三、
どれほど時間が経っただろうか。
スタジオを満たす水の流れは止まらず、水位はふくらはぎ、そして膝へと着実に上昇していた。水は異様に冷たく、体温を容赦なく奪っていく。非常灯の緑色の光が水面に反射し、スタジオ全体を不気味な水底のように照らし出していた。
安西は、理性を失いかけていた。
「出るんだ、ここから出せ! 誰か開けてくれ!」
彼は水飛沫を上げながらドアに体当たりし、拳で叩き続ける。だが分厚い防音扉は、彼の絶望を嘲笑うかのように沈黙を守るだけだった。
響は、その場に立ち尽くしていた。恐怖よりも先に、強烈な既視感――デジャヴュが彼を支配していた。
この光景を知っている。
この絶望を知っている。
いや、違う。知っているのではない。自分が、この状況を作り出したのだ。
ザザ……。
再びスピーカーが呻きを上げた。今度の音声は、さらに断片的だった。
『……ひっ……う……寒い……響くん……? あなたも、そこにいるんでしょう……? なんで、助けてくれないの……?』
玲奈の声が、まるで現在の響に直接語りかけているかのように響いた。
その瞬間、響の脳内で、十年間必死に蓋をしてきた記憶のダムが決壊した。
―・―・―・―・―・―・―・―
――十年前、あの嵐の夜。
生放送の直前、第7スタジオで玲奈に不正を詰問された響は、逆上していた。
『あんたさえいなければ、俺が……!』
みっともない嫉妬の言葉を吐きながら、彼は玲奈に掴みかかった。揉み合いになり、そして――響は、彼女を突き飛ばした。
その勢いのまま、玲奈は放送機材の角に後頭部を強かに打ち付けた。彼女の華奢な身体が、ぐったりと床に崩れ落ちる。額からは血が流れていた。
ぴくりとも動かない玲奈を見て、響は血の気が引いていくのを感じた。
殺してしまったかもしれない。
恐怖が彼の理性を麻痺させた。外では高潮警報が鳴り響き、波の音が迫っていた。
逃げなければ。
響は、気を失った玲奈をその場に置き去りにして、スタジオを飛び出した。扉に鍵をかけ、何食わぬ顔で局のロビーへ向かった。あとは、事故がすべてを片付けてくれるはずだ、と。
そうだ。あれは事故ではなかった。
見殺しだ。
いや、自分が殺したも同然だった。
高潮がスタジオを襲い、玲奈が水の中でゆっくりと意識を取り戻した時、彼女はどれほどの絶望を味わっただろう。ドアは開かず、水位は上がり続け、誰にも届かない助けを求めながら、冷たい水にその声を、命を奪われていったのだ。
「う……ああ……、ああああああ!」
響は頭を抱えて、水の中に膝をついた。罪悪感が濁流のように押し寄せ、彼の精神を蝕んでいく。
「お前のせいだ……! お前が何かを呼び込んだんだ!」
半狂乱の安西が、響を指差して叫んだ。
「あの気味の悪いメール! あれはお前宛てだった! お前、一体何をしたんだ!」
安西の言葉が、有罪判決のように響の胸に突き刺さる。
その時、響の目の前の水面が、不自然に揺らめいた。
水の中から、ぬるり、と何かが現れる。
青白くふやけた、長い黒髪を水に揺らめかせた女の顔。
玲奈だ。
忘れもしない、紛れもなく彼女の顔だった。
閉ざされているはずのその唇が、ゆっくりと動く。
『見つけた』
幻覚だ。そう思おうとしても、その顔はあまりにもリアルだった。
響は悲鳴を上げ、後ずさろうとする。だが水がまとわりついてうまく動けない。玲奈の顔は、水面を滑るようにして、じりじりと響に近づいてくる。
「やめろ……来るな……!」
水位は、ついに腰のあたりまで達していた。スタジオに置かれていた椅子や機材がぷかぷかと浮かび、ぶつかり合って不気味な音を立てる。放送卓も半分ほど水に浸かり、時折バチッ、と青い火花を散らした。
過去の玲奈の絶望と、現在の自分たちの状況が、完全にシンクロしていく。水は、ただの水ではなかった。それは、玲奈の無念と、響が封じ込めていた罪の記憶そのものが具現化したものだった。
『私の最後のリスナーは、あなただったんだね、響くん』
スピーカーと、水面の顔と、そして響の頭の中に直接、玲奈の声が響き渡る。
それはもう、恐怖に怯えた声ではなかった。十年という時間をかけて、憎悪と怨念をたっぷりと吸い込んだ、深く、冷たい声だった。
『ひとりで逝かせるなんて、寂しいことしないでくれる?』
-つづく-