表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/32

第18話 忍びと武家と、飯の種のあいだ

城下というところは、ひとつの道を真っ直ぐ歩いておっても、気づけばいくつもの顔のあいだを抜けておる。


表通りでは魚が売られ、味噌が匂い、子どもが駆ける。だが、ひとつ角を折れば、そこには別の顔がある。寺へ通う僧の顔、武家の下働きの顔、商人の顔、使い走りの顔。どれも同じ町の中にありながら、互いに半歩ずつ距離を取って生きておる。


それが今、妙に近づいて見えた。


武家屋敷から出た包みが、寺ではなく薬種屋の裏へ入る。

その気配を、猫目が追っている。

そしてわしは、知り合いの顔をするなと言われながら、その二つを遠巻きに見ておる。


「まったく、何をしておるのやら」


自分で自分に呆れながら、わしは薬種屋の向かいの軒先へ腰を寄せた。


薬種屋は、表から見ればごく真面目な店である。干した草や根を吊り、瓶や紙包みをきちんと並べ、鼻をつくほどではないが薬の匂いがほのかに漂う。病人を抱えた家や、古傷に悩む兵崩れなどが寄るには、悪くない店に見える。


だが、表から真面目な店ほど、裏口が忙しいこともある。


さきほど武家屋敷の下男が入った裏手の戸は、今は閉まっておる。戸の前に人影はない。だが、ああいう戸は「何もおらぬ」顔をしている時ほど、内側に耳がある。


猫目は、路地を一つ挟んだ小間物屋の軒の影に立っていた。


格好は地味だ。顔も、今は町の小娘そのものに見える。だが、あの娘を少しでも知った今のわしには分かる。あれはただ立っておるのではない。通りの音を数え、人の出入りを見て、逃げ道まで頭の隅で測っておる立ち方だ。


やがて、薬種屋の裏戸が少しだけ開いた。


出てきたのは、先ほどの下男ではなく、店の若い衆らしい男である。手ぶらだ。だが手ぶらなのに、出てすぐ左右を見た。物を持たぬ者が、物を運んだ後の顔をしておる。


「ほう」


思わず小さく声が漏れた。


猫目の目も細くなる。


若い衆は表へ回り、何事もなかった顔で店先の薬包みを整え始めた。つまり、裏へ人が入ったことも、何かを受け渡したことも、表には出さぬつもりなのだろう。


「よくやるのう」


誰に向けるでもなく呟く。


城下はこういうところがある。物そのものより、物の動いた気配を消す方がうまい。人は堂々と歩くくせに、本当に大事なものは、まるで最初から無かったように扱う。


すると、その時である。


「日吉丸」


低い声が、すぐ横からした。


ぎょっとして振り向くと、いつの間にか猫目がこちらの陰へ滑り込んでおった。ほんに、この娘は人の心臓に悪い。


「おぬし」

と、わしは小声で言う。

「近づく時は足音を立てよ」

「立てたら意味がない」

「こちらの寿命が縮む」

「もともと長そうに見えぬ」


ひどい。


だが、今は言い返しておる場合でもない。猫目の目は薬種屋の方へ向いたままだ。


「見たか」

と、娘。

「見た」

「何を」

「若い衆の顔。手ぶらで出たくせに、手ぶらで済ませた顔ではない」

猫目はほんの少しだけ口元を動かした。

「よい」

「褒めたか」

「黙れ」


相変わらずである。


わしは猫目の横顔を盗み見た。地味な町娘の顔をしているくせに、その目つきだけが鋭い。昨日までは“面白い娘だのう”くらいで済んだが、こうして武家屋敷と薬種屋を追っておる姿を見ると、たしかにただの娘ではない。


忍びの端くれ。


本人はそう言うた。大層なものではない、とも。


だが、大層かどうかはともかく、町と寺と武家のあいだをこうして嗅ぎ回る娘というだけで、十分に物騒だ。


「のう」

と、わしは囁いた。

「おぬし、本当にこういうことばかりしておるのか」

「どういうことだ」

「顔を変え、人を追い、裏口を見て、短刀を袖へ隠して」

「そう見えるか」

「見える」

「なら、そうなのだろう」


何とも投げやりな答えである。


だが、その投げやりさは、少しだけ本音にも聞こえた。たぶんこの娘にとっては、こういうことが日常なのだ。いちいち大げさに構えるようなものではない。腹が減れば飯を探すように、怪しい荷が動けばそれを見る。そういう生き方なのだろう。


「大変じゃのう」

と、わしは思わず言うた。

猫目がこちらを見る。

「何がだ」

「町娘の顔で町娘ではおれず、寺の近くで村娘の顔をしても村娘ではなく、そうして一日中、人の裏を見て歩くのは」

「……」

「わしなら三日で飽きる」

「おぬしは三日も持たぬ」

「それもそうか」


猫目は小さく鼻を鳴らした。


だが、その時、猫目の目の奥に、ほんのわずかに何かが揺れたように見えた。呆れでも、怒りでもなく――少しだけ、拍子を崩された顔だ。


わしが、ただ面白半分でついて来ておるだけではないと、少しは思うたのかもしれぬ。


もっとも、すぐにそれは消えたが。


「おぬしは」

と、猫目。

「飯の種を探しに城下へ来たのではないのか」

「うむ」

「なら、なぜここにおる」

「飯の種と厄介は隣り合っておると、昨日知った」

「知って、わざわざ厄介の方へ寄るのか」

「そこに飯の匂いもある」

「阿呆だな」

「そうかもしれぬ」

「かもしれぬではない」

「だが、おぬしとこうして話しておると、武家と寺と商人のあいだにも飯の匂いがするぞ」

「……」

「銭がどう動くか知らぬが、少なくとも人は動いておる。人が動けば、小者も使いも荷も要る」


猫目はしばらく黙った。


わしの言うことが気に入らぬのか、あるいは理があると思うたのかは分からぬ。だが、わし自身は本気でそう思っておった。大店の商いにしろ、武家の内向きのやり取りにしろ、表に出ぬところほど下働きが要る。顔を出さぬ者らの荷を、誰かが運ぶ。誰かが文を渡す。誰かが帰りに魚や薬を買う。その“誰か”が飯を食うのだ。


つまり、厄介ごとの近くは、得てして飯の種にも近い。


「おぬし」

と、猫目が低く言う。

「本当に碌でもないところへ鼻が利くな」

「褒めておるか」

「違う」

「残念」

「……だが」

「だが?」

猫目はわずかに眉を寄せた。

「そういう見方をする者は、あまりおらぬ」

「おぬしの周りには、皆、武家か寺か忍びの類ばかりか」

「そういうわけではない」

「なら、町の男は皆、もっと目先の銭だけを追うか」

「たいていはな」

「それも大事じゃぞ」

「知っている」


その言い方が、少しだけ柔らかかった。


おや、と思う。


この娘は、人を値踏みする目を持っておる。だが、誰も彼もを同じ秤に載せるわけではないらしい。こちらの“碌でもない鼻の利き方”も、完全に嫌っておるわけではないのだろう。


それが少し嬉しくて、わしはつい口を滑らせた。


「のう、猫目」

「呼ぶな」

「忍びというのは、やはり飯を食う暇もなく走り回るものか」

「話が飛びすぎだ」

「気になるではないか。おぬし、痩せておる」

「余計なお世話だ」

「飯を食え」

「食っておる」

「本当にか」

「おぬしよりは、たぶん、きちんとな」

「ひどい」

「事実だ」


まことにその通りである。


しかし、こういう他愛もないやり取りをしておる間にも、猫目の目は薬種屋から離れぬ。立っている場所も、通りの死角と逃げ道のあいだを選んでおる。軽口に付き合っておるようでいて、肝心のところは一歩も緩めぬのだ。


「たいしたものじゃ」

と、わしは本気で言った。

「何がだ」

「おぬしのその顔の切り替えよ。喋っておっても、見ておる」

猫目は少しだけ口をつぐんだ。

「……見ておらねば、死ぬ」

「なるほど」

「おぬしも、余計なところまでよう見ておるが」

「腹が減るとな」

「腹の話に繋げるな」

「全部、腹へ繋がる」


すると猫目が、ほんの少しだけ笑いそうになった。


笑いそうになって、すぐに消した。


だが、その“消しきれなさ”を見られたのが悔しかったのだろう。猫目はすぐ話を切り替えた。

「武家の下男が持ってきた包み、中身は何だと思う」

「分からぬ」

「当ててみろ」

「ほう。今日はずいぶん気前がよい」

「当てられるか見たいだけだ」

「では遠慮なく」


わしは薬種屋を見た。


表へ出ているもの、裏へ入った包み、屋敷からの運び方、店の若い衆の顔。そこから考えるしかない。


「文ではない」

と、わしはまず言った。

「なぜ」

「文だけなら、薬種屋の裏へわざわざ持ち込む必要が薄い。寺や茶屋の方が隠しやすい」

「ふむ」

「銭だけでもない。銭ならもう少し荷の扱いが慎重だ。だが、慎重すぎるほどではなかった」

「それで」

「薬種に紛らせる何か、か。あるいは、本当に薬種そのものだが、届け先が人目に出しにくい」

猫目の目が細くなる。

「続けろ」

「武家屋敷から出た。なら、内向きに欲しい品か、あるいは表で買えぬ品だ」

「表で買えぬ薬種など、いくらでもある」

「そうじゃろうな。で、寺と繋がるなら、傷薬や腹薬だけではあるまい。人を眠らせるか、気を鈍らせるか、あるいは逆に、元気づけるか」

「……」

「当たりか」


猫目は答えなかった。


答えぬ時は、だいたい少しは当たっておる。


「おぬし」

と、猫目は低く言った。

「本当に、どこでそういう嗅ぎ方を覚えた」

「腹を減らして町を歩くと、いろいろ鼻へ入るのだ」

「雑すぎる」

「そうか」

「そうだ」


だが、今度は完全には否定されなかった。


その時、薬種屋の裏口がもう一度開いた。


今度は小柄な僧が出てきた。昨日茶屋で見た僧とは違う。違うが、衣の裾の扱い方がどこか似ておる。町慣れしており、しかも足が速い。僧は表へ出るでもなく、そのまま裏の細道を抜けて寺のある方へ消えていく。


猫目が小さく息を呑んだ。


「やはりな」

と、わしは言う。

「寺か」

「……」

「武家、薬種屋、寺。だいぶ綺麗に並んだのう」

「静かにしろ」

「しておる」


だが胸の内は騒いでいた。


繋がっている。


まだ何のためかは分からぬ。だが、武家屋敷から出た包みが薬種屋へ入り、そこから僧が受けて寺へ向かう。これを偶然で片づけるほど、わしも呑気ではない。


猫目が、わしを見ずに言った。

「今見たことは、あまり口にするな」

「誰に」

「誰にでもだ」

「おつねにもか」

「誰だ、それは」

「町娘じゃ。口がきつい」

「その者にもだ」

「農村娘にもか」

「どれだけ娘がおる」

「偶然じゃ」

「碌でもない偶然だな」

「まったくです」


猫目はそこでようやくこちらを見た。


そして、小さく、ほんの小さく、呆れたように笑った。


「忍びと武家と、飯の種のあいだをふらふらする男など、そうそうおらぬ」

「おるではないか、ここに」

「だから言うておる」


そう返されて、わしも笑ってしまった。


碌でもない。

だが面白い。


そして、おそらく、まだ入口だ。武家屋敷の簾の向こうの声も、薬種屋の裏口も、猫目の追うものも、その先にはまだ、わしの知らぬ何かがある。


腹のために城下へ来たはずが、気づけば武家と寺の間をうろついておる。


ほんに、世はようできておる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ