第一歌 灰色狼と雪の精〈一〉
~むかし まだ 人とは異なる生き物がこの地の主な生き物であったときのこと。
雪を常に頂く山の中腹あたり、広い草原が広がっているところに、一本の大樹が大きな屋根のような枝をひろげて立っておりました。
そこには 大小さまざまな生き物が支えあって暮らしており、大樹を取り囲むように色とりどりの花がいつも咲いています。たくさんの精霊と小さな生き物たち、そして、めったに姿はみませんが、大樹を守りすべての精霊をたばねる 美しい精霊の女王がすんでいるといいます。
精霊のひとり まだ年の若い『雪の精』も ここで暮らす一人です。
冬は山の頂にいて、氷と雪とそこで暮らす生き物とともに、無邪気にきままに歌いながら暮らし、夏は大樹の草原を少し上った岩場にある 『氷室』の奥深くに身を隠して「夏眠」しています。
さて 今は春。
もうすぐ『氷室』に閉じこもらねばならない彼は、女王の加護のあるこの地で色とりどりの花の清浄な気を、おなかいっぱい吸い込んでおくことに、余念がありませんでした。今回は雪の精霊で『氷室』に入るのが自分一人なので とくにたくさんの力を蓄える必要があるのです。
「すいこんじゃうの?!」
いきなり大きな声で明るい瞳の少女が叫ぶ。
「そんなことして」
「花の精は死んじゃったりしないの?」
「!!」
詩人の目の前にいたその少女が 立ち上がり、唐突に詩人にたずねたの で、その子の兄弟は慌てて彼女のそでを引っ張り、静かにするようにたしなめたが、詩人は笑って少女にウィンクをした。
「そうだね 幾人かの花の精霊はその姿形を変えて 雪の精霊と同化するんだ」
「いくばくかの歳を経た精霊はみな転化転生するもの。それが精霊というものなのさ…すこし むずかしいかな…」
その人はそう言って赤毛の少年をみつめた。
赤毛の少年は怪訝そうに首をかしげていたが、その人と目が合うと、はにかみ笑いをして 小さな声で詩人にたのんだ。
「…つづけて」
他の子どもたちにつつかれながら、少女はまた 膝を抱えて座りなおして頬をバラ色に染めて詩人を見つめた。
その人は、赤毛の少年のことばにうなずいて、きまりの悪そうな少女にほほえむと、また、美しい和音を奏で始めた。
~古い雪の精の幾人かは、その年の雪解けの時に 水に還ることになっています。そして、その水は空に昇って雨雪になり また水に還る~いのちの循環を転化転生して補い合う それが精霊のいのちの輪です。
さて、この若い雪の精が、眠るための力を蓄え、いよいよ『氷室』にこもるべく出発する日が来ました。かれは、大樹の友に別れを告げて山道をフワフワと飛んでいきました。急ぐ旅でもありません。かれは、女王のおかげで動物たちに悪さされることもなく、順調に旅をしていました。
澄んだ山の空気は、太陽が中天に差し掛かると少し温かみを増してきます。本格的な春が来ると 日差しも今よりつよくなってくると、体力を奪われてしまいますから、そうなる前に『氷室』にたどり着かねばなりません。
実はかれは、今回『氷室』に入るのが自分だけなのをとてもさみしく感じておりました。
他の精霊たちとあそこに残って水に還るのも悪くないと思っていたくらいなので、何度も引き返そうと考えます。が、
(次の季節をつくる役目を放り投げたりしたらどんなことになるか 責任は重大なのだ)
と思い返してまたすすむ、というくりかえし。
歩みは自然とゆっくりになり、
たびたび
「やっぱり、もどろうかな」
とつぶやいて立ち止まる有様でした。
やがて 大きな岩が、草原に多くなってきたころ、道の向こうから 生臭いにおいが ふっ と、漂ってきました。
「これは…」
「獣の…血の…匂い…」
ふと その人はつま弾くのをやめ、じっと子供たちを見つめた。
ごくりとつばの飲んだのは、壮年の大工。
ひと時の間を沈黙で彩り、詩人は一番低い音の弦を一音ならし またうたい始めた。
~この高地で生臭いにおいのするもの。
それはすなわち動物の狩以外ありません。かれは、精霊の「核」=人でいえば「心臓」が 口から出そうになるほど ドキドキしているのを感じます。
精霊の体は清浄な気が常に血のようにめぐっており、常に浄化されているために、淀みや生きものの死や停滞 といった昏い感覚に敏感なのです。
精霊以外の生き物の 食物連鎖は 理なので、ふつうならば「血の匂い」がしたとて気に留めないのですが、今は清浄の気で満タンの状態です、いつもよりも敏感の度合いが違います。
この身体のドキドキに加え、この先に行って何か面倒ごとになるのは 嫌だと 本能的に察していました。
「どうする、引き返そうか…」
しかめ面をして、たちどまり 動揺をおさえたいのですがままなりません。
しかたなく のろのろと室への道を上ってゆくのでした。
『氷室」まであと少しというところまでくると、その臭いは一層強くなってきます。
「もしや…」
臭いはまさに、『氷室』に至る洞窟からやってきます。
ためいきをついて、雪の精はおそるおそる洞窟をのぞきこみました。すると、そこには二つの大きな黒い影がうずくまっているようです。そのうちの一頭が床に倒れ荒い息をしている、血の匂いはその獣のものでした。
陽は、かなりかたむいて 空は夕づつの色をまといかけているころ合い。
大けが です。脇バラの傷は肉は大きくえぐれて色も変わっている。何か大きい鋭い牙が その腹をえぐったようでした。傷を負った獣のくるしげな息遣いの中、もう一頭の獣は 傷の周りをなめては悲しそうに鼻を鳴らして鳴いています。命の火が消えかかっているのを精霊はみてとると、得も言われぬ気持になってふたりを見つめています。
「これは…」
『ツガイ』と呼ばれる獣たちの関係を、耳にしたことがある雪の精は この子たちはきっとそうなのだなと感じていました。
つよく とてもつよく 互いをいつくしむ思いの気配が、血の臭いよりも強く感じられて、雪の精霊は何かの力に引き寄せられるように、二つの影に近づいてゆきました。
「おまえさんのツガイは、もう命の火を使い果たした」
傷をなめていた獣は、耳にかすかに響く精霊の声に はっと鼻をひくつかせて、辺りを見回します。精霊の姿がみえないようでした。
「誰だ!何を言ってる!シルカは死なぬ!何度も何度も戦ってそのたびに立ち上がってきた!」
「だから…だから…」
「いい加減なことを言うな!」
「ム…アディ…」
傷ついた獣が、叫ぶ伴侶の手をなめてこの名を呼びました。
「すまぬ…また…あおう」
さいごの一息、長い一息とともに、いのちは彼の身体から静かに空の上に流れていく…
リュートの音色がおごそかに そして 悲しく ひびく。
膝を抱えて 少女がしくしくと泣き出し、赤毛の少年はじっと身じろぎもせず、その人の 白い手を見つめている。
火花がはじける音がする。 おもむろにその人は再び詩を奏で始めた。
『いのちの輪をしるや 君。
時の流れと命の流れと 生生流転の理を しるや 君。
知らぬなら 詩を聞け いにしえのひとの つぶやきの詩。
人の語る そのむこうを見よ』