第16話 初めての武家屋敷は、息苦しいほど静か
武家屋敷というものは、門の前に立っただけで、人を少し黙らせる。
大きいから黙るのではない。高いからでもない。むしろ、でかい城門のようにあからさまに威張っておる方が、まだこちらも「ほう、立派なものじゃ」と見上げる気になれる。
だが小ぶりの武家屋敷は違う。
塀は高すぎず、門も飾り立ててはおらぬ。けれど、そこにある空気が「ここから先はよそ者の歩き方では済まぬ」と言うてくる。静かで、きちんとしており、何より“余計なものを嫌う”気配がある。
わしがその屋敷の前へ着いたのは、昼を少し回った頃であった。
北の方にあると聞いていた通り、城下の賑わいから少し外れた場所にある。表通りの店々からは半歩引き、しかし田舎くさくはない。武家が住むには程よく、町人が近づくには少しだけ息苦しい、そういう位置だ。
塀は白く塗られているが、真新しすぎぬ。門扉は黒く、鉄の打ち具が小さく光る。庭木の枝が、門の上から少しだけ覗いておる。見せびらかすほどではないが、手は入っている。金はある。だが、それを派手に見せる趣味ではない。
「ほう」
わしは荷を持ったまま、門の前で小さく感心した。
届けるのは、干し物と薬種、それから文箱ひとつ。重くはない。だが軽くもない。中身そのものより、「これを落とすな」「余計なことを言うな」という重さが肩にかかっておる。
おつねにまで妙なことを言うなと釘を刺された以上、今日は少しばかり“まともな若造”の顔をしておくべきであろう。
わしは一つ息を整え、門を軽く叩いた。
しばしの間。
やがて中から、足音が近づいてくる。
足音まで違うのだから、武家屋敷とは厄介だ。町家のように、ぱたぱたと忙しなくは来ぬ。かといって、ゆっくりでもない。必要な速さだけで、こちらを待たせすぎず、慌ててもおらぬ。そういう歩き方をしてくる。
門が半分ほど開き、女が顔を出した。
年の頃は三十前後か。着物は落ち着いているが、手入れが行き届いておる。侍女というより、古株の下働き女房に近い。目は細く、こちらを一息で値踏みする目だ。
「どなた」
「お届け物にござる」
と、わしは頭を下げる。
「北の辻で頼まれまして、干し物と薬種、それから文箱を」
女は荷を見、それからわしの顔を見た。
「差し出しは」
「先ほど、年かさの女御に」
「年かさの女御」
「ええ、こう……よく人を使う顔の」
「どういう顔だい」
「しまった、言いようが悪かった」
「そうだね」
早速これである。
わしは咳払いをして取り繕った。
「失礼。屋敷づきの方で、きびきびしたお方に頼まれました」
女は少しだけ怪しむように眉を寄せたが、荷を見て合点したらしい。
「待っておれ」
と言って中へ引っ込む。
門は開け放たれぬ。半開きのまま、わしだけを外へ残す。
これもまた武家屋敷らしい。中へ入れぬのが当然で、門前で待たせるのに悪びれもない。町家なら「入りなよ」「そこへ置いて」となるところだが、ここでは“中”と“外”のあいだにきちんと線がある。
だが、待っておる間にも見えるものはある。
門の隙間から覗く石畳。掃き清められた土。縁側の端。置かれた履物の揃え方。無駄がない。女たちの声も低い。どこかで湯を沸かす音はするが、町家のように鍋や桶が景気よく鳴ることはない。
静かだ。
それも、寺の静けさとは違う。寺は人の声を吸って静かになる。武家屋敷は、人の声を押さえつけて静かにする。
「息苦しいほど、よう整っておるのう」
思わずそう呟いた時、門の向こうから別の声がした。
「何ぞ申したか」
女ではない。もっと若い、澄んだ声だ。
わしは顔を上げた。
門の奥、渡り廊下へ続く陰のあたりに、人影がある。直に見えるわけではない。簾が半ば下がり、柱が視線を切っておる。だが、そこに誰かおる。
「ああいや」
と、わしは頭を下げる。
「立派なお屋敷だと思いまして」
「立派、とな」
声は少しだけ面白がるように響いた。
「そう見えるか」
「ええ。静かで、きちんとしておる」
「息苦しいほどに?」
おお、聞かれておったか。
「……お耳がよい」
と、わしは正直に言うた。
「聞こえておるなら、否とは申せぬ」
簾の向こうで、ふ、と空気が揺れた気がした。笑うたのかもしれぬ。
すると先ほどの女が戻ってきて、門の内側からこちらを睨んだ。
「余計なことを申すな」
「はっ」
「荷を寄越せ」
「はいはい」
わしは順に荷を渡した。干し物、薬種、文箱。女はひとつずつ確かめる。扱いが丁寧だ。文箱に至っては、ただ受け取るのではなく、差し出された向きまで気にしておる。こういう家では、物の置き方ひとつで人柄を見るのかもしれぬ。
面倒だが、面白い。
「これで相違ない」
と、女は言った。
「銭は」
「先に渡してある」
「ほう」
「おぬしは帰れ」
まことに簡潔だ。
だがその時、簾の向こうの声がまたした。
「待て」
女がぴたりと止まる。
「は」
「その若いの、口が軽そうだが、足はどうだ」
おや、と思う。
足。
つまり、走るかどうかを聞いておるのだろうか。
女が答える前に、わしは自分から口を開いた。
「軽い方にございます」
「口も足も、か」
「ありがたいことに」
「ありがたくはなかろう」
「人によります」
また、簾の向こうで空気が揺れた。今度はたしかに笑ったのだろう。ほんの小さくだが、あの静かな屋敷の中では、そのかすかな動きがよく分かる。
「名は」
と、声が問う。
「日吉丸」
「どこの者だ」
「それは……」
少し困った。
どこの者だ、と聞かれるのはいつも困る。尾張の者であることは確かだ。だが、どこそこの村の誰兵衛の倅と名乗れるほど、きちんと根を張ってはおらぬ。町人でもなく、百姓でもなく、武家でもない。名乗れば名乗るほど、半端さが浮き上がる。
わしが言葉を選んでおると、簾の向こうの声が先に言った。
「定まりがない顔だな」
「……よく言われます」
「であろうな」
その返しが、妙に柔らかかった。
柔らかい、と言うても、親しげという意味ではない。むしろ、よく見ておる者の言い方だ。こちらを笑うておるのではなく、そういう者だと判断しておる。
わしは、少しだけその声の主が気になった。
年若い娘のように聞こえる。だがただ若いだけではない。武家の内に育ち、物を上から見慣れておる者の声だ。侍女ではない。女房でもない。もっと奥におる者。家の“内”に属しながら、ただ守られるだけではない者。
簾越しにふっと、香が流れてきた。
花ではない。もっと淡く、衣へ移した香だ。鼻をつくほど強くない。だが、そこに「ここは武家の家だ」と言うような、きちんとした匂いがある。
「日吉丸」
と、声が言う。
「はい」
「おぬし、また使うことがあるやもしれぬ」
「それはありがたい」
「ただし」
「はい」
「余計なことを言わねば、だ」
「……それはだいぶ難しいご下命ですな」
門の内側の女が、あからさまに顔をしかめた。しまった、と思うたがもう遅い。だが簾の向こうからは、またかすかな笑いが返った。
「難しいか」
「なかなか」
「では、その難しいのを少しは覚えよ」
「精進いたします」
まことに、何に精進するのかよく分からぬ返事である。
だが、悪くない。
門の内の空気は相変わらず息苦しいほど整っておる。けれど、その簾の向こうの声だけが、少し違う風を通した気がした。
女が咳払いした。
「もうよろしいですか」
「うむ」
と、声。
「帰してよい」
「は」
簾の向こうの人影は、それきり動かぬ。
わしはもう一度頭を下げ、門前から下がった。だが、二、三歩離れてからも、背にあの静かな屋敷の気配が残っておる。町家とも寺とも違う、きちんとした圧だ。人を黙らせる空気である。
「なるほど」
通りへ戻りながら、わしは小さく言うた。
武家屋敷は息苦しいほど静かだ。けれど、その静けさの奥には、人の目も、言葉も、思うておる以上に動いておるらしい。
それにしても。
簾越しのあの声。
顔は見えぬ。名も知らぬ。だが、ただの家の娘ではあるまい。こちらの足の軽さを聞き、名を問うた。余計なことを言うなと釘を刺しつつ、また使うやもしれぬと含みも持たせた。
面白い。
城下へ深く入れば、飯の種も厄介も増えるとは思うておったが、どうやら女の気配まで増えるらしい。
「いやいや、いかんいかん」
わしは自分で自分を戒めた。
町娘のおつねに叱られ、目つきの悪い猫目に脅され、今度は簾の向こうの声まで気になるようでは、いよいよ女難の相である。もっとも、わしの方から難へ近づいておる気もするので、誰に文句も言えぬのだが。
そう思いながら歩いておると、門の奥から、かすかにまたあの声がしたような気がした。
「その者、口ばかりかと思えば、案外ましに働くのね」
風に紛れるほどの、小さなひと言。
わしは思わず足を止めた。
振り返れば、もう門は閉じられておる。白壁は静かで、何事もなかったような顔をしている。だが、今のはたしかに聞こえた。
「……案外まし、か」
それは褒められたのか、それともまだ半人前の評なのか。たぶん後者だろう。だが、半人前にせよ、簾の向こうの者がわざわざ口にしたのなら、まるきり悪くはない。
わしは少しだけにやりとした。
城下へ来て、武家屋敷へ荷を届け、簾の向こうの声に“案外まし”と評される。
今日はなかなか悪くない日かもしれぬ。
もっとも、こういう日に限って、その後に碌でもないものがくっついてくるのが常だ。だから油断はならぬ。油断はならぬが――面白いのは確かである。
わしは日差しの残る通りへ出て、また次の飯の種を探す顔へ戻った。




