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第17話 簾の向こうの声は、妙に耳に残る

武家屋敷を離れてもしばらく、わしの耳にはあの声が残っていた。


――その者、口ばかりかと思えば、案外ましに働くのね。


案外まし。


なんとも半端な褒め言葉である。


手放しで誉められたわけでもなく、かといって鼻で笑われたわけでもない。だが、簾の向こうで顔を見せぬまま、こちらの働きを見て、そんなふうに口へ出すというのは、ただの気まぐれとも思えぬ。


「……妙に耳へ残るのう」


城下の通りを歩きながら、わしはひとりごちた。


武家屋敷の声というものは、たいていもっと遠い。命じるか、叱るか、あるいは何も言わぬか。そういうものだ。ところが今のあの声は、遠いようでいて、妙に近かった。こちらを値踏みしつつも、ただの荷運びの若造として片づけきっておらぬ声である。


それがどうにも面白く、同時に少しばかり落ち着かぬ。


「いかんいかん」


わしは首を振った。


今日のわしは、女の声や目つきにいちいち気を取られすぎである。城下へ来てからというもの、町娘のおつねに説教され、猫目には脅され、今度は簾の向こうの声に妙な含みを持たされておる。これではまるで、飯の種より先に女の気配を追って生きておる男ではないか。


もちろん、実際には飯の方が先である。


それを証拠に、考えごとをしておる間にも腹は律儀に鳴る。人の心がいかにふらつこうと、腹だけは真っ直ぐでありがたい。


「さて、次じゃ」


武家屋敷の使いはひとまず終わった。文箱も干し物も薬種も無事に届けた。銭は少ないが、顔はつないだ。ならば悪くない。悪くないが、まだ日が高い。ここでぼんやりしておるのはもったいない。


城下へ来れば、飯の種も厄介も増える。


ならば、増えた飯の種は拾わねば損である。


わしは武家屋敷のある通りから少し離れ、また人の多い辻へ戻った。荷運び、人足、使い、店先の手伝い。小さな口をいくつ拾えるかで、その日の気分も寝床の選びようも変わってくる。


だが今日は、辻へ戻る前に少しばかり寄り道をしたくなった。


さきほど荷を届けた屋敷の筋を、もう一度遠巻きに見ておきたかったのである。


「余計なことじゃのう」

と、自分で言う。

「余計なことだ」

と、すぐ自分で返す。


だが、余計なことをせぬようなら、わしはここまで何とか生き延びてもおらぬだろう。余計なことに鼻を利かせ、余計なところで口を出し、余計な縁を拾って飯に変えてきた。そういう男だ。今さら急に慎み深くなれるものでもない。


屋敷の近くまで戻ると、門前に先ほどとは違う空気があった。


荷の出入りはない。人が群がっておるわけでもない。だが、門の脇に控える下男の立ち方が少し変わっておる。内側で何か話があった後の顔だ。小さな屋敷ほど、内の気配はすぐ門へ滲む。


門前をうろつけば怪しまれるので、わしは向かいの小さな飴売りの屋台の脇へ腰を落ち着けた。飴玉をひとつ買って舐める。これでただの通りすがりの若造に見えるはずだ。たぶん。


飴売りの婆さまが、わしの横顔を見て言うた。

「そんな顔で飴を舐めると、企みごとでもあるように見えるよ」

「企みごとはない」

「では、気になることかい」

「それは少し」

「少しなら、だいたい大きいね」


婆さまというものは、どうしてこう一息で人の腹を見抜くのか。


わしは曖昧に笑い、飴を転がしながら門の方を見た。白壁は変わらず静かで、屋敷の中の様子などまるで見えぬ。だが、見えぬからこそ気になるのだ。


そのうち、門が少しだけ開いた。


出てきたのは、あの簾の向こうの声の主ではない。さすがにそれを期待するほど阿呆ではない。出てきたのは、先ほども応対した年かさの女房であった。手には小さな包みを持ち、門前の下男へ何かを言いつける。口は動くが、声はよく聞こえぬ。


ただ、女房の顔が少しだけ険しい。


「ほう」


わしは飴を噛まずに眺めた。


険しいと言うても、何か大事が起きた顔ではない。むしろ、何かを急ぎつつ、外へ出すべき顔を選んでおる顔だ。そういう時はたいてい、屋敷の内で“家の中だけでは済まぬ話”が動いておる。


女房はやがて包みを下男へ渡した。下男はそれを持って門の外へ出る。行く先は寺の方角……いや、少し違う。寺へ行く道筋にも見えるが、そのまま寺へ入る顔ではない。途中で誰かに渡すのかもしれぬ。


わしは内心で舌を鳴らした。


武家屋敷。

寺へ向くかもしれぬ包み。

そして先日、猫目とともに見た、商人と寺の僧と武家の使いが交わる茶屋。


まだ線にはならぬ。だが、点は確かに増えている。


飴売りの婆さまが、わしの視線の先を見て言った。

「あの屋敷が気になるのかい」

「少し」

「少し、ねえ」

「何ぞ知っておるか」

「知っとるような、知らぬような」

「どちらじゃ」

「武家屋敷なんてのは、外から見えるより中の風が強いもんさ。あそこの家も、最近はちと慌ただしいという話くらいは耳にする」

「慌ただしい?」

「人の出入りが増えたとか、寺へ寄る顔が増えたとかね」

「寺へ」

「町の噂だよ。真に受けるな」


真に受けるなと言われたものほど、わしは真に受けたくなる。


だがここで婆さまへ食いついても、話はそれ以上深くならぬだろう。噂は噂だ。噂だけで腹は膨れぬし、下手をすれば面倒だけが増える。


もっとも、面倒が増えるのはもう慣れておるが。


「ありがたい」

と、わしは婆さまへ礼を言うた。

「飴ひとつで、ずいぶん重い話がついてきた」

「若いの、そういうものに顔を突っ込むのはほどほどにしな」

「よく言われる」

「誰にだい」

「町娘やら、村娘やら、目つきの悪い娘やら」

「……碌でもない顔ぶれだね」

「まったくです」


婆さまは吹き出し、それきりもう何も言わなかった。


わしは腰を上げ、また通りを歩き始めた。


城下は相変わらず忙しい。武家屋敷の近くは静かだが、大路へ戻れば魚売りが怒鳴り、桶屋が木を削り、子どもらが駆ける。人の世とは不思議なもので、静かなところほど面倒が深く、騒がしいところほど表だけが軽いことがある。


しばらく歩くうちに、ふと足が止まった。


通りの向こう、寺へ続く道と武家屋敷へ戻る筋が交わるあたりに、小さな影が見えたからだ。


猫目である。


今度は町娘でも村娘でもなく、もっと地味な格好をしている。小間物屋の使いとでも言えば通るような、目立たぬ装いだ。だが目だけは変わらぬ。人を見、道を見、音の返りまで拾う目だ。


「おお」


声をかけかけて、わしはやめた。


知り合いの顔はするな。


そう言われておる以上、ここで手を振るのはさすがに子どもじみておる。いや、わしは十分子どもじみたところがあるが、猫目相手にわざわざ怒られにいくこともない。


ならば遠目に見ておくか、と思うていると、猫目の方が先にこちらへ気づいた。


気づいたが、当然のように気づかぬふりをする。


その一瞬の視線の動きだけで、「今は声をかけるな」と言うておるのがよく分かった。


やれやれ。


わしは肩をすくめ、別の方角へ目を向けた。だが、そのまま少しだけ歩調を緩める。猫目もまた、少し遅らせる。そうして、人波の中で知り合いでも何でもない顔をしながら、同じ向きへ流れていく。


妙なものだ。


知り合いの顔はするなと言われて、本当に知り合いでないように歩く方が、かえって知り合いじみて感じる。


しかも今は、その猫目の動く先に、さきほどの武家屋敷の下男が包みを抱えて向かっておる。寺へ行くのか、それとも別の場所か。猫目もそれを追っておるのだろう。


「……簾の向こうの声と、猫目と、寺と、武家の包みか」


だんだん碌でもない匂いが増してきた。


わしは笑いそうになったが、ここで口元を動かせばまた猫目に後で刺されかねぬ。大人しく視線だけで追う。


すると、包みを持った下男は寺の方へ向かうかと思いきや、途中で角を折れ、小さな薬種屋の裏口へ入っていった。


薬種屋。


寺でもなければ武家屋敷でもない。だが、昨夜届けた荷の中にはたしか薬種もあった。しかも、茶屋で見た商人と寺の僧も、何か小さなやり取りをしておった気がする。


「……面白いのう」


いや、面白いと言うておる場合ではないのかもしれぬ。だが、こうして点が増えるのは、やはり面白い。人の都合があちこちで結びつき、見えぬところで文や物が動く。表向きは何でもない顔をしておるのに、その下では皆、少しずつ別の顔を持っておる。


乱世とは、戦だけではない。


こういう、小さくて見えにくい流れもまた、きっと戦のうちなのだろう。


猫目は少し離れたところで立ち止まり、薬種屋の方を見ていた。わしがそれとなくそちらへ流れると、今度は本当に少しだけこちらを睨んだ。


「来るな」

と、その目が言うておる。

「見ておるだけじゃ」

と、わしは目で返す。


通じたかどうかは知らぬが、猫目は小さく鼻を鳴らしたような顔をして、また目を戻した。


そこで、ふとわしの耳に、別の女の声が蘇る。


――その若いの、口が軽そうだが、足はどうだ。

――また使うことがあるやもしれぬ。

――その者、口ばかりかと思えば、案外ましに働くのね。


簾の向こうの声は、妙に耳に残る。


その声のある屋敷から、今こうして薬種屋の裏へ包みが運ばれ、猫目がそれを追っている。偶然と言えば偶然かもしれぬ。だが、偶然にしては、少しばかり都合がよすぎる。


「……これは、もう少し近づく価値がありそうじゃ」


わしは小さく呟いた。


飯の種も欲しい。

だがそれだけではない。


どうやら城下の面倒は、思うていたより深いところで繋がり始めておるらしい。武家屋敷の簾の向こうで声を潜める娘も、城下を変装して走る猫目も、その流れのどこかにいる。


そして、その流れの端へ、わしのような口の軽い若造まで、どうやら引っかかり始めておる。


「まったく」


空を仰ぐと、春の陽はまだ高かった。


「暇をさせてくれぬ世じゃのう」

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