第1話:穢れた伝言板と、重たい空気
1.解放
湿った洞窟の入り口。
ルナは、泥と汚物にまみれたアガサの背中を、無造作に蹴り飛ばした。
「行けにゃ。……お前はもう、自由だぬ」
アガサはよろめきながら、森の闇へと投げ出される。
身に纏うものは、無残に切り裂かれた下着と、胸に刻まれた鮮血の『L』の文字、そして全身に染み付いた屈辱だけ。
聖騎士の誇りは、洞窟の奥底で徹底的に陵辱され、砕け散っていた。
「……殺せ。いっそ、殺してくれ……!」
アガサが掠れた声で懇願する。
だが、ルナは冷酷に微笑むだけだった。
「殺さないぬ。言ったはずだにゃ。お前はあたしの最高の『伝言板』だと」
ルナはアガサの耳元で、死の宣告よりも恐ろしい言葉を囁く。
「セントラルシティの教会で待ってるにゃ。……お前が最も大切にしている神の家を、お前の目の前で、あたしが壊してやる」
アガサの碧眼が見開かれ、絶望と恐怖、そして微かな狂気が宿る。
ルナはそれを見届けると、興味を失ったように背を向けた。
「さあ、走れ。尻尾を巻いて、飼い主の元へ逃げ帰るんだぬ」
アガサは叫び声を上げ、逃げるように、あるいは何かに憑りつかれたように、闇夜の森を駆け出した。
その後ろ姿を見送りながら、ヤヨイが虚ろな瞳で呟く。
「……壊れましたね。あの方も」
「ああ。いい音だったぬ」
ルナは伸びをすると、トバリとヤヨイに向き直った。
「さて、あたしたちも行くにゃ。……パパ殿たちの弔い合戦。派手にやるぬよ」
2.セントラルシティ
地下世界の中心、セントラルシティ。
この都市は、堅牢な城壁の内側に、貴族や教会関係者が住む特権階級の居住区と、国の中枢機能が集約された行政区を抱える、地下世界最大の権威都市だ。
白亜の城壁。整然と並ぶ石造りの家々。
そして、都市の中央に聳え立つ、威容を誇るヘスティア教総本山の大聖堂。
その門前、多くの巡礼者や商人で賑わう広場に、三人の旅人の姿があった。
フードを目深に被った小柄な少女、長身の無口な男、そしてどこか焦点の合わない目をした侍女風の女。
変装したルナたちだ。
「へぇ……ここがセントラルシティかぬ。随分と綺麗な檻だにゃ」
ルナはフードの下で、猫の目を細めた。
行き交う着飾った人々も、威圧的な建物も。この街全体が、巨大な権威と欺瞞で塗り固められているように見える。
「ルナ様。……臭います」
背後のトバリが、誰にも聞こえない声で警告した。
「ああ、分かってるにゃ。……焦げ臭いぬ」
街の空気には、微かだが確実に、不穏な気配が混じっていた。
聖騎士団の巡回が多い。それも、ただの警備ではない。殺気立った、何かを探すような目つきだ。
(あのアガサとかいう駄犬、ちゃんと伝言を伝えたみたいだぬ)
ルナはニヤリと笑った。
自分たちが来ることを知り、敵は待ち構えている。
それはつまり、獲物が巣穴で震えているということだ。
3.アガサの帰還
その頃。
大聖堂の最奥、一般信徒が決して立ち入ることのできない**「異端審問局」**の地下牢。
そこに、一人の女が吊るされていた。
アガサだ。
彼女はルナの元から生還した後、英雄として迎えられることはなかった。
「部隊を全滅させ、おめおめと生き恥を晒して帰還した無能」、そして何より「亜人の穢れを受けた不浄者」として、味方であるはずの教会によって拘束されていたのだ。
「……あ、ぅ……」
アガサのうわ言が漏れる。
その体は、ルナに受けた傷よりも酷い、新たな拷問の痕で埋め尽くされていた。
「それで? その『影踏みの猫』とやらは、ここに来ると言ったのかね?」
闇の中から、粘着質な声が響く。
現れたのは、真っ赤な法衣を纏った小太りの男。異端審問局長・バルガス枢機卿だ。
「は、はい……来ます……必ず……」
「クックック……愚かな亜人風情が。飛んで火に入る夏の虫とはこのことよ」
バルガスはアガサの胸元、ルナが刻んだ『L』の傷跡を杖の先で突いた。
「だが、礼を言おうか、アガサ。お前のおかげで、長年目障りだった『忍び』の残党を一網打尽にできる。……お前は、そのための素晴らしい**『餌』**だ」
バルガスの背後には、古代の遺物と肉体を融合させたような、異形のパワードスーツを纏った兵士たちが控えていた。
発掘された電子基板が血管のように走り、不気味な駆動音を立てるそれは、アガサが率いた騎士団とは比較にならない、教会の「真の戦力」だった。
4.死の予兆
宿屋の一室。
ルナたちは、今後の作戦会議を開いていた。
「正面から乗り込むのは下策だぬ。……まずは情報収集にゃ。アガサがどこにいるか、教会の警備体制はどうなってるか」
「承知しました。私が夜、空から探ります」
トバリが即座に応じる。
だが、ヤヨイだけは様子がおかしかった。
彼女は窓の外、大聖堂の尖塔をじっと見つめたまま、小刻みに震えている。
「ヤヨイ? どうしたぬ?」
ルナが声をかけると、ヤヨイはビクリと肩を震わせ、蒼白な顔で振り返った。
「ルナ様……行かないで……」
「は?」
「あそこは……駄目です。あそこには、ルナ様でも勝てない……『何か』がいます。私の本能が、そう叫んでいるんです……!」
ヤヨイはルナに縋り付いた。
彼女は戦闘能力こそ皆無だが、狂気と隣り合わせに生きたことで、時折、動物的な勘のような予知を見せることがある。
その彼女が、これほどまでに怯えている。
「大丈夫だぬ。あたしらは強いにゃ。……それに、もう賽は投げられたんだぬ」
ルナはヤヨイの頭を撫でて宥めたが、その胸中には、一抹の不安が黒いインクのように広がっていた。
この街の「重苦しい空気」が、今にも押し潰してきそうな気がしてならなかった。
(新章 第1話 完)




