった。


気づけば、おつね、農村娘、猫目、簾の向こうの声――妙に娘ばかり縁が増えておる。どれも全く違う顔だ。町の現実を生きる娘。土の匂いを背負う娘。人の裏を走る娘。姿も見せず、声だけで人を測る娘。


城下へ近づけば飯の種も厄介も増えると思うておったが、どうやら女の縁まで増えるらしい。


「転ばされるたび、縁が増えるのう」

と、わしが半ば本気で呟くと、

「何を急に言い出す」

と、おつねが眉をひそめた。

「いや、そう思うてな」

「おぬしが勝手に拾っておるだけだろう」

「それもある」

「全部だよ」


全部らしい。


だが、全部と片づけるには、少しばかり妙な匂いがし始めているのも事実である。薬種屋と寺と武家屋敷。城下の噂。村はずれの火。猫目の追うもの。


それらが、ただの縁や偶然だけで終わる気が、どうにもせぬ。


それでも今は、握り飯のうまさと、おつねの少し和らいだ顔だけで十分だと思うことにした。


面倒はどうせ逃げぬ。


ならば、飯を食える時に食い、笑える時に笑う方がよい。


そう思うていた、その時だった。


通りの向こうから、巫女装束の娘がこちらをじっと見ておるのに気づいた。


白と緋の衣が、春の陽の下で妙に目立つ。だがその顔は、目立つために立っておる者の顔ではない。人の流れの外から、こちらだけをまっすぐ見ておる目だ。


「……おや」


思わず声が漏れた。


おつねが振り向く。

「何だい」

「いや、何でも――」


そう言いかけた時には、巫女の娘はもう人波の陰へ消えていた。


まるで、最初からそこにおらなんだように。


だが、たしかに見た。


あれは、以前寺のあたりでちらりと見かけた、あの不思議な目の娘ではないか。夢とも現ともつかぬ顔で、「おぬしの足は、城へ向く」と言うた巫女。


「どうした」

と、おつねが怪訝そうに尋ねる。

「……いや」

わしは通りの向こうを見つめたまま、ゆっくり答えた。

「どうやら、まだ縁が増えるらしい」


おつねは、ひどく嫌そうな顔をした。

「ほんに、おぬしはそのうち面倒に食われるよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ