第一歌 灰色狼と雪の精〈二〉
~灰色狼のムアディ。一人悲しみに暮れる残された獣は 立派な毛皮の堂々たる勇敢な戦士でした。精霊はムアディが、片目を患っていること、そして彼女が、新しい命を身に宿していることに気づきました。
一晩中、彼女はみじろぎもせずツガイのムクロを守り続け、飲まず食わず、見えぬ目を爛々と光らせて、ムクロのにおいを嗅ぎつけたのか、時おり様子をうかがいに来るハゲタカや死の使いの獣》を威嚇し 必要ならば鋭い牙と爪で蹴散らしていました。
雪の精霊に対しても 見えぬためか、気を許すわけもありません。水と虫をとってきてやっても食べようとはしません。
しかし 数日過ぎると やがて疲れ果て 雪の精霊が運んでくれる水だけをやっとのことで飲み うつろに外をみつめているのです。腹の子も心配です。雪の精霊は、この狼になにかしてやれることがないかと考えを巡らせていました。
「精霊の身では、せいぜい水を運んでやるしかないからなあ」
はじめは、自分が『氷室』に入って眠るまでの間は、出来るだけ狼を見守ってやろうと考えていました。
そのうちに、雪の精は今迄に感じたことのない思いにとまどいつつ 心地よさも感じている自分に気が付きました。
なにかを「守る…」
雪の精霊としては はなはだ縁のない思いです。
だがかれは、外からけものが入ろうとすると、女王を守ろうと冷気の突風を起こしておいはらうのでした。
その日も とっぷりと日が暮れて真夜中になったころ、狼は寝息を立て始めました。雪の精もため息をついて座り込みます。かなり、清浄の気をつかってしまったらしく、疲れていました。
ふと、クリスタルが触れ合うようなかすかな音がして、雪の精霊は眠気眼で辺りを見回しました。
「私の気配に気づかないだなんて…お前の気はどうなってしまったの?」
ふりむくと、そこには美しく尊大な様子の精霊の女王が微笑みたたずんでいました。
灰色狼は眠っています。
「精霊の女王、大樹の女神 いのちの天秤をもつわが主」
驚きながら、うやうやしく 雪の精霊はあいさつをしました。
「どうなさったのですか?あなたが私ごときを訪ねてくださるとは」
「様子がおかしいから分身をおくったのよ。わたくしの声は聞こえて?」
「眠った気配がないから、数日前の夕刻からずっと呼び掛けていたのに返事もなくて…なるほど こういうことね」
女王は 眠っている立派な獣の女王に敬意を払いお辞儀をします。
「雪の子。そなたずいぶん弱っているわね。まあ眠るのには支障はないけれど、少し補わなくては」
そうして女王は、うつらうつらしている獣の女王が出産を控えていることをみてとると、雪の精に微笑んでいいました。
「ほっておけないというわけね」
雪の精ははにかみながら、うなづくのでした。
「おかしいですよね 精霊と獣は|相容れぬし これまでだって興味どころか、縁だって薄かったのに。」
「この方たちが特別なのよ。獣の王と女王、私たちと命の輪は違うけれど、縁はふかいの」
「今はそれはともかく、ともかくね女王の出産をお手伝いしなくては」
大精霊はあらためてうやうやしく獣の女王に礼をしました。
「獣の王シルカの伴侶 ムアディ様。私はこれなる雪の精霊の主、少しお話を」
獣の女王は、はっとして目を開け かすむ目で声の主を探します。
「あなたは!」
ムアディは、精霊の女王の気配を感じて頭を垂れました。
「あなたのことは知っています、精霊を統べる女王 大樹の大精霊にしてこの山の主」
「ゆるしてください。わたしは、私たちは、あるものに襲われ傷つきここに逃れてきたのです。王は深手を負い私は目を患い、もう命の尽きるのも覚悟のうえで この山に登ったのです。」
「ここにたどり着ければ、彼を静かに見送れるとおもって。」
悲痛な面持ちの女王は 悔しそうに身を震わせ、雪の精霊に向き直りました。
「そなたには、せっかく水や食べ物を持ってきてくれたのに、邪険にして悪かった。ごめんなさい。とても気が立っていたのだ」
「きにしておりませんよ。わたしなど 『ただの雪』ですから。」
精霊女王は、眷属の言い草にあきれつつ、出産を控えたムアディのことを案じて、いましばらく雪の子をとどめることができるように、結界を張ることにした。
「私は身ごもっています。あと数日で生まれるはず。どうか無事に生まれてくる子を連れて歩けるようになるまで ここにいさせてほしい。そしてそなたの眠るのを見守ろう。門番くらいはできるから」
大精霊はうなずき了承した。雪の子もわくわくしながら答える。
「賢狼王のお子のお生まれを待って、それから、それから 眠ろうかな…」
こんどは、赤毛の少年が急に立ち上がって叫んだ!
「賢狼王!って…シルカ様と王妃ムアディ様って…西方のヴォルガント王狼国の健国王と同じだ!」
ヴォルガント英雄譚は 有名な建国王の逸話である。大人たちも口々にその名をさけんだ。
「どっかで聞いた名前だと思ったよ」
「この話は 北の霊山の精霊の話だろ?」
「神話のような大昔の話だからな、いろいろまざってるんだろ」
詩人は 微笑みながら、聴衆の言葉をじっと聞いていた。
『伝え聞く話から 私の詩は生まれ 伝え歌うことから 縁の不思議さを思い知る』
「北の話をして 西の物語だとすれば、すべての話は嘘のようにも 何かの意図や縁があるようにも思えるのですよ。」
「さあ、もう少しお付き合いください。」
人々はまたすわりなおして、歌の続きを待つのだった。
火の室がまた ぱちぱちと火花をはぜる。
一番低い弦が 再び 一音 つまびかれた。