第10話 笑う男は、まだ乱世の入口に立ったばかり
火というものは、消した後の方が厄介である。
燃えておる時は、皆が同じ方を向く。水を運べ、土をかけろ、藁を離せ、子を下がらせろ。やるべきことがはっきりしておるから、人の頭も体もそれに従う。
だが、火が落ち着き、煙だけが白く残る頃になると、今度は皆の目が違う方を向き始める。
誰の火だ。
どこから出た。
なぜあそこだった。
誰か見た者はおらぬか。
この頃うろついておる妙な影は何だ。
そういう問いが、夜気の中でじわじわと広がっていく。
納屋の裏で見つけた足跡を前に、わしはしばらく黙り込んでいた。隣では農村娘もまた、腕を組んで土を見下ろしておる。
村の者らはまだ火の後始末に忙しい。濡れた藁を寄せ、燃えかけた板を外し、焦げた納屋の柱を確かめる。誰もが手を動かしてはいるが、その顔の奥には別の仕事がもう始まっていた。
疑う、という仕事である。
「おい」
と、年長の男がこちらへ声をかけた。
「何か見つけたのか」
農村娘がわしより先に立ち上がった。
「まだ何とも言えぬ」
「足の跡が少し妙じゃ」
と、わしも言う。
「誰のものかは分からぬが、火を見て駆けつけた足とは違うように思う」
年長の男は近づいてきて、目を凝らした。
夜の土は見づらい。しかも火事場の混乱の後だ。分かる者にしか分からぬし、分からぬ者には何でも草履の跡に見えるだろう。
「……細いな」
と、男は言った。
「女か?」
「たぶん」
と、わし。
「村の女衆の足より軽い」
農村娘が、低い声で続ける。
「少なくとも、うちの者が火を見て駆けた跡ではない」
その言い方で、男の顔が少しだけ固くなった。
村の者でない。
この一言は、村にとって厄介だ。村の中の揉めごとなら、まだ筋を追える。あそこの家とここの家、年貢の恨み、田の水の争い、嫁入り婿入りのしこり。そういうものは狭い村では隠しきれぬ。
だが外から来る者は違う。名も顔も定まらず、何のために来て何を見ていくのかも分からぬ。村にとって、一番始末の悪い相手である。
男は唇を噛んだ。
「……この頃の“探り”と関わりがあるか」
誰にともなく言うたつもりだったのだろうが、その言葉は夜の空気に重く落ちた。
近くにいた別の女が聞き返す。
「探りって、やはり本当におるのかい」
「昼間、田の上から村を見ておる奴がおったと、弥兵衛が言うておった」
「寺へ行く道でも、見慣れぬ足があった」
「年貢の下調べか」
「盗人の類ではないのか」
「盗人なら、まず納屋を燃やす前に盗るだろうよ」
その通りである。
盗人が狙うなら、まず中身だ。火をつけて騒ぎを起こす手もなくはないが、それにしては火の気が中途半端だ。燃やし尽くすつもりでやったのか、脅しでやったのか、あるいは誰かを見に来たついでか。まだ何も見えぬ。
だが、ひとつだけ言える。
これはただの失火ではない。
「おぬし」
と、農村娘が低く言った。
「何か思い当たる顔をしておるな」
「顔に出ておるか」
「出ておる」
「いかんな」
「いかん」
きっぱり言い切られた。
わしは鼻の頭をかいた。
思い当たる、というほどのものではない。寺の裏で見た僧に化けた男。城下で会った“猫目”の娘。市で聞いたうつけの噂。守りの布地。袋小路での会話。そして今、この村の納屋裏に残る細い足跡。
どれもこれも、まだ点だ。点でしかない。
線を引くには早すぎる。だが、点というのは不思議なもので、一度目につくと、他の点まで呼び寄せる。
「寺と村と城下、か」
思わず呟いていた。
農村娘が眉をひそめる。
「何だ」
「いや」
わしは少し考えながら言葉を継いだ。
「村で変な探りがあり、寺の裏では得体の知れぬ者が動き、城下では城の噂に人がざわついておる。別々のことかもしれぬ。だが、そうでないかもしれぬ」
「何を言うておる」
「分からぬ」
「分からぬのか」
「分からぬから気になる」
農村娘は、呆れ半分、警戒半分の顔でわしを見た。
「おぬし、やはり変だな」
「よう言われる」
「褒めておらぬ」
「それもよう知っておる」
娘は鼻を鳴らしたが、それきり黙った。
その沈黙の間に、村の後始末は少しずつ終わりへ向かっていく。火はもう完全に消え、納屋の焦げた部分へ濡れ筵が掛けられた。子どもは家へ戻され、女衆は口々に小さな不安を交わしながらも、明日の朝の仕事のことを考え始めている。
人は、怖くても暮らさねばならぬ。
それが村だ。
農村娘が、火の消えた納屋を見ながらぽつりと言った。
「こういうのが一番嫌なんだ」
「分からぬ火、か」
「うむ。田が痩せた、苗がやられた、そういうのはまだ“戦う相手”が見える。だが今みたいなのは違う。寝ておる間も、次はどこだと思う」
「ふむ」
「村は狭い。狭いから、一つ不穏があると全部へ回る」
その言葉には、重さがあった。
城下の不穏は、人の数に紛れる。だが村の不穏は、夜の静けさの中で膨らむ。誰かが戸を閉める音ひとつで、あの家が何か隠しておるのではないかと勘繰りたくなる。犬が吠えれば、外に誰かおるのではと思う。
そういう恐れは、腹の減りとはまた別の厄介さで人を削る。
わしのように、今日の寝床を選んで歩く男には、その怖さは少しだけ薄いのかもしれぬ。だが、薄いからといって分からぬわけではない。
「おぬし」
と、農村娘が言う。
「今夜はどうする」
「どうするとは」
「この村の様子を見て回るのか、城下へ戻るのか、それともまたどこぞの軒下へ転がるのか」
「言いよう」
「事実だろう」
「……否定はしづらい」
娘は腕を組んだまま続ける。
「余計なことに首を突っ込むな」
ほう、とわしは目を瞬いた。
「おつねのようなことを言う」
「誰だ」
「町娘じゃ。口が悪い」
「おぬしに言う者は皆そうなる」
それもそうかもしれぬ。
だが、農村娘の言う“首を突っ込むな”は、おつねのそれと少し違う。おつねは呆れながらも、半ば笑っておる。暮らしのうえで無茶をするな、という顔だ。だがこの娘の方はもっと切実である。余計なことに関われば、おぬしだけでは済まぬぞ、という土の重さがある。
「おぬしはそのうち刺される」
と、娘は言った。
「今日みたいな足跡を見て喜ぶ顔の男は、長生きせぬ」
「喜んではおらぬ」
「鼻が利いた時の顔だ」
「それも見えるのか」
「分かりやすすぎる」
本日二度目である。
どうやら、分かりやすすぎるのはわしの悪癖らしい。いや、悪癖と言うより、隠しおおせぬのだ。腹が減れば顔に出る。面白いことを見れば目が動く。気になるものがあれば、つい足が向く。これでよく今まで首がつながっておったものである。
村人たちは少しずつ散り始めた。
火元を見張る者を二人残し、年寄りは家々へ「戸をよく閉めよ」と声をかける。女衆は井戸の水を確かめ、子どもの数を確かめ、男衆は焦げた納屋の修繕の段取りを低い声で話しておる。
戦国の世とは、槍と馬だけではない。
焼けた納屋ひとつ、濡れた藁ひと束、眠れぬ夜ひとつで、人はずいぶん削られる。
「のう」
と、わしは農村娘へ言った。
「おぬしの家は大丈夫か」
娘は一瞬だけ、意外そうな顔をした。
「何がだ」
「こういう火の後は、皆ぴりつく。家へ戻れば母御も弟妹も気が立っておろう」
「……弟はおらぬ」
「では妹か」
「それもおらぬ」
「では、おぬしひとり娘か」
「何を探る」
「話をしておるだけじゃ」
「そういうところが怪しい」
「難しいのう」
娘は小さくため息をついた。
「家は大丈夫だ。大丈夫でなければ、こうしておぬしの相手はせぬ」
「なるほど、ありがたい」
「ありがたがるな」
「だが、火事の後にこうして喋ってくれるというのは、それなりに」
「喋るな。帰れ」
しっしと追うように手を振られた。
どうやら今宵はここまでらしい。これ以上粘れば、本当に桶でも投げられそうである。
「分かった、帰る」
と、わしは言うた。
「だがひとつだけ」
「まだあるのか」
「今夜の火、もしまた似たようなことがあれば、村だけの話ではないやもしれぬ」
「何が言いたい」
「寺でも少し妙なものを見た」
娘の目が細くなった。
「寺?」
「うむ。城下でもな」
「それを先に言え」
「先に言うと、おぬしが余計に怒ると思うた」
「怒る」
「やはり」
「当たり前だ」
もっともである。
わしは苦笑した。
「今はまだ、何も掴めておらぬ。じゃが、誰かが村と寺と城下を結ぶように動いておる気がする。火をつけたのがその筋の者かは分からぬ。だが、ただの盗人や野良仕事ではない匂いがする」
娘はしばらく黙っていた。
夜風が、焦げた藁の匂いを運ぶ。
「……匂い、か」
「うむ」
「おぬしは本当に、鼻で生きておるな」
「腹でも生きておる」
「どちらでもよい。だが、その鼻はいつか災いを呼ぶ」
「それもよく言われる」
「今ので何人目だ」
「町娘と、おぬしと……あと一人」
「誰だ」
「目つきの悪い娘」
「……」
農村娘は、その答えにあきれたように首を振った。
「おぬしの周りには、碌でもない女しか寄らぬのか」
「失礼な。町娘はだいぶましじゃ」
「比べて言うな」
「では、おぬしもましな方か」
「帰れ」
今度は本気で追われた。
わしは両手を上げ、素直に一歩下がった。
「分かった、分かった。火の番は頼む」
「おぬしに頼まれずともする」
「立派じゃ」
「だから褒めるな」
「褒められて伸びる方ではないか」
「おぬしと一緒にするな」
そう言いながらも、娘の顔つきは先ほどより少しだけやわらいで見えた。完全に追い払う顔ではなく、どうしようもない男を見送る時の顔だ。
村を離れ、わしは夜道を城下の方へ戻り始めた。
道は暗い。ところどころに家の灯りが滲み、田の水が細く空を映している。虫の音はまだ少なく、風の方がよく聞こえる。歩きながら、わしは今夜のことを反芻していた。
寺で会うた猫目。
守りの結び目。
坊主に化けた男。
市で聞いた“うつけ”の噂。
火のついた納屋。
村の者の言う“探り”。
そして納屋裏の、細く軽い女の足跡。
今はまだ、どれもこれもぼんやりしている。
だが、ただの盗人や、腹を空かせた野良仕事ではない気配だけは、確かにある。何かが村と寺と城下のあいだを行き来しておる。人か、文か、噂か、火種か。形はまだ見えぬ。見えぬが、流れだけはある。
流れがあるなら、その先には、たぶんもっと大きなものがおる。
「織田、か」
市で聞いた“うつけ”の噂が、また頭をよぎる。
ただの変わり者の若殿なら、人はあそこまで口にせぬ。嫌う者も、恐れる者も、面白がる者も、皆が同じ方角を見ているのなら、その真ん中には何かある。
たぶん、面倒の種だ。
そして面倒ごとというものは、大抵、嫌い嫌いと言いながら鼻先へ来る。
おつねは「余計なことに首を突っ込むな」と言うだろう。
農村娘は「おぬしはそのうち刺される」と言うた。
猫目は、今ごろまたどこかで誰かを見張っておるのかもしれぬ。
皆、だいたい同じことを言う。
関わるな。
見るな。
追うな。
終いにせよ。
「じゃがな」
わしは夜道の真ん中で立ち止まり、空を見上げた。
春の空は暗いくせに高く、星はまだまばらで、風だけがよく通る。城下の方角にはかすかな灯りがあった。人が集まり、噂が集まり、うつけの名が飛び交う方角だ。
わしは、そこで少し笑った。
まだ何も知らぬ。
本当に、何も知らぬ。
自分が今、乱世のどのあたりへ立っておるのかも分からぬし、この先どこまで面倒が膨らむのかも見えておらぬ。飯のことばかり考えておる日も、まだ多い。いや、たぶんこれからも多い。
だが、それでも、胸のどこかでは分かり始めていた。
これは、ただの小さな火事でも、ただの盗人騒ぎでも、ただの目つきの悪い娘でも終わらぬかもしれぬ、と。
「面倒ごとは嫌いじゃ」
わしはそう言った。
そして、口元の笑みを消さぬまま、続けた。
「じゃが、向こうから来るなら仕方あるまい」
風が吹いた。
城下の方から吹く風であった。
わしはその風を顔で受け、草履の鼻緒を軽く締め直した。
さて。
どうせ面倒が寄ってくるなら、こちらから少し近づいてみるのも悪くない。
織田の城下へ。
うつけと呼ばれる男のいる方へ。
そして、猫目のような娘が何かを隠して走る、その匂いのする方へ。
まだ乱世の入口にも立っておらぬつもりでおったが、どうやら片足くらいは、もうそこへ踏み込んでいるのかもしれぬ。




