第18話 忍びと武家と、飯の種のあいだ
城下というところは、ひとつの道を真っ直ぐ歩いておっても、気づけばいくつもの顔のあいだを抜けておる。
表通りでは魚が売られ、味噌が匂い、子どもが駆ける。だが、ひとつ角を折れば、そこには別の顔がある。寺へ通う僧の顔、武家の下働きの顔、商人の顔、使い走りの顔。どれも同じ町の中にありながら、互いに半歩ずつ距離を取って生きておる。
それが今、妙に近づいて見えた。
武家屋敷から出た包みが、寺ではなく薬種屋の裏へ入る。
その気配を、猫目が追っている。
そしてわしは、知り合いの顔をするなと言われながら、その二つを遠巻きに見ておる。
「まったく、何をしておるのやら」
自分で自分に呆れながら、わしは薬種屋の向かいの軒先へ腰を寄せた。
薬種屋は、表から見ればごく真面目な店である。干した草や根を吊り、瓶や紙包みをきちんと並べ、鼻をつくほどではないが薬の匂いがほのかに漂う。病人を抱えた家や、古傷に悩む兵崩れなどが寄るには、悪くない店に見える。
だが、表から真面目な店ほど、裏口が忙しいこともある。
さきほど武家屋敷の下男が入った裏手の戸は、今は閉まっておる。戸の前に人影はない。だが、ああいう戸は「何もおらぬ」顔をしている時ほど、内側に耳がある。
猫目は、路地を一つ挟んだ小間物屋の軒の影に立っていた。
格好は地味だ。顔も、今は町の小娘そのものに見える。だが、あの娘を少しでも知った今のわしには分かる。あれはただ立っておるのではない。通りの音を数え、人の出入りを見て、逃げ道まで頭の隅で測っておる立ち方だ。
やがて、薬種屋の裏戸が少しだけ開いた。
出てきたのは、先ほどの下男ではなく、店の若い衆らしい男である。手ぶらだ。だが手ぶらなのに、出てすぐ左右を見た。物を持たぬ者が、物を運んだ後の顔をしておる。
「ほう」
思わず小さく声が漏れた。
猫目の目も細くなる。
若い衆は表へ回り、何事もなかった顔で店先の薬包みを整え始めた。つまり、裏へ人が入ったことも、何かを受け渡したことも、表には出さぬつもりなのだろう。
「よくやるのう」
誰に向けるでもなく呟く。
城下はこういうところがある。物そのものより、物の動いた気配を消す方がうまい。人は堂々と歩くくせに、本当に大事なものは、まるで最初から無かったように扱う。
すると、その時である。
「日吉丸」
低い声が、すぐ横からした。
ぎょっとして振り向くと、いつの間にか猫目がこちらの陰へ滑り込んでおった。ほんに、この娘は人の心臓に悪い。
「おぬし」
と、わしは小声で言う。
「近づく時は足音を立てよ」
「立てたら意味がない」
「こちらの寿命が縮む」
「もともと長そうに見えぬ」
ひどい。
だが、今は言い返しておる場合でもない。猫目の目は薬種屋の方へ向いたままだ。
「見たか」
と、娘。
「見た」
「何を」
「若い衆の顔。手ぶらで出たくせに、手ぶらで済ませた顔ではない」
猫目はほんの少しだけ口元を動かした。
「よい」
「褒めたか」
「黙れ」
相変わらずである。
わしは猫目の横顔を盗み見た。地味な町娘の顔をしているくせに、その目つきだけが鋭い。昨日までは“面白い娘だのう”くらいで済んだが、こうして武家屋敷と薬種屋を追っておる姿を見ると、たしかにただの娘ではない。
忍びの端くれ。
本人はそう言うた。大層なものではない、とも。
だが、大層かどうかはともかく、町と寺と武家のあいだをこうして嗅ぎ回る娘というだけで、十分に物騒だ。
「のう」
と、わしは囁いた。
「おぬし、本当にこういうことばかりしておるのか」
「どういうことだ」
「顔を変え、人を追い、裏口を見て、短刀を袖へ隠して」
「そう見えるか」
「見える」
「なら、そうなのだろう」
何とも投げやりな答えである。
だが、その投げやりさは、少しだけ本音にも聞こえた。たぶんこの娘にとっては、こういうことが日常なのだ。いちいち大げさに構えるようなものではない。腹が減れば飯を探すように、怪しい荷が動けばそれを見る。そういう生き方なのだろう。
「大変じゃのう」
と、わしは思わず言うた。
猫目がこちらを見る。
「何がだ」
「町娘の顔で町娘ではおれず、寺の近くで村娘の顔をしても村娘ではなく、そうして一日中、人の裏を見て歩くのは」
「……」
「わしなら三日で飽きる」
「おぬしは三日も持たぬ」
「それもそうか」
猫目は小さく鼻を鳴らした。
だが、その時、猫目の目の奥に、ほんのわずかに何かが揺れたように見えた。呆れでも、怒りでもなく――少しだけ、拍子を崩された顔だ。
わしが、ただ面白半分でついて来ておるだけではないと、少しは思うたのかもしれぬ。
もっとも、すぐにそれは消えたが。
「おぬしは」
と、猫目。
「飯の種を探しに城下へ来たのではないのか」
「うむ」
「なら、なぜここにおる」
「飯の種と厄介は隣り合っておると、昨日知った」
「知って、わざわざ厄介の方へ寄るのか」
「そこに飯の匂いもある」
「阿呆だな」
「そうかもしれぬ」
「かもしれぬではない」
「だが、おぬしとこうして話しておると、武家と寺と商人のあいだにも飯の匂いがするぞ」
「……」
「銭がどう動くか知らぬが、少なくとも人は動いておる。人が動けば、小者も使いも荷も要る」
猫目はしばらく黙った。
わしの言うことが気に入らぬのか、あるいは理があると思うたのかは分からぬ。だが、わし自身は本気でそう思っておった。大店の商いにしろ、武家の内向きのやり取りにしろ、表に出ぬところほど下働きが要る。顔を出さぬ者らの荷を、誰かが運ぶ。誰かが文を渡す。誰かが帰りに魚や薬を買う。その“誰か”が飯を食うのだ。
つまり、厄介ごとの近くは、得てして飯の種にも近い。
「おぬし」
と、猫目が低く言う。
「本当に碌でもないところへ鼻が利くな」
「褒めておるか」
「違う」
「残念」
「……だが」
「だが?」
猫目はわずかに眉を寄せた。
「そういう見方をする者は、あまりおらぬ」
「おぬしの周りには、皆、武家か寺か忍びの類ばかりか」
「そういうわけではない」
「なら、町の男は皆、もっと目先の銭だけを追うか」
「たいていはな」
「それも大事じゃぞ」
「知っている」
その言い方が、少しだけ柔らかかった。
おや、と思う。
この娘は、人を値踏みする目を持っておる。だが、誰も彼もを同じ秤に載せるわけではないらしい。こちらの“碌でもない鼻の利き方”も、完全に嫌っておるわけではないのだろう。
それが少し嬉しくて、わしはつい口を滑らせた。
「のう、猫目」
「呼ぶな」
「忍びというのは、やはり飯を食う暇もなく走り回るものか」
「話が飛びすぎだ」
「気になるではないか。おぬし、痩せておる」
「余計なお世話だ」
「飯を食え」
「食っておる」
「本当にか」
「おぬしよりは、たぶん、きちんとな」
「ひどい」
「事実だ」
まことにその通りである。
しかし、こういう他愛もないやり取りをしておる間にも、猫目の目は薬種屋から離れぬ。立っている場所も、通りの死角と逃げ道のあいだを選んでおる。軽口に付き合っておるようでいて、肝心のところは一歩も緩めぬのだ。
「たいしたものじゃ」
と、わしは本気で言った。
「何がだ」
「おぬしのその顔の切り替えよ。喋っておっても、見ておる」
猫目は少しだけ口をつぐんだ。
「……見ておらねば、死ぬ」
「なるほど」
「おぬしも、余計なところまでよう見ておるが」
「腹が減るとな」
「腹の話に繋げるな」
「全部、腹へ繋がる」
すると猫目が、ほんの少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになって、すぐに消した。
だが、その“消しきれなさ”を見られたのが悔しかったのだろう。猫目はすぐ話を切り替えた。
「武家の下男が持ってきた包み、中身は何だと思う」
「分からぬ」
「当ててみろ」
「ほう。今日はずいぶん気前がよい」
「当てられるか見たいだけだ」
「では遠慮なく」
わしは薬種屋を見た。
表へ出ているもの、裏へ入った包み、屋敷からの運び方、店の若い衆の顔。そこから考えるしかない。
「文ではない」
と、わしはまず言った。
「なぜ」
「文だけなら、薬種屋の裏へわざわざ持ち込む必要が薄い。寺や茶屋の方が隠しやすい」
「ふむ」
「銭だけでもない。銭ならもう少し荷の扱いが慎重だ。だが、慎重すぎるほどではなかった」
「それで」
「薬種に紛らせる何か、か。あるいは、本当に薬種そのものだが、届け先が人目に出しにくい」
猫目の目が細くなる。
「続けろ」
「武家屋敷から出た。なら、内向きに欲しい品か、あるいは表で買えぬ品だ」
「表で買えぬ薬種など、いくらでもある」
「そうじゃろうな。で、寺と繋がるなら、傷薬や腹薬だけではあるまい。人を眠らせるか、気を鈍らせるか、あるいは逆に、元気づけるか」
「……」
「当たりか」
猫目は答えなかった。
答えぬ時は、だいたい少しは当たっておる。
「おぬし」
と、猫目は低く言った。
「本当に、どこでそういう嗅ぎ方を覚えた」
「腹を減らして町を歩くと、いろいろ鼻へ入るのだ」
「雑すぎる」
「そうか」
「そうだ」
だが、今度は完全には否定されなかった。
その時、薬種屋の裏口がもう一度開いた。
今度は小柄な僧が出てきた。昨日茶屋で見た僧とは違う。違うが、衣の裾の扱い方がどこか似ておる。町慣れしており、しかも足が速い。僧は表へ出るでもなく、そのまま裏の細道を抜けて寺のある方へ消えていく。
猫目が小さく息を呑んだ。
「やはりな」
と、わしは言う。
「寺か」
「……」
「武家、薬種屋、寺。だいぶ綺麗に並んだのう」
「静かにしろ」
「しておる」
だが胸の内は騒いでいた。
繋がっている。
まだ何のためかは分からぬ。だが、武家屋敷から出た包みが薬種屋へ入り、そこから僧が受けて寺へ向かう。これを偶然で片づけるほど、わしも呑気ではない。
猫目が、わしを見ずに言った。
「今見たことは、あまり口にするな」
「誰に」
「誰にでもだ」
「おつねにもか」
「誰だ、それは」
「町娘じゃ。口がきつい」
「その者にもだ」
「農村娘にもか」
「どれだけ娘がおる」
「偶然じゃ」
「碌でもない偶然だな」
「まったくです」
猫目はそこでようやくこちらを見た。
そして、小さく、ほんの小さく、呆れたように笑った。
「忍びと武家と、飯の種のあいだをふらふらする男など、そうそうおらぬ」
「おるではないか、ここに」
「だから言うておる」
そう返されて、わしも笑ってしまった。
碌でもない。
だが面白い。
そして、おそらく、まだ入口だ。武家屋敷の簾の向こうの声も、薬種屋の裏口も、猫目の追うものも、その先にはまだ、わしの知らぬ何かがある。
腹のために城下へ来たはずが、気づけば武家と寺の間をうろついておる。
ほんに、世はようできておる。




