第1話 腹が減っては、乱世も渡れぬ
腹が減っていると、人はろくなことを考えぬ。
たとえば今のわしがそうである。
尾張の春先の道は、見た目ばかりはのどかでよい。田にはまだ水が浅く、畦には草が低く、遠くで鶯が鳴いておる。風はぬるく、空はよく晴れ、こうして何も食わずに歩いておらねば、なんとも結構な景色であったろう。
だが腹が減っている。
それも、朝から何も口にしておらぬという程度ではない。昨日の晩から、まともなものを食っておらぬ。口にしたのは、道ばたで拾った酸っぱい木の実ひとつと、親切な婆さまから恵んでもろうた薄い湯ひと椀だけである。湯は湯でありがたいが、腹はそれを飯と認めてはくれぬ。
わし――日吉丸は、道の真ん中で一度立ち止まり、空を仰いだ。
「のう、お天道さま。そろそろ、わしにも何ぞ落としてくれてよい頃合いではないか」
返事はない。あるわけがない。
ただ、眩しいほどの陽がじりじりと照りつけてきて、ますます腹の中がからっぽであることを思い知らせてくるばかりであった。
「けちな方じゃのう」
ぶつくさ言いながら、わしはまた歩き出した。
草履の鼻緒は擦り切れかけ、着物は何度も繕った跡だらけ、帯もくたびれて、胸を張れるような身なりではない。どこぞの武家の若様なら、わしを見て鼻で笑うだろう。いや、笑ってくれるならまだよい。大抵は目もくれぬ。
だが、目をくれぬからとて腹は減るし、腹が減るからとて死ぬわけにもいかぬ。世の中とは、案外しぶとくできておる。わしもまた、かなりしぶとくできておる。
今朝まで、わしは荷運びの仕事をしておった。
いや、正しくは、今朝まで荷運びの仕事を“させてもらっておった”と言うべきか。城下へ塩俵を運ぶ手伝いで、重いわ急かされるわ、親方の機嫌は悪いわで、まことにろくでもない仕事であったが、腹に何か入るだけでもありがたい。
ありがたいはずだったのだが、どうも親方殿はわしの顔を見るたび「おぬしは口が軽すぎる」「手は動かさず舌ばかり回る」「客に余計なことを言う」と不機嫌になっていき、ついに今朝、
『もうよい、どこぞへ行け! おぬしひとりおると、三人分やかましい!』
と怒鳴って、わしの尻を蹴り飛ばした。
ひどい話である。
確かにわしは、荷の軽重を見て運ぶ順を変えたし、崩れそうな積み方を見かねて直したし、ぐずぐずしておった年長の男衆に「その手つきでは俵も泣くぞ」と言うた。だが、どれもこれも仕事のためではないか。
まあ、最後のひと言は少しばかり余計であったかもしれぬ。
「少し、のう……」
自分で言うて、自分で首をかしげる。
たぶん少しではない。かなり余計であった。
とはいえ、終わったことは仕方ない。尻に蹴りの痛みが少し残っておるが、腹の減りに比べれば蚊ほどのものだ。人は痛みより飢えのほうがつらい。これは近ごろのわしが得た、まことに役に立たぬ知恵である。
道は村と村の境へ続いていた。
尾張の村々は、どこも似たようでいて、案外違う。畦の幅、家の寄せ方、井戸の深さ、女たちの声の張り。そういうものを見ておると、その村が豊かか、ぎりぎりか、揉めごとが多いか、少しばかり分かるようになる。
目の前の村境は、どうやら揉めごとが多い側らしい。
わしがそれに気づいたのは、人の怒鳴り声が風に乗って飛んできたからだ。
「だから、そっちの田へ水を入れすぎじゃと言うとるだろうが!」
「何を言うか! こっちは昨日、おぬしらが堰をいじったせいで半日も干上がったわ!」
「証はあるのか、証は!」
「そんなもの、田を見りゃ分かるだろうが!」
実に景気のよい怒鳴り合いである。
道を折れて少し行くと、小さな水路の脇に男たちが集まり、赤い顔をしてにらみ合っていた。片やこちらの村の百姓、片やあちらの村の百姓。年かさの者もおれば若い者もおる。鍬を持ったままの者までいて、あれではいつ殴り合いになってもおかしくない。
女たちが離れたところで不安そうに見ており、子どもが何人か泣きそうな顔で母親の裾にしがみついている。
「ああ、これは腹いっぱい見た顔じゃのう」
わしは思わずつぶやいた。
米と水と土地。そこに季節が絡めば、人はたいてい怒る。怒るのは仕方ない。仕方ないが、その怒りを拳に変えると、後で損をするのもたいてい百姓である。侍は喧嘩しても誰かが取りなすが、百姓は喧嘩して土を荒らせば、その年の実りまで逃げる。
しかも今は春先だ。これから田をどう動かすかで一年が変わる。
わしは少し考え、それから腹を押さえた。
本来なら、余計なことには関わらぬ方がよい。今のわしは、飯もなく、宿もなく、金もなく、ついでに仕事もない。つまり余裕がひとつもない。ならば揉めごとに首を突っ込むのは阿呆のすることだ。
だが、こういう時のわしは、大抵その阿呆になる。
理由はいくつかある。ひとつは、放っておくと気分が悪いから。ひとつは、うまく収まれば礼が出るかもしれぬから。そして何より、怒鳴り合う人間を見ておると、つい口を出したくなるからである。
わしはにやりと笑って、輪の中へ入った。
「おお、景気がよいのう! 春祭りにはまだ早いぞ」
全員の視線が一斉にこちらへ向いた。
見知らぬ痩せた若造が、へらへらしながら割り込んできたのだから無理もない。
「何だ、おぬしは」
「どこの者だ」
「関わるな、部外者は引っ込んでおれ」
口々に飛んでくる。至極もっとも。
だがここで怯んでは、ただの邪魔者で終わる。わしは肩をすくめて、できるだけ呑気な声を出した。
「部外者は当たりじゃ。じゃが、腹の減った旅の者は、揉めごとを見るとつい気になってしまうでな。殴り合いが始まれば、止めるふりをして何か恵んでもらえるやもしれぬ、と思うての」
数人があきれたような顔をした。年寄りのひとりなど、怒る前に目を白黒させておる。
よし、まずは拍子を崩した。
喧嘩は勢いが命だ。勢いが続くから殴る。ならば一度、その勢いを横から折ればよい。
「ふざけるな」
と若い男が前へ出た。腕っぷしには自信がありそうで、眉間に深い皺を寄せておる。
「ふざけとるとも。怒っとるところへ真顔で入れば、余計に怒るだけじゃろうが」
そう返すと、男は言葉に詰まった。後ろからくすりと笑う声がした。女たちだ。
これでよい。喧嘩は見物人が笑うと、少しだけ熱が冷める。
わしは水路をのぞきこんだ。細い流れだが、村にとっては命の筋だ。板で作った小さな堰があり、その位置がほんの少し変わっている。なるほど、これでは流れの偏りが出る。
「ふむ」
しゃがみこんで土を指で触る。乾き具合、流れ跡、足跡。素人のわしにも見えることはある。昨日今日で何が起きたかまでは断じられぬが、少なくとも両方とも、自分たちに都合よく言うておるのは確かだ。
「で、どちらが先に堰をいじったのじゃ」
そう聞くと、両方が一斉に相手を指さした。
「こやつらだ!」
「そっちだ!」
「うむ、見事に揃った」
また何人かが吹き出した。
よい、よい。笑いが混じれば拳は遅れる。
わしは立ち上がり、腕を組んだ。
「では、こうしよう。ここで殴り合って勝った方が正しい、というのはどうじゃ」
「何?」
「馬鹿を言うな」
「田の水の話だぞ」
「うむ、わしもそう思う。阿呆らしい。じゃが今のおぬしらは、その阿呆をしようとしておる」
ぴたり、と場が静まった。
風が水面を撫で、小さく光る。誰かが喉を鳴らした音が妙に大きく聞こえた。
わしは続けた。
「殴り合って鼻でも折れれば、明日の田は誰が見る。腕でも痛めれば苗は誰が植える。若い者が頭を割れば、その家の女と年寄りが泣く。で、秋に米が減ったら、喧嘩に勝った方が相手へ飯でも分けるのか?」
誰も答えぬ。
答えられるわけがない。そんな殊勝な喧嘩なら、最初から起きぬ。
年長の百姓が、苦い顔で吐き捨てた。
「ではどうせよと言うのだ、若造」
「簡単じゃ。今ここで、どちらが悪いか決めるのをやめる」
「何だと?」
「決めねば終わらぬだろうが!」
「決めぬでも終わるやりようはある」
わしはその辺に転がっていた細い枝を拾い、土の上に線を引いた。
「今日から三日、朝晩の水の流れを両村からひとりずつ見張る。で、見張りが変なことをしたら、その場で双方立ち会い。加えて、堰はいじる前に必ず両村へ声をかける。これなら、少なくとも“知らぬ間にやられた”は減る」
「そんな面倒を」
と若い男が言いかけたところで、別の年寄りが唸った。
「……だが、面倒でも田は守れる」
「それに」
とわしは、できるだけもっともらしく顎を上げた。
「このまま喧嘩が大きくなれば、庄屋か、その上の誰かが出てくるぞ。そうなれば面倒は三日どころでは済まぬ。年貢の話やら村の不始末やらをほじくり返されて、結局いちばん損をするのはおぬしらだ」
これは半ば脅しである。半ばというか、かなり脅しである。だが嘘ではない。上の者は、下の揉めごとに“道理”で入ってくるとは限らぬ。大抵は“都合”で入ってくる。
その“都合”に踏み荒らされる前に、自分たちで収める。それが一番安い。
男たちは顔を見合わせた。まだ不満はある。あるが、最初のような、今にも飛びかかりそうな熱は消えかけていた。
畦の向こうから、女がひとり言った。
「もう、やめておくれよ。田を荒らすのは水だけでたくさんだよ」
その一言が効いた。
怒りというものは、不思議なもので、家の者の声ひとつで急に馬鹿馬鹿しくなることがある。
若い男が舌打ちし、鍬の柄から手を離した。
「……三日だぞ」
「ああ、三日見て、それでも駄目ならまた話せ」
と年長の者。
「あくまで、両村立ち会いだ」
「分かっとる」
どうやら、収まりそうである。
わしは胸のうちで小さく安堵した。こういう時、いくら口で回したところで、最後に収めるのは本人たちの“引く気”だ。そこがなければ、どうにもならぬ。
やがて片方の村の年寄りが、こちらへじろりと目を向けた。
「若造」
「はいはい」
「どこの者だ」
来た。こういう問いはいつも少し困る。
どこの者かと問われれば、尾張の者であることは確かだ。だがどこの村に根を張るわけでもなく、どこの家に安堵しておるでもない。言いようによっては、風の吹く方へ転がる石ころみたいなものだ。
わしはにやりと笑った。
「腹の減った者です」
何人かがまた吹き出した。
年寄りは呆れた顔をしたが、やがて鼻を鳴らし、近くの女へ言った。
「おい、あれを一つやれ」
「ええ、でも」
「よい。この若造、口は軽いが、役には立った」
女が布に包んだ握り飯を持ってきた。
白い。
ややつぶれ気味ではあるが、立派な握り飯である。
わしは一瞬、目の前が明るくなった気がした。いや、実際に陽は照っておるのだが、そういうことではない。腹を減らした人間にとって、握り飯とは小さな神である。
「おお……!」
思わず両手で受け取る。
塩の香りがする。米の匂いがする。人の世とは美しい。
「ありがたや、ありがたや」
「大げさな」
「大げさではござらぬ。今のわしには、城ひとつもらうより嬉しい」
「城をもらったこともないくせに」
「ないからこそ夢を言うておるのです」
また笑いが起きた。
よい。人が笑うなら、今日はよい日だ。
わしは何度も頭を下げ、その場を辞した。背中に、まだ警戒と苦笑の混ざった視線を感じる。だが、もう構わぬ。今のわしのすべては、この握り飯に向いておる。
道へ戻り、木陰に腰を下ろす。さあ食うぞ、と包みを開こうとした、その時だった。
「兄ちゃん」
か細い声がした。
見れば、道端に痩せた子どもがふたり。姉弟だろう。姉は六つか七つ、弟はもっと小さい。着物はぼろぼろで、足は泥だらけ。こちらの手元を、じっと見ておる。
腹の減った目である。
わしは包みを持ったまま、しばし固まった。
見なかったことにする、という手もあった。今のわしもまた飢えている。飢えた者が飢えた者に施せば、自分も倒れるだけだ。理屈はそうである。
そうであるのだが。
「……ぬう」
わしは空を見上げた。
さっきも言ったが、お天道さまはけちだ。わしに握り飯をひとつ寄越したと思うたら、すぐに“試し”を置いていきおる。
子どもたちは何も言わぬ。ただ見ておる。欲しいとも、くれとも言わぬ。言わぬから余計に始末が悪い。
「まったく……」
わしは包みを開き、握り飯をふたつに割った。いや、正しく言えば、ふたつ半だ。少しだけ、自分の分を大きくした。聖人君子ではないので、それぐらいは許してもらいたい。
「ほれ」
と姉へ渡す。
姉は驚いたように目を見開いた。
「よいの?」
「よくはない。わしも腹が減っておる」
「……じゃあ」
「じゃあもこうもない。早う食え。見ておると気が変わる」
姉は慌てて弟へ半分を渡した。弟は夢中でかじりつく。姉も小さく口をつける。食う時の子どもは静かだ。よいことか悪いことかは分からぬが、少なくとも胸のどこかが痛む。
わしも残りを口へ入れた。
うまい。
塩が利き、米は少し固いが、それがまたうまい。噛むたびに腹の奥が「ああ、来たか」とでも言うように熱くなる。だが当然、量は足りぬ。飢えが消えるほどではなく、むしろ腹が“食いものが来る”と思うて、余計に騒ぎ始めた。
子どもたちは何度も頭を下げて去っていった。
「礼を言われるほどのことではないぞ」
と背へ声をかけると、姉は振り返って小さく笑った。
その笑いを見て、わしは鼻の頭をかいた。
「……結局、また腹が減ったではないか」
誰に文句を言うでもなく呟く。
だが、不思議と気は悪くなかった。
腹は減る。減るが、あの目を見て何もせぬよりは、今の方がずっとましだ。人は飯だけで生きるわけではない――などと、坊主くさいことを言うつもりはない。飯がなければ本当に死ぬ。だが、飯の取り方を間違えると、別のところが死ぬ気もする。
何が死ぬのかは、まだよう分からぬが。
立ち上がり、帯を締め直す。
さて、次の飯である。
こうなれば、どこぞの家の手伝いでも探すか、川で魚でも捕るか、あるいはまた寺へ転がり込むか。寺は運がよければ粥くらい出る。運が悪ければ追い払われる。だが追い払われることには慣れておる。
道を行く女たちが話しているのが耳に入った。
「今日、あそこの寺で炊き出しがあるそうだよ」
「戦で流れてきた者もおるでなあ」
「早う行かんと、なくなるぞ」
わしの耳がぴくりと動いた。
炊き出し。
なんと甘美な響きであろう。
握り飯半分で命をつないだこの身に、炊き出しとは天の赦しも同然である。粥でもよい。芋でもよい。湯に豆ひと粒浮いておるだけでも、今のわしには祝宴だ。
「寺はどこじゃ!」
と、わしは女たちへ駆け寄った。
「あっちの松林を抜けた先だよ」
「近いか」
「走れば、まあ」
「よし!」
わしは礼もそこそこに、走り出した。
足は軽い。腹は重いほど減っているのに、希望があると足というものは勝手に前へ出る。これもまた、人の体の不思議である。
松林の道は、乾いた葉が柔らかく積もり、踏むたびしゃりしゃりと鳴った。木漏れ日が斑に落ち、遠くで鐘のような音が微かに聞こえる。寺だ。間違いない。人の声もする。どうやらまだ間に合いそうである。
「待っておれ、粥!」
と、わしは心の中で叫んだ。
境内が見えた。
粗末ではあるが人が集まり、門のあたりに列ができている。子を抱えた女、腰の曲がった老人、やせた旅人。皆、同じ顔をしておる。腹の減った顔だ。
わしは列の最後尾へ飛び込もうとした。
その時である。
視界の端で、何かが動いた。
いや、正しくは、動いたと気づいた時にはもう遅かった。ひょい、と地面すれすれに差し出された細い足。あまりに自然で、まるで最初からそこにあったような足。
「ぬおっ!?」
間抜けな声が出た。
わしの足首は見事に引っかかり、体が前へ投げ出される。両手をついたが間に合わず、土の上に盛大につんのめった。鼻先に乾いた土の匂いが広がり、口の中へ砂が入る。
「ぶはっ!」
背後で、誰かが小さく息を殺した気配がした。
周りの者たちがざわめく。痛い。痛いが、それ以上に格好がつかぬ。せっかく希望に満ちて駆け込んだというのに、これでは腹を空かせた犬ころが転んだようなものだ。
わしは顔を上げた。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
年の頃はわしとそう違わぬか、少し下か。身なりは質素で、どこにでもおりそうな村娘ふう。だが、目つきだけが妙に鋭い。涼しい顔をして、こちらを見下ろしておる。足を引っかけた張本人に違いない。
しかもその目が言うておる。
騒ぐな。
理由も分からぬまま、わしは土まみれのまま少女を見返した。
腹が減って寺へ走り込み、見知らぬ娘に足をかけられて転ぶ。
どうやら今日も、わしの飯は素直には腹に入ってくれぬらしい。
少女は、ほんのわずかに眉を動かし、低い声で言った。
「……立て。騒げば、余計に面倒になる」
その声音は、村娘のそれにしては妙に冷えていて――
わしは転んだまま、ぱちりと目を瞬いた。
どうにも、この娘。
ただの娘では、なさそうであった。




