9.もう一つの名前
舞踏会の次の日、わたしはまだぐすぐすと泣きぬれていた。期待してしまっただけに、かなわなかったことがとても辛かった。
寝台にもぐり込んだまま、食事もとらずに丸くなる。そうしていたら、ブリジッタが困ったような顔でやってきた。
「その、奥方様、少々お話が……」
どうしたのだろうと身を起こすと、彼女がためらいがちに耳打ちしてきた。その内容に目を丸くする。どうやら、シルヴィオ様のご友人が屋敷を訪ねてこられたらしい。
「友人のみなさま方は、ぜひ奥方様にお会いになられたいとのことです。ただ、旦那様が強固に反対しておられて」
なんでも、シルヴィオ様は友人のみなさまにもなぜか腹を立てていて、全員をさっさと追い出そうとしたらしい。
「ただ、奥方様さえよろしければ、こっそり面会の場を設けることもできますが……」
そっと目元に手をやると、そこはやんわりと熱を帯びていた。
「……いえ、止めておきます。とても、人前に出られる姿ではありませんから……」
本当にわたしは、間が悪い。こんなに泣きはらした目では、とても客人になど会えない。
昨晩あんなに泣かなければ、せめて今朝泣き止んでいれば。今ここでシルヴィオ様の友人ときちんとあいさつして、知り合いになれたかもしれないのに。
「また何かの折に、お会いできることを楽しみにしております。みなさまにはそう、伝えていただけますか……」
そう答えながら、また涙がこぼれた。ブリジッタは何か言おうとしていたけれど、やがて深々と頭を下げて退室していった。
そんなことがあった、さらに次の日。何もする気が起きなくて、ただぼんやりと本のページをめくっていた。もちろん、内容は何一つ頭に入ってこない。
そうしていたら、またブリジッタがやってきた。
「奥方様、申し訳ありません。先日は私の力及ばず、あのようなことになってしまって……」
「いいんです。あなたのせいでは、ありませんから……」
わたしの言葉に、ブリジッタがゆるゆると首を横に振る。
「いえ、それでも……奥方様には何か、気晴らしが必要でしょう。何か、お手伝いできることはありませんか? 高価なものは無理ですが、必要なものがあれば……」
「……着るものには不自由していませんし、着飾っても意味はありませんし……本についても、この屋敷に残されているもので十分ですし……ですから、特に何も……」
マセッティの屋敷でぽつんとしていたことを思えば、ここはまるで楽園だ。こうして、わたしを気にかけてくれる人がいる。ただ、それだけで。
「奥方様は、絵を描いていらっしゃるのでしょう? でしたら新しい画材、というのはどうでしょう」
どうして、そのことを知っているのだろう。マセッティから持ってきたスケッチブックは、彼女たちの手の触れないところに隠しておいたのに。
「前に、お庭でスケッチされているところを見かけたのです。数本の色鉛筆だけを用いて。もっとたくさんの色があれば、楽しく絵が描けるのではありませんか?」
わたしの困惑を読み取ったように、ブリジッタがさらに言葉を重ねる。
「でも、トリエステの家は、資金繰りに苦労していると……」
わたしが読んでいる本も、舞踏会のときに着たドレスも、先代の奥方様……シルヴィオ様のお母様のおさがりだ。高級な品は既に売り飛ばしたと聞いているけれど、あのドレスはそれでも十分に美しく、素敵なものだった。
舞踏会のことを思い出して、また胸がぎゅっと苦しくなる。けれど同時に、あることを思いついた。
「あの……でしたら、わたしの描いた絵を、買い取ってくれそうな画商に、心当たりはありませんか……? 外聞が悪いでしょうから、わたしが描いたことは伏せて……」
わたしが突然こんなことを言い出したからか、ブリジッタがぽかんとした顔になる。そんな彼女に、落ち着いて説明を続けた。
「マセッティの家にいたころも、そうしていたんです。メイドに頼んで絵を売ってもらって、そのお金でスケッチブックや鉛筆を買っていました」
そこまで言って、言葉を切る。
「……そうすれば、シルヴィオ様にご迷惑をおかけすることなく、絵を描き続けられますから」
「奥方様……なんと、けなげでいらっしゃる……」
ブリジッタがハンカチを取り出して、目元を押さえる。けれどすぐに顔を上げて、大きくうなずいた。
「分かりました。今すぐ、連れてまいります!」
そうして彼女は、礼儀正しさを残しつつも猛烈な勢いで、部屋を飛び出していってしまったのだった。
それから、一時間ほどあと。
トリエステの街に一軒だけある画廊、そこの主だという中年男性が、わたしの部屋をこっそりと訪ねていた。得意げな顔のブリジッタに連れられて。
「ほう、これは……見事なものですな。このお屋敷にこれほどの腕の画家がおられるとは、初耳ですが」
彼はわたしが差し出したスケッチブックを開くと、そう言って目を見張った。その褒めっぷりがくすぐったくて、落ち着かない。
助けを求めるようにブリジッタを見たら、彼女は力強くうなずいていた。気にせずに本当のことを話せ、という意味なのだと思う。
緊張にちょっぴり震える手で、どきどきする胸を押さえる。意を決して、口を開いた。
「それは全て、わたしが描いたものです……きちんとした描きかたは知らないので、ただ目の前のもの、覚えているものを写し取っただけですが」
「なんと、奥方様が!?」
彼の驚きようはすさまじいものだった。目をきらきらさせて、わたしをじっと見つめている。どうにも居心地が悪くて、視線をそらしながらぼそぼそと答える。
「あの……あくまでも趣味ですので……ただ、描いたものをため込んでおいてもしかたがないので……もし、買い取ってもらえるようなものがあれば、と思って……」
「ええ、もちろんです! これほどのできばえなら、すぐにでも買い手が現れますよ! ひとまず数枚、買い取らせてはいただけませんか?」
はしゃいでいる画廊の主人に、あわてて声をかける。
「あ、ありがとうございます。ただ、わたしが描いたことは伏せていただきたいのです。貴族の妻がこのようなことで金銭を得ているというのは、夫の不名誉になりかねませんから」
それを聞いた彼は、満面の笑みで大きくうなずいた。
「なるほど、うけたまわりました。ですが、偽名の署名くらいは入れておくことをお勧めしますよ。同じ作者の作品が何枚も欲しいと考える方も現れるでしょうから」
そうなのだろうか。だとしたら、嬉しい。わたしが思うまま描いた絵を、そんなに気に入ってくれる人が現れたら。
少しだけ考えて、一つの名を口にする。
「……では、『ルーティ』と」
わたしの名、ベルティーナは、『ベル』か『ティーナ』と省略されるのが一般的だ。でも『ルーティ』は、クレオがつけてくれた名前なのだ。二人きりのとき、彼女はわたしのことをそう呼んでかわいがってくれていた。
まだマセッティの屋敷にいたころは、絵に署名を入れてはいなかった。アデリーナに見つかったら、両親にとがめられたら、そんなことを考えて。
でも今のわたしは、クレオにもらったこの名前を、絵の上に残したいと思っていた。
そうして、最初に売る絵を決め、署名をして。受け取ったお金で、今度ブリジッタが画材店にお使いにいってくれることになった。
「あの、奥方様」
画廊の主人が帰っていってしまってから、ブリジッタがためらいがちに口を開いた。
「シルヴィオ様に、このことを話されてはどうでしょうか。趣味をきっかけに、話が膨らむかもしれませんよ」
そんな彼女に、黙って首を横に振る。
「いえ、シルヴィオ様にはどうか、内緒にしていてください。自ら描いた絵を売って金を得るなど、あのかたはきっといい顔をしないでしょうから」
これは、本当の理由ではない。わたしは、自分の描いた絵をシルヴィオ様に見せたくなかったのだ。
絵のできばえは、悪くないのかもしれない。でもきっとシルヴィオ様は、わたしの絵を見て幻滅したような顔をするだろう。あのかたは、わたしにまつわるもの全てを拒絶しているようだったから。
わたし自身を拒否されるのは、まだ耐えられる。けれど絵まで否定されたら、もうわたしには何も残らない。
そんな思いを隠したまま、ブリジッタに微笑みかける。彼女はとても心配そうな顔で、わたしをじっと見つめていた。




