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『のちの豊臣秀吉ですが、今はまだ草履取りです 〜戦国乱世を走り回っていたら、くノ一も姫君もやたら近い〜』  作者: 常陸之介寛浩 


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第13話 細路地ひとつ、距離は近すぎる

細路地へ飛び込んだ瞬間、娘は本気でわしの手を振り払おうとした。


「離せ!」

「離したら、向こうが喜ぶ」

「誰のせいだ!」

「半分はおぬしのせいでもある」

「ない!」


ないらしい。


だが、言い合う間にも足は止めぬ。細い路地は、昼でも薄暗い。板塀と裏戸のあいだを縫うように伸び、途中に木箱や桶、干した縄、壊れかけた荷車の輪が無造作に置かれている。こういう道は、慣れぬ者が走るとすぐ音を立てる。


娘は慣れておる。わしも、それなりには慣れておる。


後ろで男らの足音が速まった。


「あっちへ入ったぞ」

「見失うな」

「裏へ回れ!」


やはり二人だけではないらしい。


「ちっ」

と、娘が本気で舌打ちした。

「おぬしが声をかけるからだ」

「もともと見られておった」

「それでも目立った」

「おぬしが町娘にしては美しすぎるせいではないか」

「黙れ」


そう言うた次の瞬間、娘はわしの手を今度は自分から引いた。


「こっちだ」


おや、と思う。


さっきまでは振り払おうとしておったくせに、今は逆に引く。つまり、もう言い合うより先に逃げる方が大事だと判断したのだ。よい判断である。わしも同意だ。


娘が折れ曲がった路地の先へ滑り込む。そこはさらに狭く、板塀と土壁の隙間が人一人ぶんあるかないかという場所だった。しかも奥には古い木戸が打ちつけられており、袋小路である。


「おい」

と、わし。

「行き止まりではないか」

「知っている」

「知っていて入ったのか」

「だからここでやり過ごす」


言うや否や、娘は路地の端、崩れかけた土壁のくぼみと積まれた木箱の影のあいだへ身を滑り込ませた。そこは人ひとり隠れるのがやっと――いや、ふたりならどう考えても近すぎる場所である。


「早く入れ」

「いや、狭い」

「だから何だ」

「何だ、ではない。男女の距離としていかがなものか」

「今、そういうことを言うておる場合か」

「ごもっとも」


ごもっともだが、ごもっともで済まぬ近さでもある。


後ろの足音がもうすぐそこまで来ていた。選り好みはできぬ。わしは諦めて娘のいる物陰へ体を押し込んだ。


狭い。


近い。


想像以上に近い。


板塀が背へ当たり、前には娘の体温がある。肩が触れ、腕が触れ、息がかかる。娘の方は細いくせに、身の置き方がうまい。狭い場所で体を折り、音を立てぬようにする癖が染みついておる。だがそのせいで、こちらは余計に逃げ場がない。


「……」

「……」


しばし無言になる。


こういう時、何か言わねば落ち着かぬのがわしの悪い癖だ。


「のう」

と、わしは小声で言った。

「黙れ」


返しが早い。


「まだ何も」

「何を言う気か分かる」

「いや、今のは“近いのう”くらいで」

「だから黙れ」


娘の声は低い。低いが、顔はすぐ目の前だ。町娘ふうに整えた顔立ちの上に、今はあの猫目が本気でこちらを睨んでいる。こうして近くで見ると、睫毛が思ったより長いだの、頬に薄くかかった髪がだのと、余計なことまで見えてしまって困る。


「おぬし」

と、娘が囁くように言った。

「今、変なことを考えたら刺すぞ」

「ひどい」

「顔に出ている」

「何もしておらぬ」

「考えておる」

「少し」

「十分だ」


次の瞬間、娘の手が動いた。


短刀だった。


袖の内から音もなく出てきて、ひやりとした刃がわしの喉元すれすれに当たる。ほんの少しでもこちらが不用意に動けば、薄く血が出るだろう位置だ。


わしは素直に口を閉じた。


「……」

「ようやく静かになったな」

「この距離で刃を出す娘もどうかと思うぞ」

「この距離で軽口を叩く男に言われとうない」


まことにもっとも。


だが、恐ろしい娘である。こうして人の喉へ刃を当てる手つきに、一分の迷いもない。脅しておるというより、本当に必要ならやる手つきだ。


外で男らの足音が止まった。


「どこへ行った」

「こっちへ入ったはずだ」

「くそ、細けえ路地ばかりだ」

「表へ回るか?」

「待て、音を聞け」


息を殺す。


狭い物陰の中で、わしと娘の呼吸だけがやけに大きく感じられる。娘は短刀を引かぬ。わしも動けぬ。鼻先に、昼間あの守りから感じたのと同じ、乾いた香の匂いがかすかにある。土壁の湿り気と、木箱の古い木の匂いに混じって、それだけが妙に鋭い。


「……」

娘がほんの少し身を寄せた。

「喋るな」

「喋っておらぬ」

「息も静かにしろ」

「それは難しい注文だ」


すると短刀の切っ先が、さらに半寸ばかり近づいた。


「分かった、分かった」


声にならぬ声でそう言うたところで、外から別の足音が駆けてきた。


「おい! 向こうで見つかったかもしれん!」

「本当か」

「大路の方だ!」

「ちっ、急げ!」


男らの足音が遠ざかる。


まだ安心はできぬが、ひとまずこちらの目は逸れたらしい。


娘はしばらくそのまま気配をうかがっていた。さすがである。わしなら、今の時点で「助かった」と気を抜いておる。だがこの娘は違う。男らの足音が角を二つ三つ曲がるまで、微動だにせぬ。


ようやく短刀が少し下がった。


「……助かったのう」

と、わしが囁く。

「まだだ」

「用心深い」

「生きるためだ」

「毎度思うが、おぬしは本当に――」


そこまで言いかけて、わしは少し言葉を選んだ。


町娘の仮面をしておるが、今の姿はもう隠しようがない。短刀を持つ手、狭い場所へ滑り込む身のこなし、追われながらも迷わぬ目。普通の娘ではない。村娘でも町娘でも、ましてや寺前で炊き出しを待つだけの者ではない。


「何だ」

と、娘が言う。

「今さら黙るな」

「いや」

わしは喉元からようやく離れた刃を横目で見ながら答えた。

「おぬし、やはり、そういう者なのだな」

「そういう、とは」

「人の裏を走る者じゃ。忍びか、その端くれか」

娘の目が、わずかに動いた。


今度は怒りではない。


測る目だ。


「なぜそう思う」

「まず、普通の娘は短刀を喉へ当てる手つきがうますぎぬ」

「褒めておるのか」

「たぶん」

「たぶんで言うな」

「あと、狭い場所へ逃げ込む時の迷いがない。追手の足音の数で動きを決めておる。身を隠しながら、外の音の返りまで聞いておる」

「……」

「それに、顔を変える。町娘にも、村娘にもなる。そういうことを教わった者でなければ、ああはできぬ」


娘はしばらく黙っていた。


わしも黙る。こういう時に、これ以上軽口を足すと本当に刺されかねぬ。


外ではもう、先ほどの男らの気配はかなり薄れていた。遠くで荷車の軋む音、誰かが戸を閉める音、犬が一声吠える声が聞こえる。城下は何事もなかったように日暮れへ向かっておる。人の追い追われなど、通りの喧噪に紛れればすぐ見えなくなる。


やがて娘が、小さく息を吐いた。


「忍び」

と、娘は低く言った。

「そういう大層なものではない」

「ほう」

「わしは、まだ端くれだ」

「端くれでも十分すぎる」

「おぬしのような男に見抜かれる程度では、まだまだだ」

「それは褒めてよいのか」

「気味が悪いと言うておる」


どうやら褒められてはおらぬらしい。


だが、今のは大きい。


この娘が、自分からそこまで口を滑らせたのだ。忍びそのものとは言わずとも、その端におる者。人の裏を走り、顔を変え、短刀を持ち、得体の知れぬ男どもに追われる側の娘。


「なるほど、猫目」

「呼ぶな」

「忍びの端くれであったか」

「端くれだと言うた」

「では“忍び猫”か」

「黙れ」


また短刀が上がりかけたので、わしは急いで口を閉じた。


だが、娘も完全に怒っておるわけではないようだった。というより、この狭い物陰の中で、ずっと本気で怒り続けるのも難しいのだろう。人が近すぎると、怒りの置き場にも困るものだ。


娘は短刀を袖へ戻した。


その仕草だけで、少し空気がゆるむ。もちろん、ゆるんだからといって近さは変わらぬ。相変わらず肩は触れ、息も近い。こちらが目を逸らせば鼻先が触れそうな距離だ。こういうのを色めいた何かと呼ぶ男も世にはおるだろうが、今のところは緊張の方が勝っておる。


「……のう」

と、わしは言った。

「今の男らは何者じゃ」

「知らぬ」

「嘘だ」

「全部は知らぬ」

「では少しは知っておる」

「おぬし、ほんに嫌な取り方をするな」

「そうか」

「そうだ」


娘は目を伏せ、少しだけ考えるように黙った。


その横顔は、町娘の姿をしておるくせに、今はどこにも属さぬ娘の顔である。いや、正しくは“どこかへ属しておるからこそ、本当の顔を持てぬ娘”の顔か。


「……今夜だけだ」

と、娘はぽつりと言った。

「何が」

「おぬしに頼むのは」

「ほう」


頼む。


この娘の口から、そういう言葉が出るのは二度目だ。いや、前は借りができたと言うただけで、頼みではなかったか。だが今は違う。明らかに、言いたくないことを言う前の間である。


わしは少し身を引こうとしたが、狭すぎて大して引けなかった。

「聞こう」

「軽く言うな」

「重く聞けと」

「……」


娘はわしを見た。


目つきは鋭い。鋭いが、その奥に、ほんの少しだけ迷いがある。信じるほどではない。だが、一人では足りぬ時の顔だ。


「今宵だけ」

と、娘は言った。

「目になれ」


一瞬、意味を取り違えそうになった。


だが娘の顔を見れば分かる。色めいた話ではない。そんなものが入り込む隙間は、この娘の声にも目にもない。


目になれ。


つまり、見張れ、見ておけ、拾え、ということだ。


わしの耳と鼻と、余計なところまで見る目を、今夜だけ貸せと言っておる。


「……ほう」

と、わしはようやく答えた。

「それは、だいぶ大きな頼みではないか」

「嫌なら忘れろ」

「嫌とは言うておらぬ」

「まだ言うておらぬだけだ」

「慎重じゃのう」

「おぬしの慎重さが足りぬだけだ」


もっともである。


だがわしの胸は、少しだけ騒いでいた。


飯の種を探しに城下へ来て、追手のいる路地へ飛び込み、狭い物陰で短刀を喉へ当てられ、気づけば忍びの端くれに“目になれ”と頼まれておる。


どう考えても、まともな日の運びではない。


まともではないが――面白い。


面白い、と思うたことを、さすがに今ここで口に出すほど、わしも命知らずではなかった。

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