第19話 転ばされるたび、縁が増える
人というものは、転ぶたびに何かを拾う。
土を払うだけで済む時もあれば、恥を拾う時もある。打ち身を拾うこともあるし、腹立ちを拾うこともある。わしのような男になると、そこへさらに面倒ごとやら、目つきの悪い娘やら、妙な縁までついてくる。
「まったく、碌な拾い物ではないのう」
薬種屋の裏口から寺へ向かった僧の背を見送ったあと、わしは小さくそう呟いた。
隣では猫目が、呆れたようにこちらを見る。
「拾い物ではない。おぬしが勝手に鼻を突っ込んでおるだけだ」
「半分は向こうから来ておる」
「残り半分が余計だと言うておる」
「では、ちょうどよい」
「よくない」
猫目はぴしゃりと言い切った。
だが、その顔には、最初の頃のような“今すぐ消えろ”という冷たさばかりでもなくなってきていた。むろん、油断すればまた短刀を喉へ当てかねぬ娘ではある。だが、こちらが見たこと、拾ったこと、そこから勝手に繋げることを、完全には嫌っておらぬのも事実らしい。
薬種屋の件は、ひとまずここまでとするしかなかった。
昼の城下は人目が多く、寺へ向かう僧の後をそのまま追えば、かえってこちらが目立つ。猫目もそれは分かっておるのだろう。しばらく薬種屋の周囲を見ていたが、やがてふっと息をつき、小さく言った。
「今日はここで切る」
「切る、か」
「これ以上追えば、こちらの顔が立つ」
「忍びの端くれも、顔が立つのを嫌うか」
「おぬし、言葉の選び方が雑だな」
「褒めておるのだが」
「褒めるな」
そう言いながらも、猫目はもう薬種屋から意識を外し、通りの人波へ気を戻していた。切り替えが早い。本当に、この娘は“見ておる時”と“離れる時”がきっぱりしておる。
わしはそれを感心半分で眺めてから、肩を竦めた。
「では、わしも飯の種へ戻るとするか」
「最初からそうしろ」
「今日はだいぶ働いたぞ」
「足りぬ」
「厳しいのう」
「おぬしの腹がな」
「それはいつも厳しい」
猫目はまた少しだけ口元を動かした。笑うかと思うたが、その前に顔を背けた。やはり、そう簡単には笑わぬ娘らしい。
「ではな、猫目」
と、わしは言った。
「呼ぶな」
「また会うであろう」
「会わぬ」
「薬種屋の裏を気にしておる顔で、それは無理がある」
「……」
「知り合いの顔はせぬが、知り合いではある」
「面倒な理屈だな」
「生きるのに要る」
すると猫目は、ほんの少しだけ目を細めた。
「おぬし、そのうち本当に刺されるぞ」
「皆そう言う」
「皆が言うなら、そういうことだ」
「だが、刺される前に飯を食う」
「勝手にしろ」
それだけ言って、猫目は人波の中へ溶けるように去った。
町娘の顔をしておるくせに、背だけはやはり普通ではない。どこかいつでも走れるような、軽い背だ。ああいう娘が、町や寺や武家のあいだを音もなく行き来しておるのだと思うと、城下の見え方が少し変わる。
「……さて」
わしは大きく伸びをした。
薬種屋と寺と武家屋敷の線は気になる。だが、気にしたところで今すぐ銭にはならぬ。こういう時、わしのような男は自分の腹で頭を冷やすのが一番である。
そう思い、城下の通りをおつねの店のある方へ向けて歩いた。
おつねの店先は、昼を少し回ったあたりで、朝ほどの勢いは落ち着いていた。菜の数も減り、味噌玉もだいぶ売れたようだ。母親は奥で何か包んでおり、おつねは桶の水を替えている最中だった。
わしの姿を見ると、おつねは一瞬だけ目を細め、それからすぐにそっけない顔へ戻った。
「何だい、また来たのかい」
「また来てはならぬか」
「よいとは言わぬ」
「相変わらず、容赦がない」
「おぬし相手にはちょうどよい」
その返しに、わしはほっとした。
昨日、町娘ならぬ妙な娘と裏へ消えたのを見られたせいで、もう少し機嫌が悪いかと思うておったのだ。だが、今日の棘はいつものおつねのそれに近い。いや、近いように見せておるだけかもしれぬが、それでも昨日よりはましだ。
「働いた顔をしておるね」
と、おつねが桶を置きながら言った。
「だいぶ働いた」
「口か、足か」
「両方」
「まただ」
おつねは呆れたように言うたが、籠の脇から布包みをひとつ取り出した。渡してくる。
「何じゃ」
「昼の残り」
「おお」
「礼を言う前に中を見てがっつくなよ」
「それは難しい注文だ」
中は、握り飯であった。
しかもひとつではない。ふたつ。小ぶりだが、塩がよく利いていそうな顔をしておる。人の手で握られた飯は、それだけで胸へ沁みる。
「おお……」
と思わず声が漏れた。
「ありがたや」
「大げさだねえ」
「大げさではない。今のわしには、城ひとつ賜るより嬉しい」
「また城か」
「夢は大きく」
「腹は小さくならぬのに」
おつねはそう言いながらも、口元に少しだけ柔らかいものを浮かべた。
わしは店先の脇へ腰を下ろし、包みを開いた。米の白さが眩しい。塩の匂いがよい。春の昼の空気の中で、握り飯ふたつというのは、それだけで少し世界がましになる。
「……おつね」
「何だい」
「おぬしはよい娘じゃのう」
「突然何だ」
「飯をくれる」
「そこかい」
「大事なことだ」
「おぬしは本当に腹で人を見る」
「腹で見ぬ者があるか」
おつねは鼻を鳴らしたが、今度は否定しなかった。
その時、店先を通りかかった小僧が、わしの手元の握り飯をじっと見た。まだ幼い。着物はくたびれ、足も汚れておる。後ろにはもっと小さな子もいる。兄妹か、近所の子か。いずれにせよ、腹を空かせた目である。
「あ」
と、おつねが小さく声を漏らした。
わしはその目を見た瞬間、もう駄目だった。
「……やれやれ」
自分に言いながら、握り飯のひとつを二つに割る。
「ほれ」
と、小僧へ差し出す。
小僧は目を丸くした。
「いいのか」
「よくはない。わしも腹が減っておる」
「じゃあ、なんで」
「見ておれぬからじゃ」
小僧は戸惑いながらも受け取り、後ろの小さい子へ半分渡した。二人とも、最初は信じられぬような顔をしたが、やがて夢中で食べ始める。ああいう顔を見ると、飯というものは本当に偉いと思う。
わしも残りを食う。うまい。やはりおつねの握る飯はうまい。塩の加減がちょうどよく、米の握り具合がよい。飯のうまい娘は、それだけでだいぶ偉い。
食いながらふと横を見ると、おつねがこちらをじっと見ていた。
「何じゃ」
と、わし。
「……いや」
おつねは視線を逸らした。
「おぬしは、ほんに損な男だね」
「そうか」
「せっかく貰うたものを、すぐ半分やってしまう」
「半分残ったぞ」
「そういうことを言うておるのではない」
「では何じゃ」
「……分からぬなら、よい」
その言い方が妙に小さくて、わしは少しだけ首をかしげた。
だが、おつねのそういう時は、だいたい深追いせぬ方がよい。下手につつけば、倍の棘が返ってくる。
わしは大人しく残りの握り飯を口へ運んだ。
うまい飯を食うておると、人の心も少し平らになる。武家屋敷の簾の向こうの声も、薬種屋の裏口も、猫目の忍びらしい目つきも、すべてが少し遠くなる。
……と、思うたのだが、そう簡単にはいかぬものらしい。
握り飯を食い終え、水を一口もらって一息ついたところで、またしても猫目の顔が頭に浮かんだ。
町娘に化けた時の顔。
薬種屋を睨む時の顔。
「おぬし、目だけはよう利く」と言うた時の、小さな笑い。
「……いかんな」
思わず漏れる。
おつねがすぐに反応した。
「何がいかん」
「いや」
「また余計なことを考えた顔だ」
「そんなに分かるか」
「分かるよ」
「おつね、おぬしは占い師か何かか」
「おぬしが分かりやすすぎるんだよ」
そう言ってから、おつねは少しだけこちらを見た。
「その“余計なこと”ってのは、あの娘のことかい」
ぎくり、とした。
人は、図星を突かれると本当に一瞬息が止まるものらしい。わしの反応を見て、おつねはますます面白くなさそうな顔になった。
「やはりね」
「いや、違う」
「どこが」
「余計なことは、寺やら薬種屋やら、うつけの噂やら、もっと広い」
「その中に娘が入っておる時点で十分だよ」
「言いよう」
おつねは桶の縁を指で叩きながら、ぼそりと言った。
「おぬし、変な女にばかり目を引かれるね」
「そうか」
「そうだよ。町娘、村娘、目つきの悪い娘」
「おぬしも入るか」
「わたしは普通だ」
「口は普通ではない」
「おぬしに言われとうない」
その返しに、わしはようやく笑った。
おつねもそれで少し気が抜けたのか、肩の力を落とす。先ほどの“面白くなさそうな顔”は、まだどこかに残っておる。だが、完全にこちらを遠ざけるほどではないらしい。
「のう、おつね」
「何」
「おぬしはやはり、よい娘じゃ」
「だから、飯をくれるからだろう」
「それもある」
「それ“も”かい」
「怒るな。褒めておる」
「褒め方が雑なんだよ」
そう言いながらも、おつねは小さく笑った。
よかった、と、わしは少しだけ胸をなで下ろした。おつねに本気でへそを曲げられるのは、どうにも落ち着かぬ。飯の種を失うから、というだけではなく、何というか、城下で「また来たのかい」と言うてくれる娘が不機嫌のままだと、通りの景色まで少しよそよそしく見えるのだ。
その自分の気持ちが、少し不思議でもあった。
気づけば、おつね、農村娘、猫目、簾の向こうの声――妙に娘ばかり縁が増えておる。どれも全く違う顔だ。町の現実を生きる娘。土の匂いを背負う娘。人の裏を走る娘。姿も見せず、声だけで人を測る娘。
城下へ近づけば飯の種も厄介も増えると思うておったが、どうやら女の縁まで増えるらしい。
「転ばされるたび、縁が増えるのう」
と、わしが半ば本気で呟くと、
「何を急に言い出す」
と、おつねが眉をひそめた。
「いや、そう思うてな」
「おぬしが勝手に拾っておるだけだろう」
「それもある」
「全部だよ」
全部らしい。
だが、全部と片づけるには、少しばかり妙な匂いがし始めているのも事実である。薬種屋と寺と武家屋敷。城下の噂。村はずれの火。猫目の追うもの。
それらが、ただの縁や偶然だけで終わる気が、どうにもせぬ。
それでも今は、握り飯のうまさと、おつねの少し和らいだ顔だけで十分だと思うことにした。
面倒はどうせ逃げぬ。
ならば、飯を食える時に食い、笑える時に笑う方がよい。
そう思うていた、その時だった。
通りの向こうから、巫女装束の娘がこちらをじっと見ておるのに気づいた。
白と緋の衣が、春の陽の下で妙に目立つ。だがその顔は、目立つために立っておる者の顔ではない。人の流れの外から、こちらだけをまっすぐ見ておる目だ。
「……おや」
思わず声が漏れた。
おつねが振り向く。
「何だい」
「いや、何でも――」
そう言いかけた時には、巫女の娘はもう人波の陰へ消えていた。
まるで、最初からそこにおらなんだように。
だが、たしかに見た。
あれは、以前寺のあたりでちらりと見かけた、あの不思議な目の娘ではないか。夢とも現ともつかぬ顔で、「おぬしの足は、城へ向く」と言うた巫女。
「どうした」
と、おつねが怪訝そうに尋ねる。
「……いや」
わしは通りの向こうを見つめたまま、ゆっくり答えた。
「どうやら、まだ縁が増えるらしい」
おつねは、ひどく嫌そうな顔をした。
「ほんに、おぬしはそのうち面倒に食われるよ」




