第1部:少女編 —— 錆びついた鳥籠と赤い風
プロローグ:10年の歪み
(ナレーション)
あれから、10年の時が流れた。
地下世界の時間は、人工太陽の明滅と共に無常に過ぎ去っていく。
抜け忍の里。かつて無法者たちの隠れ家だったその場所は、今や一つの「歪な王国」として完成されていた。
その中心に君臨するのは、自由を愛するはずだった猫族の長、『牙』。
そして、その影で実質的な支配者として君臨するのは、彼の娘――ルナである。
15歳になった彼女は、あどけなさの残る少女へと成長していた。
ショートカットの黒髪が似合う、宝石のように純粋無垢な瞳をした美少女。
だが、その足元には、常に二つの影が付き従っている。
一人は、背中に十字傷を背負ったフクロウ族の青年、トバリ。
かつての反抗的な瞳は失われ、今はただルナの「目」として、害なす者を排除する冷徹な凶器と化していた。
もう一人は、心を壊され、ルナのためだけに生きる人形となった人族の少女、ヤヨイ。
彼女はルナの世話を焼くことを至上の喜びとし、その思考は完全にルナ色に染め上げられている。
1.退屈な蹂躙
里の外れにある演習場。
そこでは、今日もルナによる一方的な「指導」――という名の虐待が行われていた。
「遅いぬ」
ルナが軽く木刀を振るうだけで、大の男たちが木の葉のように吹き飛ぶ。
成長した彼女の身体能力は、幼少期の比ではなかった。
しなやかな肢体はバネのように躍動し、踏み込みは音を置き去りにする。
「ぐあっ……!」
「ま、参りました……! ルナ様、もう……!」
地面に転がり、呻き声を上げる屈強な男たち。彼らはこの里の精鋭部隊だが、ルナにとっては準備運動にもならない。
「……ふぁ」
ルナは可愛らしいあくびを噛み殺した。
「まあまあな感覚でしたが……やっぱり、足りないニャ」
彼女は退屈そうに、偽りの空を見上げる。
そして、ふと思い出したように、控えていた従者に視線を向けた。
「トバリ殿。……ちょっと、草むらまで付き合うぬ」
「……御意」
トバリは顔色一つ変えずに答えるが、その頬が微かに引きつったのをルナは見逃さなかった。
ルナはトバリの襟首を掴み、演習場の隅にある鬱蒼とした茂みへと引きずり込んでいく。
「遠征の前に、余計な『熱』を抜いておかないと、仕事に支障が出るからニャ」
――ガサリ。
茂みが揺れ、二人の姿が見えなくなる。
しばらくの間、衣擦れの音と、押し殺したような苦悶の吐息だけが漏れ聞こえていた。
やがて。
「ふぅ……。スッキリしたぬ」
茂みから出てきたルナは、艶やかな表情で身だしなみを整えていた。
対照的に、後ろから現れたトバリは、足元がおぼつかず、目は虚ろで、まるで魂を抜き取られたかのように憔悴しきっていた。
首筋には、新しい噛み跡のようなものが赤く滲んでいる。
「これで、万全だニャ」
ルナは満足げに笑った。 今の里には、ルナに逆らう者などいない。恐怖によって統治された平和は、ルナにとって退屈そのものだった。
「トバリ殿、ヤヨイ殿。……そろそろ、潮時かぬ?」
ルナが振り返ると、影のように控えていた二人が即座に反応した。
「御意。……遠征の準備は整っております」
トバリが低い声で答える。
「お水……飲みますか? ルナ様」
ヤヨイが水筒を差し出す。その所作は洗練されていたが、どこか機械的だった。
「ありがとうニャ。……この里も、遊び尽くしたぬ。独り立ちの時期だニャ」
ルナは水を受け取りながら、遠征の計画を口にした。
これ以上ここにいても、新しい刺激はない。
トバリもヤヨイも、もう「壊れきって」いて、おもちゃとしての賞味期限は過ぎている。
外の世界――セントラルシティや、まだ見ぬ強敵たちを求めて、旅立つべき時が来たのだ。
だが。
その計画は、思わぬ形で修正を余儀なくされることになる。
2.不穏な風
その日の夜。
里の空気が、ピリリと張り詰めた。
風に乗って運ばれてくる、焦げ臭い匂いと、鉄の味。
「……?」
ルナの猫耳がピクリと動く。
父である村長が、血相を変えて屋敷に飛び込んできた。
「ルナ! トバリ! ……状況が変わった」
父の声には、珍しく焦りの色が滲んでいた。
「敵襲だ。……それも、ただの組織の追っ手じゃない」
父が広げた地図には、里を取り囲むように無数の赤い印がつけられている。
「セントラルシティ所属、教会裏組織『メネシス』。……奴らが動き出した」
「メネシス……?」
ルナが首をかしげる。聞いたことのない名前だ。
「工作、諜報、戦闘、傭兵……。裏の仕事を一手に引き受ける、闇の何でも屋だ。だが、奴らの本質はそこじゃない」
父は忌々しげに吐き捨てた。
「奴らは『純粋な人間だけの世界』を強硬に進める思想を持った、狂信者集団だ。……今回の目的は『亜人狩り』。この里を根絶やしにするつもりだ」
3.絶望的な数字
里の諜報員がもたらした情報は、絶望的だった。
「敵の総数、およそ5000。……そのうち、メネシスの正規構成員が200名」
その数字に、同席していた里の幹部たちが息を呑む。
対するこちらの戦力は、女子供を含めてもたかだか500程度。
戦闘員に限れば、100人もいないだろう。
5000対100。
それは戦争ですらない。一方的な虐殺だ。
「包囲は完了しつつある。……奴らからの通告だ。『1日の猶予をやる。その間に悔い改め、神に祈れ』とな」
父が拳を机に叩きつける。
ヘスティア教の邪魔と見なされたのか、あるいは単なる見せしめか。
いずれにせよ、この里の命運はあと1日で尽きる。逃げ場はない。
「……ふーん」
重苦しい沈黙の中で、ルナだけが場違いなほど明るい声を上げた。
「5000人……。食べ放題だぬ」
彼女の瞳が、爛々と輝き始める。
退屈していた日々への、最高の手向け。
圧倒的な暴力の波。それを前にして、ルナの体は恐怖ではなく、歓喜で打ち震えていた。
「パパ殿。……遠征は中止だニャ。ここで、最後の大遊びをするぬ」
少女の唇が、三日月の形に歪む。
15歳の初陣は、血の雨の中で幕を開けようとしていた。
(第1章 完)




