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0時間目 進学校の落ちこぼれ

 私立数林高校。

 中学からの進学生が七割を占める、いわゆる中高一貫校だ。県で有数の進学校の一つで、制服を着ているだけで「あの学校の生徒だ」と噂される、名誉ある学校。


 那由多なゆた一兆かずきは頬杖をついて、開いてもいないテキストの幾何学的な表紙を眺めていた。


「日直の……あー那由多、終礼の後に宿題を集めて持ってきてくれ」

「あ、はい」


 那由多はその調子で数学教師がかけた号令に従って、席を立って礼をする。




 数学の授業はあまり好きではない。

 何を言っているかよくわからないし、何を言っているかわからない。


 なんどか巻き返しを図ってみたが、全くうまくいきそうにはない。そうやって高校生を迎えてしまった。中高一貫校は罪だ。

 那由多は数学に関してだけ、学年で最下位を張っていた。


 そんなことを考えながら、那由多は手の中にある数学の宿題を見下ろす。数学の宿題はいつも決まって同じ名前が一番上に来ていた。つまり、一番最初に提出しているというわけだ。


 名前は千曲ちくまもも

 クラスのムードメーカー的存在でありながら、天然という可愛さを備えている。そんな彼女のギャップが数学博士であるということは、彼女をより人気者たらしめていた。


「失礼しましたー」


 宿題を教員室に届け終えると、教員室の外に張られたポスターを眺めながら教室に戻ることにした。

 防災に関するもの、ビブリオバトル、学生川柳なんてものもある。あとは……。


「興味あるの?」

「……。は?」


 噂をすれば言うのか、あまり噂はしていないはずだが。

 千曲百。

 彼女がそこに立っていた。


「何の話だよ」

「え? だって今、このポスター見てたよね」


 千曲の指さすポスターにはでかでかと次の文字が書かれていた。


「数学オリンピック……」

「わたし、出るの。興味あるなら教えようか?」

「い……いやいや!」


 那由多は思わず全力で拒否をした。

 数学の成績が地を這っている那由多にはあまりに遠い世界の話だ。


「俺、数学はマジでできなくてさ」

「この学校にいるんだから、それなりにできるよね?」

「……中学からまったく数学が分かんなくなって」


 才女を前になんでこんな暴露をしているんだ。那由多は頭を抱えたくなった。

 とりあえず、俺は千曲と話していいような人間じゃない。

 那由多はそう真鍮で結論付けると、彼女に手だけを挙げて背中を向けようとする。


「それ、なんでか教えてあげよっか」


 那由多は背中越しに千曲が口と目を弓なりにして笑っているのが透けて見えた。

 いっそのこと振り返らなかった自分が憎い。


「わたし、その理由教えてあげられるよ。教えて欲しかったら着いてきて」


 那由多は数学だけでなく、口車にも乗せられてしまった。






「ここだよ」


 千曲が指さしたのは大通りから外れた静かな脇道に入り口を構える、木を基調とした喫茶店。


「エウレカ……?」

「そう。数学喫茶エウレカ。入ろ」


 数学喫茶?

 那由多は初めて聞いた単語にはてなを浮かばせながら、千曲に続いて店に入った。店内は喫茶店にしては明るく、棚一面に書籍が並べられている。

 席に着くと、そこは勉強にちょうど良さそうな高さのテーブルと椅子の具合に驚く。そして何よりテーブルの上には真っ白な紙がメニュー表と一緒になって立て置かれていた。


「ここは数学に特化した喫茶店なんだ。店長の叔父さんが、数学かぶれでね……あ、好きに注文して」

「店長が叔父さん?」

「そう」


 千曲に勧められるがまま那由多はメニューを開いて、ソフトドリンクを頼んだ。本当はかっこつけてアイスコーヒーなんかを頼んでみたいが、飲めないのがバレるの恥ずかしい。


 というか。

 那由多は目の前にクラスの人気者である女子がいるという状況。そして、ここが喫茶店であるということを徐々に把握し始めた。


 これって実質デートでは……?


「じゃあ、さっそく。那由多くんが中学生から、急に数学ができなくなっちゃった理由の考察を述べるね」

「あ、ああ」

「率直に言うなら、数学にあまり接していないから、だね」


 那由多はぎくりとした。

 勉強量が足りないと言われている。たしかに、どこかをきっかけに急にやる気を失ったのを覚えている。成績が落ちたとか、そんなタイミングで。


「小学校の勉強と中学校の勉強っていうのは違うの」

「……? ああ」

「小学校っていうのは、問題を解くための前提の式であったり、定理を詳しーく説明して、それから問題を解いて確認する。そんな順序になってるのね」


 那由多は流れが変わったと思った。

 姿勢を正して千曲の言葉に耳を傾ける。


「でも中学高校は、定理をこう目の前に出されて『まあこの式、証明難しいから笑 完成形だけ知っときゃいいよ』って言われているの。一部の人はこれが納得いかないのよ」


 身に覚えが出てきて、那由多は深く頷いた。そういうことか。


「なるほどな。納得した」

「そう。小学校までの授業が楽しくって、『なぜそうなるのか』っていう授業の本質に気づいて授業を受けてきた人たちにとって、中学高校の今の授業はとても苦痛ってわけ。なぜそうなるかに重点を置かないから」


 そこで!

 千曲はおよそ喫茶店とは思えない声量で言い放つと立ち上がった。


「そこで! わたしはそのうちの一人だったわけだけど……わたしは学校に見切りをつけたの」

「み、見切り? でも千曲さん、成績いいじゃん」

「見切りをつけるのと、諦めて手放しちゃうのは違うよ。わたしは自分なりに数学を勉強することにして、後ろからついてくる授業内容をあやしてあげてるの」

「あやして……?」


 あれ、千曲さんって意外とおかしな人? 天然だとは言われているけど、もしかしてどちらかと言えば変人なんじゃないか。

 那由多は立ち上がっている千曲を見上げて、頬を引きつらせる。


「というわけで、那由多くん!」

「は、はい」

「わたしと数学、やり直さない?」


 千曲は満面に笑みを浮かべて、手を差し出してくる。かなり遠回りになってしまうかもしれないけど、この状況を打開したいともっとも願っているのは那由多自身だった。

 那由多は息をのむと、差し出された柔らかい女の子の手を握った。 


「あの、すみません。他のお客様にご迷惑になるので、声のボリュームを……」


「あっ、ハイ、すみません!」

「ごめんなさーい」


 申し訳なさそうに告げてきた店員によって現実に引き戻され、那由多は耳を真っ赤にした。そして千曲を席に座らせる。


 かくして千曲百の数学講義は始まったのだ。

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