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影踏みのルナ ~地下世界の猫族少女は、五歳で血の温かさを知る~  作者: 猫寿司
第1章:幼少期編 —— 緋色の指先とぬるい臓物

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第2部:幼少期編 —— 鼻は鉄の味

1.猫族の教え


 灰色の外套の男が去った直後、ルナの一家は住み慣れた「奥の木の森」を後にした。

 荷物は最小限。逃避行というよりは、夜陰に乗じた狩りのような速さだった。


 木々の枝を蹴り、飛び移り、地面に降りることなく移動する。

 五歳のルナにとって、それは過酷な強行軍だったが、彼女は一度も弱音を吐かなかった。ただ黙々と、父と母の背中を追いかけた。


「ルナ」


 並走する父が、前を向いたまま声をかける。風鳴りにかき消されそうな、けれど芯のある声だった。


「お前は、自分がどうしてそんなに動けるのか、不思議に思ったことはないか?」

「……ないぬ。パパ殿とママ殿が、いつも遊んでくれたからニャ」

「遊び、か。……ふっ、そうだな」


 父は苦笑し、そして真剣な眼差しを娘に向けた。


「俺たちがしていたのは『遊び』であり、同時に『訓練』だ。お前が生まれたその瞬間から、俺たちは忍びとして生きられるよう、お前を鍛えてきた」


 枝から枝へ。ルナの小さな体は、重力を無視するかのように軽やかに舞う。

 それは天性の才能もあったが、物心つく前からの英才教育の賜物でもあった。


「もし、パパやママが死んでも、一人で生きていけるようにな。……いいか、ルナ。俺たち猫族は、群れでは生きられない生き物だ」

「むれ……?」

「そうだ。誰かに頼り、集団に守られて生きるのは、俺たちのさがじゃない。自由気ままに、己の爪と牙だけで生きる。それが猫族の誇りであり、呪いだ」


 父の言葉に、ルナは大きく頷く。難しいことは分からないが、パパ殿が大切な話をしていることは分かった。


「わかるぬ! あたしが強くなって、パパ殿とママ殿に何かあったら、あたしが守るニャ!」


 ルナが小さな拳を握りしめて宣言すると、前を行く母が振り返り、悲しげに、しかしきっぱりと首を横に振った。


「いいえ、ルナ。それは違うわ」

「ママ殿……?」

「もし私たちに何かあっても、お前一人だけで生き延びなさい。たとえ親子でも、情に囚われてはいけないの。……共倒れは、猫族にとって最大の恥よ」


 母の言葉は冷たかった。だが、その瞳の奥には、焦がれるような愛情が見えた。

 愛しているからこそ、突き放す。依存させない。

 孤独を愛し、孤独に生きる。それがこの過酷な地下世界で、猫族が自由であるための唯一の手段だからだ。


「……でもな、ルナ」


 父がポツリと漏らす。


「猫族が自由に生きるには、この世界は少し……不便すぎるんだ」


 その言葉の意味をルナが理解するのは、まだ先のことだった。

 親子は一昼夜、休むことなく森を駆け抜けた。

2.吹き溜まりの要塞


 空の「人工太陽」が明滅を繰り返し、夜から朝、そしてまた夜へと変わる頃。

 ルナたちは、断崖絶壁に囲まれた谷底の集落へと辿り着いた。


「ここは……?」

「『抜けヌケニン』の隠れ里だ。……組織を裏切った者、居場所をなくしたプロたちが身を寄せ合う、吹き溜まりさ」


 そこは、村というよりは要塞だった。

 粗末な小屋が立ち並んでいるが、配置は計算され尽くしており、どこから敵が攻めてきても迎撃できるようになっている。

 すれ違う住人たちの目は鋭く、常に殺気を孕んでいる。

 ここは「仲間と力を合わせて暮らす平和な村」ではない。「背中を預けられる強者同士が、不可侵条約を結んで同居している火薬庫」だ。


3.異物としての少女


 新しい生活が始まって数日。

 ルナは、集落の子供たちの輪に入ろうとしていた。

 家族以外との交流は初めてのルナであったが、近所の子供に興味があったのか、声をかけあい、遊ぶ様子が見られた。


「あははー、遅いにゃー!」


 集落の広場で、追いかけっこが始まる。

 ルナにとっては、生まれて初めての「お友達との遊び」だ。嬉しくて、楽しくて、彼女の心臓は早鐘を打ち、白黒のしっぽは喜びでピンと立っていた。


「待てー!」

「捕まえてみるニャ!」


 鬼役の少年が手を伸ばす。その瞬間、ルナの姿がブレた。

 彼女は地面を蹴るどころか、近くの民家の壁を垂直に駆け上がり、屋根の上へと一足飛びに舞い上がってしまったのだ。


「え……?」

「こっちだぬー! あはは、風がきもちいいん!」


 呆然と見上げる子供たちを他所に、ルナは屋根から屋根へ、物干し竿の先端へと、重さを感じさせない軽業で飛び回る。

 それは勝負にならなかった。ルナの足があまりに速すぎるのだ。

 

 影踏み、かくれんぼ……どれをとっても、ルナの能力は群を抜いていた。

 特にかくれんぼなどは、異常だった。

 「もういいよー」の声と共に、ルナは気配そのものを世界から消し去る。

 鬼の子供が必死に探していても、実はルナは鬼の真後ろの死角に音もなく張り付いていたり、あるいは頭上の木の枝から逆さ吊りになって顔を覗き込んでいたりする。


「……いないなぁ」

「ここだぬ」


 耳元で囁かれて初めて、鬼は悲鳴を上げて腰を抜かす。

 ルナにとっては純粋な遊びでも、相手にとっては「神隠し」に近い恐怖体験だった。


(パパ殿は言っていたぬ。猫族は他より発達が早く、また野生の本能も随一だと……)


 ルナは、息を切らして座り込む周りの子供たちを見下ろしながら、父の言葉を反芻する。

 だから、他の種族が愚鈍で馬鹿に見えるのだ、と。


 そして、決定的な出来事が起きた。

 みんなで集まって、次に何をして遊ぶか相談していた時のことだ。

 この集落の子供たちは、全員が親と同じく「忍び」を目指している。遊びの相談といえど、それは修行の一環でもあった。


「……ん、お腹空いたぬ」


 退屈で小腹が空いたルナは、足元に跳ねてきたバッタを捕まえると、慣れた手つきで足と羽根を毟り取った。

 そして懐から取り出した小枝に突き刺し、近くの焚き火で炙り始めたのだ。


「なっ……お、お前、虫なんて食うのか!?」


 それを見ていたフクロウ族の少年、トバリが、悲鳴に近い声を上げて騒ぎ立てた。

 ルナは不思議そうに小首を傾げる。香ばしい匂いがして、美味しそうなのに。


「忍びなら、虫くらい食えないと情けないにゃ。うまいのに、もったいないん」


 その言葉は、何気ない一言だった。

 だが、トバリにとっては、これ以上ない侮辱として突き刺さった。


 忍びの里で生まれ育った彼らにとって、「忍び」とは誇り高き技術者であり、闇の貴族だ。

 それを、こんな野蛮な新入りに「虫も食えないのか」と見下された。

 トバリの顔色が、屈辱で真っ赤に染まる。


「……っ、てめぇ!」


 トバリは震える拳を握りしめ、ルナを睨みつけた後、仲間の子供たちを引き連れてどこかへ走り去ってしまった。

 それ以来、あいつはルナの前から姿を消した。他の子供たちも、ルナを見ると蜘蛛の子を散らすように逃げていくようになった。


「……なんでだろう? 美味しいのに」


 ルナは一人、取り残された広場で、串刺しのバッタをカリポリと齧りながら首を傾げた。


 それから数日、ルナは完全に独りぼっちになってしまった。

 いじめ、というよりは「忌避」。誰もルナに関わろうとしなかった。


 しかし、そこに悲壮感は微塵もなかった。

 ただ単純に、「どうして?」という疑問だけがあった。


 家に帰り、パパ殿やママ殿に聞いても、「ふふっ、それは本人……トバリに聞いてみなさい」と笑って言うだけだ。

 けれど、肝心の相手が避けて逃げてしまうのだから、理由を聞こうにも聞きようがない。


(……まあ、いいぬ)


 一人だろうと、群れだろうと、ルナ自身は何一つ変わらない。

 美味しいものは美味しいし、楽しいことは楽しい。

 変わったのはルナではなく、周りの世界の方なのだ。

 五歳の幼き猫は、本能的にそう理解し、孤独を苦とも思わず受け入れていた。


 ――あの日までは。


4.洗礼


 その日、ルナは集落の路地裏で、数人の影に囲まれた。

 相手は十歳前後の少年たち。ルナより五歳も年上の、腕っぷしの強い連中だ。


「おい、新入り。お前、調子に乗ってるらしいな」


 リーダー格の少年が、冷たい目で見下ろしている。

 トバリだ。

 先日の一件以来、彼はルナへの復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

 音もなく背後に立つその気配は、幼いながらも暗殺者の片鱗を見せていた。


「調子なんて乗ってないニャ。あたしはただ、遊んでほしいだけで……」

「黙れ! 虫を食うのが忍びじゃねえ。技術と誇りを持つのが忍びなんだよ!」


 トバリが叫ぶ。それは子供じみた癇癪ではなく、傷つけられた自尊心の爆発だった。

 彼はルナの胸倉を掴み上げ、憎々しげに睨みつける。


「それを『情けない』だと? 俺たちをバカにしやがって……。それに、その『目』が気に入らねえんだよ。人を肉塊ニクとしか見てねえ、その目がな!」


 ドガッ!


 乾いた音が響く。

 トバリの拳が、ルナの顔面を正面から打ち抜いた。


「――っ!?」


 ルナの体が吹き飛び、土埃を上げて転がる。

 鼻の奥で、何かが砕ける嫌な音がした。

 熱い液体が奔流となって喉に流れ込み、気道を塞ぐ。


「ごぼっ……! あ、が……っ」


 息ができない。

 口の中が、鉄錆の味で満たされる。自分の血の味だ。

 いつも獲物から嗅いでいた匂いが、今は自分の体の中から溢れてくる。


「ハッ、無様だな。解体が得意だって? 自分が壊される気分はどうだ?」


 トバリたちは動けなくなったルナを囲み、腹を蹴り上げ、嘲笑った。

 ルナは反撃できなかった。

 圧倒的な体格差。そして何より、呼吸ができない苦しさが、思考を白く塗りつぶしていた。


5.学習


 夜。ルナは顔をパンパンに腫らし、血と泥にまみれて家に戻った。

 鼻は折れ、曲がっている。口元は赤黒く固まった血で汚れていた。


 けれど、両親は動じなかった。

 手を出して治療することも、怒って復讐に行くこともしなかった。


「……自分で手当てしなさい。やり方は教えてあるはずだ」


 父は静かにそう言った。

 ルナは涙目で頷き、震える手で自分の鼻骨を触る。激痛が走る。

 覚悟を決め、コクン、と骨を元の位置に戻す。


「う……うぅ……っ」


 小さな呻き声。脂汗が滲む。

 止血草を詰め、布を巻く。その一連の動作を、両親はただじっと見守っていた。


「よくやった。……それで、どうするつもりだ?」


 母が問いかける。それは突き放しているようでもあり、試しているようでもあった。


「これは社会勉強よ、ルナ。大きくなれば、もっと理不尽な暴力に出会う。社会に溶け込むことも、生きる術の一つだわ」


「仲良くなるか、戦って勝つか。……自分で決めろ」


 父が続ける。


「だが、どうしても自分の力で解決できない時は、相談しなさい。その時は俺たちが動く。……だが、まずは自分で考えてみろ」


 親としての絶対的な保護を約束しつつ、あくまで娘の自立を促す。

 それが、この過酷な世界での「愛」だった。


 ルナは、ズキズキと脈打つ鼻を押さえながら、考える。

 仲良くなる? あんな奴らと?

 違う。

 狩猟ハンティングと同じだ。

 真正面からぶつかれば負ける。力が違う。数が違う。


 ――なら、どうすればいい?


「……ん」


 ルナは顔を上げた。

 腫れ上がった顔の中で、その瞳だけが異様に澄んだ光を放っている。

 痛みはある。恐怖もあった。

 けれどそれ以上に、胸の奥で黒い炎が渦巻いている。


 ルナの口の端が、三日月のように吊り上がった。


(トバリ殿……。次は、どうやって遊んでやろうかニャ……)


 それは、五歳の少女が浮かべるにはあまりに不敵で、あまりに残忍な、捕食者の笑みだった。


(第2話 完)

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