表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/31

第15話 町娘、面白くなさそうな顔をする

夜というものは、腹が満ちれば少し優しくなる。


もっとも、満ちると言うても、わしの場合は「空腹で倒れぬ程度」の話である。茶屋の表で余った団子を安く拾い、路地の井戸で水を飲み、どうにかその日をつなぐ。城下へ深く入れば飯の種も厄介も増える――そう思うておったが、どうやら本当にその通りらしい。


厄介の方は、もう十分すぎるほど増えておる。


町娘に化けた猫目を見つけ、追手に追われ、物陰へ押し込み、忍びの端くれから「今宵だけ、目になれ」と頼まれた。しかも、その見張りの先には、商人と寺の僧と武家の使いが同じ茶屋へ吸い寄せられるという、実に面白く、実に碌でもないものが待っていた。


「おぬし、目だけはよう利く」


あの娘がそう言うて、ほんの少しだけ口元を緩めたところまで思い返し、わしは軒下で小さく笑った。


褒められた。


いや、たぶん褒められたのだろう。あの娘の物言いでは、半分悪態に聞こえるが、それでも今までの「黙れ」「消えろ」「刺すぞ」に比べれば、だいぶ上等である。


「……いかんな」


自分に言う。


思い出してにやつくのは、あまり上等な男の振る舞いではない。しかも相手は、名も明かさず、顔を変え、追手を持ち、短刀を躊躇なく人の喉へ向ける娘だ。そういう娘に対して、こちらが勝手に親しみを抱くのは、井戸へ顔を突っ込んで「水が冷たかった」と驚くのと同じくらい阿呆らしい。


だが、阿呆らしいと分かっていても、人の心というものは妙なところへ転がる。


それを考えるのは、夜の間だけで十分だ。


朝になれば腹が鳴る。腹が鳴れば、また現実へ戻る。わしのような男にとって、空腹ほどありがたい教えはない。夢や面倒や妙な娘への興味まで、いったん米粒ひとつの値打ちへ戻してくれるからだ。


翌朝。


城下は、昨日と変わらぬようでいて、やはり少しずつ違っていた。


店の戸を開ける音、荷を下ろす音、女たちの水汲みの声。朝の光は淡く、夜の影を追い払ったように見せかける。だが、昨夜茶屋の裏口で動いておったものが、そう簡単に消えるはずもない。


もっとも、そんなことを考えておる間にも腹は減る。


「まずは飯の種じゃ」


そう決めて、わしは昨日と同じく人の集まる辻へ顔を出した。日雇いの口が転がる場所である。行ってみれば、やはり朝から男衆が何人か立っておる。荷担ぎ、人足、使い走り、店の開け閉め。働ける男は多いが、働かせる側は顔の利く者から選びたがる。昨日のように、こちらから足を出していかねば、腹の足しになる仕事はなかなか落ちてこぬ。


それでも、昨日の小さな働きがいくらかものを言うのか、顔を見た女房が「ああ、あの走る若いの」と声をかけてくる。荷をひとつ運んで三文。帳面をひとつ届けて五文。午前のうちに小さな口を二つ三つ拾えれば、その日の気分はずいぶん違う。


「世は顔じゃのう」

と、わしが呟くと、隣で荷を待っておった庄助が鼻を鳴らした。

「顔もそうだが、口だ」

「やはり、わしは城下向きではないか」

「嫌な意味でな」


嫌な意味でも、腹が膨れるなら文句はない。


そんなふうに午前を回し、さて昼をどうするかと思うた頃である。


背後から、聞き慣れた声が飛んできた。


「おぬし、今日は朝からえらく働いておるじゃないか」


振り返れば、おつねであった。


菜を少し入れた籠を下げ、相変わらずきびきびした足でこちらへ歩いてくる。朝の光の中で見るおつねは、町娘らしい元気の塊である。袖をまくればそのまま店を回せそうで、口を開けば人ひとり叱り飛ばせそうで、笑えばその場の空気が少しだけ軽くなる。


「働かぬと飯が食えぬのでな」

と、わしは胸を張る。

「立派なことを言うね。昨日まで、風の向くまま転がる石ころみたいな顔をしていた男が」

「石ころにも奮起する日はある」

「ころころ転がるだけだろう」

「ひどい」


おつねはわしの前まで来たが、今日はいつもの軽い呆れ顔だけではなかった。何と言うか、じろり、と見る目が少し多い。まるで、何かを量っているような顔だ。


「何じゃ」

と、わし。

「何って顔をしておるのは、おぬしだよ」

「今日は棘が少し深いのう」

「そうかい」

「そうじゃ。寝不足か」

「おぬしと一緒にするな」


寝不足、という言葉に、わしは昨夜のことを一瞬思い出した。


茶屋。

猫目。

追手。

物陰。

目になれ。


おつねがわしの顔を見て、眉をひそめる。


「……何だい、その顔」

「どの顔じゃ」

「余計なことを思い出した顔だよ」

「そんな顔まで分かるのか」

「おぬしは分かりやすすぎる」


本日何人目だ、それを言うのは。


だが、おつねの声色には、いつもの調子とは別のものが混じっていた。軽い苛立ちのような、面白くなさのような。理由はまだ見えぬが、どうも機嫌がよくない。


「おつね」

と、わしは慎重に尋ねた。

「何ぞ悪いことでもあったか」

「別に」

「その“別に”は、大抵別にではない」

「おぬしにだけは言われたくない」


ぴしゃりと言われた。


その場にいた庄助が、何やら察したような顔をして、さりげなく離れていく。まことに薄情な男である。いや、空気が読めるとも言うか。


おつねはしばらく黙っておったが、やがて籠を持ち直しながら言うた。


「昨日の夕方、見たよ」

「何を」

「何を、ではない」


やれやれ、とでも言いたげな顔で、おつねはわしを見た。


「おぬし、見知らぬ娘と城下の裏をうろついておったろう」


ああ、そちらか。


わしは心の中で小さく頷いた。


たしかに昨日、町娘の顔をした猫目と、人目を避けるように角を曲がり、細路地へ飛び込んだ。事情を知らぬ者が見れば、まあ、あまり真っ当な絵には見えぬだろう。


「見知らぬと言うか」

と、わしは頭をかいた。

「少し知っておる」

「少し知っておる娘と、ああいうふうに裏へ消えるのかい」

「言い方」

「言い方も何も、そのままだろう」


おつねの顔は笑っておらぬ。


怒っておる、というほどでもない。だが、面白くなさそうである。それも、菜が売れ残ったとか、母親に叱られたとかいう種類の面白くなさではない。もっと、人の腹の奥に引っかかる類のものだ。


「のう」

と、わしは声を和らげた。

「勘違いするでない。あれは――」

「“違う”と言うのだろう」

「うむ」

「だったら違うのだろうさ」

「……」

「でも、違わぬようにも見えるよ」


おつねはそっぽを向いて言った。


その言い方に、わしは少しだけ困った。


おつねは口がきついが、筋の通らぬ怒り方をする娘ではない。見たものを見たと言う。腹立たしいことを腹立たしいと言う。だからこそ、今のように“見え方”の話をされると弱い。


実際、あれは見え方が悪い。


しかも相手は妙に目立たぬくせに目を引く娘だ。わしが横を歩けば、それだけで何やら特別な縁があるように見えてしまうのだろう。


「おつね」

「何だい」

「腹を立てておるか」

「別に」

「また別にではない」

「……少しはね」

「おお」


素直に認められると、今度は返しに困る。


おつねは小さく息を吐いた。

「腹を立てておるというか、呆れておるというか」

「どちらもか」

「どちらもだよ。おぬしは、昨日は火事だの寺だの、今日は働き口だのと、忙しそうにしておるくせに、その合間に妙な娘まで拾うのかと思うとね」

「拾うとはひどい」

「違うのかい」

「……少し違う」

「少しかい」


その“少し”がまたよくなかったらしい。おつねはますます面白くなさそうな顔になった。


「おぬし」

と、彼女は言う。

「人の懐へ入るのが早すぎるんだよ」

「ほう」

「誰にでも軽口を叩いて、誰とでも妙に馴染んで、気づけば面倒ごとの真ん中へおる。見ている方は気が気じゃない」

「見ておるのか」

「見てしまうんだよ」


そこまで言うて、おつねは少しだけ口をつぐんだ。


おや、と思う。


それは、だいぶ本音ではないか。


わしは胸のあたりが、少しだけむず痒くなった。おつねは普段、こういう言い方をあまりせぬ。叱る時は叱る。呆れる時は呆れる。だが“見てしまう”と言うのは、少し違う。放っておけぬ時の言葉だ。


「……それは、ありがたいことじゃのう」

と、わしが言うと、

「そういう返しをするから腹が立つんだよ」

と、すぐ切られた。

「おぬし、本当に何も分かっておらぬ顔をする」

「分からぬことは多い」

「分からぬまま、すいすい人の中へ入る」

「入れるから入る」

「そこが不器用だと言うんだ」


おつねは昨日も似たようなことを言うておった。


器用そうで、一番不器用。


それをまた言われて、わしは少しだけ笑ってしまった。

「やはりそう見えるか」

「見えるよ」

「では、直した方がよいか」

「……」

おつねは少しだけ目を細めた。

「それを直したら、おぬしではなくなるかもしれぬ」

「おお」

「だから、せめて死なぬ程度にしろと言うておる」


その言い方に、おつねらしさが戻っていて、わしはようやく息をついた。


よかった。完全にへそを曲げられたわけではないらしい。


「ならば、今日は死なぬ程度に働く」

と、わし。

「昨日もそう言って寺やら火事やらへ首を突っ込んだのだろう」

「耳が早い」

「城下の娘をなめるな」

「なめてはおらぬ。畏れておる」

「嘘つき」


ようやく、おつねの口元が少しだけ和らいだ。


そこへ、ちょうどよいように、通りの向こうから年配の女がこちらへ歩いてきた。身なりはきちんとしておるが、贅沢ではない。だが袖口や帯の質はよく、歩き方にもどこか“人を使う”慣れがある。町の女房というより、小身の武家屋敷に仕える女中頭か、年かさの侍女に近い。


女は、おつねの籠の菜へ目を留め、それからこちらにもちらりと目を向けた。


「おつね」

と、おつねが声を張る。

「客だよ」

「見れば分かる」

「では黙る」


おつねが菜を勧めると、女は少しばかり買い求めた。そのやり取りの途中で、女の視線がまたわしへ戻る。


「その若いのは」

と、女。

「店の者かい」

おつねが鼻を鳴らす。

「まさか。ただの口のうるさい流れ者です」

「ひどい紹介じゃ」

と、わしが言うと、女は少し笑った。


「口がうるさいのは、走らせるには向いているかもしれぬね」

「走るのは得意です」

「黙っておれ」

と、おつね。

「売り込みをするな」

「売り込みではない。才覚の披露よ」

「同じだよ」


女はおつねとわしを見比べ、それから小さく頷いた。


「実は、ちょうど人手を探しておってね」

「ほう」

と、わし。

「北の方にあるお屋敷へ、少し荷を届けたいのだが、男手が足りぬ。口より足が利くなら使いたい」

「口も足も利きます」

「だから黙れと言うておる」

「いや」

と、女は笑う。

「それくらいの方が、かえって使いやすいこともある」


ほう。


武家屋敷への荷運び。


これは、なかなかよい口ではないか。


城下へ近づけば飯の種も厄介も増える。しかも武家屋敷となれば、ただの町家とはまた別の匂いがある。表向きは荷運び。だが、荷を運ぶ者は門をくぐる。門をくぐれば、人の顔と屋敷の空気を見られる。


「請けます」

と、わしは即答した。

おつねが横で「早い」と呆れたように言う。

「足りぬのは人手だけですか、それとも用心か」

女はわしをじっと見た。

「どちらも少しずつだよ」

「なら、なおさら役に立ちましょう」

「口は立つようだね」

「口だけでは食えませぬので」

「上等」


女はそう言って、届け先と時刻を手短に告げた。小さな屋敷らしい。大名屋敷ほどではないが、きちんとした家だという。届けるのは干し物と薬種、それから文箱ひとつ。妙に取り合わせが気になるが、今は聞かぬ方がよい。


話がまとまると、女は去っていった。


おつねがすぐ横から睨んでくる。

「おぬし」

「何だ」

「今度は武家屋敷へまで出入りする気か」

「仕事じゃ」

「その“仕事”の顔をしておる時が一番怪しい」

「そうか」

「そうだよ」


だが、おつねはそれ以上止めなかった。


止めぬ代わりに、小さく息をついて言う。

「……行くなら、妙なことを言うなよ」

「妙なこととは」

「相手が武家なら、なおさらだ」

「心配してくれるのか」

「荷をひっくり返して戻ってこられると、こっちまで格好が悪い」

「なるほど。おつねらしい」


すると、おつねはほんの少しだけ耳を赤くして、そっぽを向いた。

「さっさと行け」

「承知」


わしは笑いながら一礼した。


城下へ来れば、飯の種も厄介も増える。

そしてどうやら、娘の機嫌まで増えたり減ったりするらしい。


だが、それも悪くない。


武家屋敷への小さな荷運び――その口は、思っていたよりずっと面白いところへ繋がっているかもしれぬ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ