第15話 町娘、面白くなさそうな顔をする
夜というものは、腹が満ちれば少し優しくなる。
もっとも、満ちると言うても、わしの場合は「空腹で倒れぬ程度」の話である。茶屋の表で余った団子を安く拾い、路地の井戸で水を飲み、どうにかその日をつなぐ。城下へ深く入れば飯の種も厄介も増える――そう思うておったが、どうやら本当にその通りらしい。
厄介の方は、もう十分すぎるほど増えておる。
町娘に化けた猫目を見つけ、追手に追われ、物陰へ押し込み、忍びの端くれから「今宵だけ、目になれ」と頼まれた。しかも、その見張りの先には、商人と寺の僧と武家の使いが同じ茶屋へ吸い寄せられるという、実に面白く、実に碌でもないものが待っていた。
「おぬし、目だけはよう利く」
あの娘がそう言うて、ほんの少しだけ口元を緩めたところまで思い返し、わしは軒下で小さく笑った。
褒められた。
いや、たぶん褒められたのだろう。あの娘の物言いでは、半分悪態に聞こえるが、それでも今までの「黙れ」「消えろ」「刺すぞ」に比べれば、だいぶ上等である。
「……いかんな」
自分に言う。
思い出してにやつくのは、あまり上等な男の振る舞いではない。しかも相手は、名も明かさず、顔を変え、追手を持ち、短刀を躊躇なく人の喉へ向ける娘だ。そういう娘に対して、こちらが勝手に親しみを抱くのは、井戸へ顔を突っ込んで「水が冷たかった」と驚くのと同じくらい阿呆らしい。
だが、阿呆らしいと分かっていても、人の心というものは妙なところへ転がる。
それを考えるのは、夜の間だけで十分だ。
朝になれば腹が鳴る。腹が鳴れば、また現実へ戻る。わしのような男にとって、空腹ほどありがたい教えはない。夢や面倒や妙な娘への興味まで、いったん米粒ひとつの値打ちへ戻してくれるからだ。
翌朝。
城下は、昨日と変わらぬようでいて、やはり少しずつ違っていた。
店の戸を開ける音、荷を下ろす音、女たちの水汲みの声。朝の光は淡く、夜の影を追い払ったように見せかける。だが、昨夜茶屋の裏口で動いておったものが、そう簡単に消えるはずもない。
もっとも、そんなことを考えておる間にも腹は減る。
「まずは飯の種じゃ」
そう決めて、わしは昨日と同じく人の集まる辻へ顔を出した。日雇いの口が転がる場所である。行ってみれば、やはり朝から男衆が何人か立っておる。荷担ぎ、人足、使い走り、店の開け閉め。働ける男は多いが、働かせる側は顔の利く者から選びたがる。昨日のように、こちらから足を出していかねば、腹の足しになる仕事はなかなか落ちてこぬ。
それでも、昨日の小さな働きがいくらかものを言うのか、顔を見た女房が「ああ、あの走る若いの」と声をかけてくる。荷をひとつ運んで三文。帳面をひとつ届けて五文。午前のうちに小さな口を二つ三つ拾えれば、その日の気分はずいぶん違う。
「世は顔じゃのう」
と、わしが呟くと、隣で荷を待っておった庄助が鼻を鳴らした。
「顔もそうだが、口だ」
「やはり、わしは城下向きではないか」
「嫌な意味でな」
嫌な意味でも、腹が膨れるなら文句はない。
そんなふうに午前を回し、さて昼をどうするかと思うた頃である。
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
「おぬし、今日は朝からえらく働いておるじゃないか」
振り返れば、おつねであった。
菜を少し入れた籠を下げ、相変わらずきびきびした足でこちらへ歩いてくる。朝の光の中で見るおつねは、町娘らしい元気の塊である。袖をまくればそのまま店を回せそうで、口を開けば人ひとり叱り飛ばせそうで、笑えばその場の空気が少しだけ軽くなる。
「働かぬと飯が食えぬのでな」
と、わしは胸を張る。
「立派なことを言うね。昨日まで、風の向くまま転がる石ころみたいな顔をしていた男が」
「石ころにも奮起する日はある」
「ころころ転がるだけだろう」
「ひどい」
おつねはわしの前まで来たが、今日はいつもの軽い呆れ顔だけではなかった。何と言うか、じろり、と見る目が少し多い。まるで、何かを量っているような顔だ。
「何じゃ」
と、わし。
「何って顔をしておるのは、おぬしだよ」
「今日は棘が少し深いのう」
「そうかい」
「そうじゃ。寝不足か」
「おぬしと一緒にするな」
寝不足、という言葉に、わしは昨夜のことを一瞬思い出した。
茶屋。
猫目。
追手。
物陰。
目になれ。
おつねがわしの顔を見て、眉をひそめる。
「……何だい、その顔」
「どの顔じゃ」
「余計なことを思い出した顔だよ」
「そんな顔まで分かるのか」
「おぬしは分かりやすすぎる」
本日何人目だ、それを言うのは。
だが、おつねの声色には、いつもの調子とは別のものが混じっていた。軽い苛立ちのような、面白くなさのような。理由はまだ見えぬが、どうも機嫌がよくない。
「おつね」
と、わしは慎重に尋ねた。
「何ぞ悪いことでもあったか」
「別に」
「その“別に”は、大抵別にではない」
「おぬしにだけは言われたくない」
ぴしゃりと言われた。
その場にいた庄助が、何やら察したような顔をして、さりげなく離れていく。まことに薄情な男である。いや、空気が読めるとも言うか。
おつねはしばらく黙っておったが、やがて籠を持ち直しながら言うた。
「昨日の夕方、見たよ」
「何を」
「何を、ではない」
やれやれ、とでも言いたげな顔で、おつねはわしを見た。
「おぬし、見知らぬ娘と城下の裏をうろついておったろう」
ああ、そちらか。
わしは心の中で小さく頷いた。
たしかに昨日、町娘の顔をした猫目と、人目を避けるように角を曲がり、細路地へ飛び込んだ。事情を知らぬ者が見れば、まあ、あまり真っ当な絵には見えぬだろう。
「見知らぬと言うか」
と、わしは頭をかいた。
「少し知っておる」
「少し知っておる娘と、ああいうふうに裏へ消えるのかい」
「言い方」
「言い方も何も、そのままだろう」
おつねの顔は笑っておらぬ。
怒っておる、というほどでもない。だが、面白くなさそうである。それも、菜が売れ残ったとか、母親に叱られたとかいう種類の面白くなさではない。もっと、人の腹の奥に引っかかる類のものだ。
「のう」
と、わしは声を和らげた。
「勘違いするでない。あれは――」
「“違う”と言うのだろう」
「うむ」
「だったら違うのだろうさ」
「……」
「でも、違わぬようにも見えるよ」
おつねはそっぽを向いて言った。
その言い方に、わしは少しだけ困った。
おつねは口がきついが、筋の通らぬ怒り方をする娘ではない。見たものを見たと言う。腹立たしいことを腹立たしいと言う。だからこそ、今のように“見え方”の話をされると弱い。
実際、あれは見え方が悪い。
しかも相手は妙に目立たぬくせに目を引く娘だ。わしが横を歩けば、それだけで何やら特別な縁があるように見えてしまうのだろう。
「おつね」
「何だい」
「腹を立てておるか」
「別に」
「また別にではない」
「……少しはね」
「おお」
素直に認められると、今度は返しに困る。
おつねは小さく息を吐いた。
「腹を立てておるというか、呆れておるというか」
「どちらもか」
「どちらもだよ。おぬしは、昨日は火事だの寺だの、今日は働き口だのと、忙しそうにしておるくせに、その合間に妙な娘まで拾うのかと思うとね」
「拾うとはひどい」
「違うのかい」
「……少し違う」
「少しかい」
その“少し”がまたよくなかったらしい。おつねはますます面白くなさそうな顔になった。
「おぬし」
と、彼女は言う。
「人の懐へ入るのが早すぎるんだよ」
「ほう」
「誰にでも軽口を叩いて、誰とでも妙に馴染んで、気づけば面倒ごとの真ん中へおる。見ている方は気が気じゃない」
「見ておるのか」
「見てしまうんだよ」
そこまで言うて、おつねは少しだけ口をつぐんだ。
おや、と思う。
それは、だいぶ本音ではないか。
わしは胸のあたりが、少しだけむず痒くなった。おつねは普段、こういう言い方をあまりせぬ。叱る時は叱る。呆れる時は呆れる。だが“見てしまう”と言うのは、少し違う。放っておけぬ時の言葉だ。
「……それは、ありがたいことじゃのう」
と、わしが言うと、
「そういう返しをするから腹が立つんだよ」
と、すぐ切られた。
「おぬし、本当に何も分かっておらぬ顔をする」
「分からぬことは多い」
「分からぬまま、すいすい人の中へ入る」
「入れるから入る」
「そこが不器用だと言うんだ」
おつねは昨日も似たようなことを言うておった。
器用そうで、一番不器用。
それをまた言われて、わしは少しだけ笑ってしまった。
「やはりそう見えるか」
「見えるよ」
「では、直した方がよいか」
「……」
おつねは少しだけ目を細めた。
「それを直したら、おぬしではなくなるかもしれぬ」
「おお」
「だから、せめて死なぬ程度にしろと言うておる」
その言い方に、おつねらしさが戻っていて、わしはようやく息をついた。
よかった。完全にへそを曲げられたわけではないらしい。
「ならば、今日は死なぬ程度に働く」
と、わし。
「昨日もそう言って寺やら火事やらへ首を突っ込んだのだろう」
「耳が早い」
「城下の娘をなめるな」
「なめてはおらぬ。畏れておる」
「嘘つき」
ようやく、おつねの口元が少しだけ和らいだ。
そこへ、ちょうどよいように、通りの向こうから年配の女がこちらへ歩いてきた。身なりはきちんとしておるが、贅沢ではない。だが袖口や帯の質はよく、歩き方にもどこか“人を使う”慣れがある。町の女房というより、小身の武家屋敷に仕える女中頭か、年かさの侍女に近い。
女は、おつねの籠の菜へ目を留め、それからこちらにもちらりと目を向けた。
「おつね」
と、おつねが声を張る。
「客だよ」
「見れば分かる」
「では黙る」
おつねが菜を勧めると、女は少しばかり買い求めた。そのやり取りの途中で、女の視線がまたわしへ戻る。
「その若いのは」
と、女。
「店の者かい」
おつねが鼻を鳴らす。
「まさか。ただの口のうるさい流れ者です」
「ひどい紹介じゃ」
と、わしが言うと、女は少し笑った。
「口がうるさいのは、走らせるには向いているかもしれぬね」
「走るのは得意です」
「黙っておれ」
と、おつね。
「売り込みをするな」
「売り込みではない。才覚の披露よ」
「同じだよ」
女はおつねとわしを見比べ、それから小さく頷いた。
「実は、ちょうど人手を探しておってね」
「ほう」
と、わし。
「北の方にあるお屋敷へ、少し荷を届けたいのだが、男手が足りぬ。口より足が利くなら使いたい」
「口も足も利きます」
「だから黙れと言うておる」
「いや」
と、女は笑う。
「それくらいの方が、かえって使いやすいこともある」
ほう。
武家屋敷への荷運び。
これは、なかなかよい口ではないか。
城下へ近づけば飯の種も厄介も増える。しかも武家屋敷となれば、ただの町家とはまた別の匂いがある。表向きは荷運び。だが、荷を運ぶ者は門をくぐる。門をくぐれば、人の顔と屋敷の空気を見られる。
「請けます」
と、わしは即答した。
おつねが横で「早い」と呆れたように言う。
「足りぬのは人手だけですか、それとも用心か」
女はわしをじっと見た。
「どちらも少しずつだよ」
「なら、なおさら役に立ちましょう」
「口は立つようだね」
「口だけでは食えませぬので」
「上等」
女はそう言って、届け先と時刻を手短に告げた。小さな屋敷らしい。大名屋敷ほどではないが、きちんとした家だという。届けるのは干し物と薬種、それから文箱ひとつ。妙に取り合わせが気になるが、今は聞かぬ方がよい。
話がまとまると、女は去っていった。
おつねがすぐ横から睨んでくる。
「おぬし」
「何だ」
「今度は武家屋敷へまで出入りする気か」
「仕事じゃ」
「その“仕事”の顔をしておる時が一番怪しい」
「そうか」
「そうだよ」
だが、おつねはそれ以上止めなかった。
止めぬ代わりに、小さく息をついて言う。
「……行くなら、妙なことを言うなよ」
「妙なこととは」
「相手が武家なら、なおさらだ」
「心配してくれるのか」
「荷をひっくり返して戻ってこられると、こっちまで格好が悪い」
「なるほど。おつねらしい」
すると、おつねはほんの少しだけ耳を赤くして、そっぽを向いた。
「さっさと行け」
「承知」
わしは笑いながら一礼した。
城下へ来れば、飯の種も厄介も増える。
そしてどうやら、娘の機嫌まで増えたり減ったりするらしい。
だが、それも悪くない。
武家屋敷への小さな荷運び――その口は、思っていたよりずっと面白いところへ繋がっているかもしれぬ。




