表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/28

9.もう一つの名前

 舞踏会の次の日、わたしはまだぐすぐすと泣きぬれていた。期待してしまっただけに、かなわなかったことがとても辛かった。


 寝台にもぐり込んだまま、食事もとらずに丸くなる。そうしていたら、ブリジッタが困ったような顔でやってきた。


「その、奥方様、少々お話が……」


 どうしたのだろうと身を起こすと、彼女がためらいがちに耳打ちしてきた。その内容に目を丸くする。どうやら、シルヴィオ様のご友人が屋敷を訪ねてこられたらしい。


「友人のみなさま方は、ぜひ奥方様にお会いになられたいとのことです。ただ、旦那様が強固に反対しておられて」


 なんでも、シルヴィオ様は友人のみなさまにもなぜか腹を立てていて、全員をさっさと追い出そうとしたらしい。


「ただ、奥方様さえよろしければ、こっそり面会の場を設けることもできますが……」


 そっと目元に手をやると、そこはやんわりと熱を帯びていた。


「……いえ、止めておきます。とても、人前に出られる姿ではありませんから……」


 本当にわたしは、間が悪い。こんなに泣きはらした目では、とても客人になど会えない。


 昨晩あんなに泣かなければ、せめて今朝泣き止んでいれば。今ここでシルヴィオ様の友人ときちんとあいさつして、知り合いになれたかもしれないのに。


「また何かの折に、お会いできることを楽しみにしております。みなさまにはそう、伝えていただけますか……」


 そう答えながら、また涙がこぼれた。ブリジッタは何か言おうとしていたけれど、やがて深々と頭を下げて退室していった。




 そんなことがあった、さらに次の日。何もする気が起きなくて、ただぼんやりと本のページをめくっていた。もちろん、内容は何一つ頭に入ってこない。


 そうしていたら、またブリジッタがやってきた。


「奥方様、申し訳ありません。先日は私の力及ばず、あのようなことになってしまって……」


「いいんです。あなたのせいでは、ありませんから……」


 わたしの言葉に、ブリジッタがゆるゆると首を横に振る。


「いえ、それでも……奥方様には何か、気晴らしが必要でしょう。何か、お手伝いできることはありませんか? 高価なものは無理ですが、必要なものがあれば……」


「……着るものには不自由していませんし、着飾っても意味はありませんし……本についても、この屋敷に残されているもので十分ですし……ですから、特に何も……」


 マセッティの屋敷でぽつんとしていたことを思えば、ここはまるで楽園だ。こうして、わたしを気にかけてくれる人がいる。ただ、それだけで。


「奥方様は、絵を描いていらっしゃるのでしょう? でしたら新しい画材、というのはどうでしょう」


 どうして、そのことを知っているのだろう。マセッティから持ってきたスケッチブックは、彼女たちの手の触れないところに隠しておいたのに。


「前に、お庭でスケッチされているところを見かけたのです。数本の色鉛筆だけを用いて。もっとたくさんの色があれば、楽しく絵が描けるのではありませんか?」


 わたしの困惑を読み取ったように、ブリジッタがさらに言葉を重ねる。


「でも、トリエステの家は、資金繰りに苦労していると……」


 わたしが読んでいる本も、舞踏会のときに着たドレスも、先代の奥方様……シルヴィオ様のお母様のおさがりだ。高級な品は既に売り飛ばしたと聞いているけれど、あのドレスはそれでも十分に美しく、素敵なものだった。


 舞踏会のことを思い出して、また胸がぎゅっと苦しくなる。けれど同時に、あることを思いついた。


「あの……でしたら、わたしの描いた絵を、買い取ってくれそうな画商に、心当たりはありませんか……? 外聞が悪いでしょうから、わたしが描いたことは伏せて……」


 わたしが突然こんなことを言い出したからか、ブリジッタがぽかんとした顔になる。そんな彼女に、落ち着いて説明を続けた。


「マセッティの家にいたころも、そうしていたんです。メイドに頼んで絵を売ってもらって、そのお金でスケッチブックや鉛筆を買っていました」


 そこまで言って、言葉を切る。


「……そうすれば、シルヴィオ様にご迷惑をおかけすることなく、絵を描き続けられますから」


「奥方様……なんと、けなげでいらっしゃる……」


 ブリジッタがハンカチを取り出して、目元を押さえる。けれどすぐに顔を上げて、大きくうなずいた。


「分かりました。今すぐ、連れてまいります!」


 そうして彼女は、礼儀正しさを残しつつも猛烈な勢いで、部屋を飛び出していってしまったのだった。




 それから、一時間ほどあと。


 トリエステの街に一軒だけある画廊、そこの主だという中年男性が、わたしの部屋をこっそりと訪ねていた。得意げな顔のブリジッタに連れられて。


「ほう、これは……見事なものですな。このお屋敷にこれほどの腕の画家がおられるとは、初耳ですが」


 彼はわたしが差し出したスケッチブックを開くと、そう言って目を見張った。その褒めっぷりがくすぐったくて、落ち着かない。


 助けを求めるようにブリジッタを見たら、彼女は力強くうなずいていた。気にせずに本当のことを話せ、という意味なのだと思う。


 緊張にちょっぴり震える手で、どきどきする胸を押さえる。意を決して、口を開いた。


「それは全て、わたしが描いたものです……きちんとした描きかたは知らないので、ただ目の前のもの、覚えているものを写し取っただけですが」


「なんと、奥方様が!?」


 彼の驚きようはすさまじいものだった。目をきらきらさせて、わたしをじっと見つめている。どうにも居心地が悪くて、視線をそらしながらぼそぼそと答える。


「あの……あくまでも趣味ですので……ただ、描いたものをため込んでおいてもしかたがないので……もし、買い取ってもらえるようなものがあれば、と思って……」


「ええ、もちろんです! これほどのできばえなら、すぐにでも買い手が現れますよ! ひとまず数枚、買い取らせてはいただけませんか?」


 はしゃいでいる画廊の主人に、あわてて声をかける。


「あ、ありがとうございます。ただ、わたしが描いたことは伏せていただきたいのです。貴族の妻がこのようなことで金銭を得ているというのは、夫の不名誉になりかねませんから」


 それを聞いた彼は、満面の笑みで大きくうなずいた。


「なるほど、うけたまわりました。ですが、偽名の署名くらいは入れておくことをお勧めしますよ。同じ作者の作品が何枚も欲しいと考える方も現れるでしょうから」


 そうなのだろうか。だとしたら、嬉しい。わたしが思うまま描いた絵を、そんなに気に入ってくれる人が現れたら。


 少しだけ考えて、一つの名を口にする。


「……では、『ルーティ』と」


 わたしの名、ベルティーナは、『ベル』か『ティーナ』と省略されるのが一般的だ。でも『ルーティ』は、クレオがつけてくれた名前なのだ。二人きりのとき、彼女はわたしのことをそう呼んでかわいがってくれていた。


 まだマセッティの屋敷にいたころは、絵に署名を入れてはいなかった。アデリーナに見つかったら、両親にとがめられたら、そんなことを考えて。


 でも今のわたしは、クレオにもらったこの名前を、絵の上に残したいと思っていた。


 そうして、最初に売る絵を決め、署名をして。受け取ったお金で、今度ブリジッタが画材店にお使いにいってくれることになった。


「あの、奥方様」


 画廊の主人が帰っていってしまってから、ブリジッタがためらいがちに口を開いた。


「シルヴィオ様に、このことを話されてはどうでしょうか。趣味をきっかけに、話が膨らむかもしれませんよ」


 そんな彼女に、黙って首を横に振る。


「いえ、シルヴィオ様にはどうか、内緒にしていてください。自ら描いた絵を売って金を得るなど、あのかたはきっといい顔をしないでしょうから」


 これは、本当の理由ではない。わたしは、自分の描いた絵をシルヴィオ様に見せたくなかったのだ。


 絵のできばえは、悪くないのかもしれない。でもきっとシルヴィオ様は、わたしの絵を見て幻滅したような顔をするだろう。あのかたは、わたしにまつわるもの全てを拒絶しているようだったから。


 わたし自身を拒否されるのは、まだ耐えられる。けれど絵まで否定されたら、もうわたしには何も残らない。


 そんな思いを隠したまま、ブリジッタに微笑みかける。彼女はとても心配そうな顔で、わたしをじっと見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ