第7部:幼少期編 —— 壊れた拡声器と最初の死体
プロローグ:不協和音の予兆
トバリ、タケ、イマイ。
ルナへの恐怖によって結束した三人は、片時も離れず行動することで「個」を狙うルナの狩りを防いでいた。
彼らの神経は限界まで張り詰めていた。
物音一つに過敏に反応し、互いの顔色を窺う日々。
そんなギリギリの均衡を保っていた彼らの元に、ある日、死んだと思われていた少女が姿を現した。
1.帰還した少女(疑惑と受容)
ある日の夕暮れ。
トバリたちの隠れ家の入り口に、人影が立った。
服は泥と乾いた血で汚れ、髪は乱れ、まるで墓場から蘇った亡霊のような姿。
「……や、ヤヨイ!?」
見張りをしていたイマイが、驚愕のあまり尻餅をつく。
騒ぎを聞きつけ、トバリとタケが武器を構えて飛び出してきた。
「来るなッ!!」
トバリが叫ぶ。その目に宿っているのは、かつての仲間への再会を喜ぶ感情ではなく、強烈な「警戒」だった。
「お前……生きてたのか? あいつに連れて行かれたんだぞ。……殺されたんじゃなかったのか」
「……逃げて、きたの」
ヤヨイは虚ろな瞳を向け、掠れた声で言った。
その手首には、縄で縛られた生々しい痣と、擦りむけた傷跡がある。
「逃げた? あの『化け物』からか? ……ありえない」
トバリは木刀の切っ先を下ろさない。
ルナの異常性を知ってしまった今、「ルナの手から逃げ延びた」という事実自体が、何よりも疑わしいミステリーだった。
罠かもしれない。操られているのかもしれない。
「あいつ……子供だから。夜は、一度寝たら起きないの」
ヤヨイは、ポツリポツリと語り始めた。
「昨日の夜、あいつが深い眠りに落ちてる隙に……必死で、縄を石で擦り切って……。怖かった。息をするのも怖かった……」
ヤヨイの体がガタガタと震え出す。
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。恐怖がぶり返したかのような、真に迫った慟哭。
「悔しい……。あんな奴に、こんな目に合わされて……! 私、復讐したい」
憎悪に顔を歪めるヤヨイ。
その表情に、トバリは「自分たちと同じ色」を見た。
恐怖と、怒り。被害者だけが共有できる感情だ。
「復讐だと?」
「うん。……あいつの『弱点』、見てきたから」
その言葉に、トバリとタケが顔を見合わせる。
喉から手が出るほど欲しい情報だ。
「あいつ、暗闇だと目が効くけど、強い光には弱いの。それに、ナイフがないと力はただの5歳児よ。……みんなで力を合わせれば、絶対に倒せる」
それは、もっともらしい情報だった。
夜行性の猫族なら光に弱いかもしれない。子供なら武器がなければ無力かもしれない。
彼らの願望に合致する「都合の良い真実」。
「私一人じゃ勝てない。……でも、トバリたちの力があれば。お願い、仲間に入れて……!」
地面に手をつき、必死に頭を下げるヤヨイ。
その姿に、イマイがたまらず声を上げた。
「い、いいじゃないかトバリ! ヤヨイちゃんは被害者だよ。助けてあげようよ!」
「……チッ。わかったよ」
トバリは武器を下ろした。
疑いが晴れたわけではない。だが、これだけの情報を持ち、自分たちと同じ憎悪を持つ人間を突き放すメリットもなかった。
「入れよ。……ただし、変な動きをしたら許さないからな」
彼らは招き入れた。
ヤヨイは安堵したように深く息を吐き、感謝の言葉を述べた。
その瞳の奥に、一切の感情が宿っていないことに気づく者は誰もいなかった。
2.囁く毒蟲
その日から、ヤヨイによる静かな撹乱工作が始まった。
彼女は、三人がトイレや見張りでわずかに離れる一瞬の隙を突き、それぞれの耳元で「悪口」を吹き込んでいった。
気の弱いイマイには、こう囁く。
『ねえ、聞いた? タケが言ってたよ。「イマイは鈍臭いから、いざとなったらあいつを囮にして俺たちが逃げよう」って』
武闘派のタケには、こう告げる。
『トバリが言ってた。「タケは馬鹿だから、突撃させて使い潰せばいい」って。……ひどいよね、一番頼りにしてるのに』
そしてリーダーのトバリには、溜息交じりに。
『イマイとタケ、裏でルナと通じてるかも。「トバリを差し出せば助かる」って相談してたの、聞いちゃった……』
嘘か本当か分からない。
だが、極限の緊張状態にある彼らにとって、その言葉は疑心暗鬼の種を育てるのに十分すぎる栄養だった。
三人の視線が、次第にギスギスと険しいものに変わっていく。
3.回想:調教の成果
(回想:数日前の洞窟)
暗闇の中。ルナは、膝を抱えて震えるヤヨイの髪を優しく撫でていた。
「いいかぬ、ヤヨイ殿。お前はもう、人間じゃない。あたしの『声』を届けるための道具だニャ」
最初は、ヤヨイも恐怖のあまり言葉を発することすらできなかった。
だが、ルナのアメとムチ――「言うことを聞けば蟲を減らす」「失敗すれば増やす」という単純かつ残酷な調教が、彼女を優秀なスパイへと変えた。
「トバリたちのところへ帰って、嘘をつくのぬ。あいつらを仲違いさせるために、一番効く毒を吐くのニャ」
「で、でも……バレたら……」
「バレないようにやるのが、お前の仕事だぬ。……失敗したら、お腹の中の蟲たちが暴れ出すように、おまじないをかけてあるからニャ」
ルナは笑顔で、ヤヨイの口に小さな蜘蛛を含ませた。
ヤヨイはそれを「感謝」して飲み込んだ。
狂気は伝染し、常識を侵食していた。彼女にとって、ルナの命令は絶対であり、世界そのものになっていたのだ。
(回想終了)
4.決壊と取引
そして、運命の日。
些細なことがきっかけだった。
移動中、イマイが足元の枝を踏み折って大きな音を立ててしまったのだ。
「っ! てめぇ、何やってんだイマイ! 居場所がバレるだろ!」
タケが怒鳴り、イマイを突き飛ばした。
普段なら謝るだけのイマイだが、ヤヨイの言葉が脳裏をよぎる。
『イマイは鈍臭い』『囮にする』
「な、なんだよ……! わざとじゃない! お前こそ、僕を囮にするつもりなんだろ!?」
「あぁ!? 何言ってんだお前」
「知ってるんだぞ! 僕を犠牲にして、自分だけ助かろうとしてるくせに!」
イマイが喚く。タケがカッとなって胸倉を掴む。トバリが止めようとするが、その目も疑いに満ちている。
結束は崩壊した。
三人が互いに距離を取り、武器に手をかけた膠着状態。
その瞬間、イマイの背中に、冷やりとした感触が張り付いた。
ピタリ。
音もなく、気配もなく。
ルナは、いつの間にかそこに「居た」。
木の上から降りてきたのではない。茂みから飛び出したのでもない。
最初から、彼らの影に紛れて「一緒に行動していた」かのように、自然に、イマイの背後に佇んでいたのだ。
「……チャンスだぬ、イマイ殿」
耳元で、悪魔が囁く。
「ひっ!?」
「シッ。騒ぐと殺すぬ」
ルナはナイフをイマイの背中に突きつけながら、甘く提案した。
「あいつらはもう、お前を殺す気だニャ。……でも、あたしは違う。お前だけは助けてやってもいいぬ」
「え……?」
「条件は一つ。……今すぐ、一番邪魔な『タケ』を殺せ」
5.圧力と凶行
「殺せば、お前はあたしの『特別』にしてやる。誰も手出しさせない。……さあ、やるのぬ。やられる前に」
ルナの言葉が、イマイの背中を押す。
前には怒れるタケ。後ろには処刑人ルナ。
逃げ場はない。生き残る道は一つだけ。
「う、うわあああああああっ!!」
イマイは錯乱したように叫び、隠し持っていたナイフを抜いてタケに突進した。
「なっ、イマイ!?」
タケが反応するより早く、イマイの刃がタケの腹部に深々と突き刺さる。
ズブッ!
「ガッ……!?」
鮮血が舞う。
イマイの手が、生温かい血で濡れる。
やった。刺した。これで助かる――。
そう思った瞬間だった。
6.返り討ち
「……この、裏切り者がぁぁぁッ!!」
腹を刺されたタケが、血を吐きながら咆哮した。
犬族特有の強靭な生命力。致命傷を受けてなお、その闘争本能は消えていなかった。
タケは刺さったナイフごとイマイの腕を掴み、強引に引き寄せた。
「ひっ、あ、あぁ!?」
「道連れだ!!」
ゴキリ。
タケの剛腕が、イマイの首をへし折る音が響いた。
さらに、残った力を振り絞り、イマイの喉笛をその鋭い牙で食い千切る。
「ごぼ……が、ぁ……」
イマイの目から光が消える。
二人は重なり合うようにして地面に倒れ込んだ。
タケもまた、出血多量で痙攣し、やがて動かなくなった。
7.最初の死
静寂。
森に、血の匂いだけが立ち込める。
残されたトバリは、腰を抜かしてその光景を呆然と見つめていた。
ついさっきまで話していた仲間が、二人同時に肉塊に変わった。
ルナは手を下していない。
ただ、言葉一つで、彼らは殺し合ったのだ。
「……あ、あ……」
トバリの口から、言葉にならない音が漏れる。
「……ふふっ。あっけないニャ」
ルナは木の上から、冷めた目で見下ろしていた。
これが、初めての「死者」。
アキラやヤヨイのような「再起不能」ではない。二度と動かない、完全なる死。
その光景を見ても、ルナの心は痛まなかった。
むしろ、パパ殿の教えが正しかったことを証明できた満足感と、自分より大きな生き物が壊れる様を見た高揚感が、胸を満たしていた。
「さて……。残るは一人だぬ。トバリ殿」
ルナの視線が、最後の生き残りに向けられる。
五歳の少女が引き起こした、あまりに惨い「子供の喧嘩」。
その結末は、大人の想像を遥かに超えていた。
(第7章 完)




