8.夫の気持ちは揺れ動く ※
「旦那様、いい加減に目を覚ましてください!」
ブリジッタは私の執務室にやってくるなり、びしりとそう言い放った。彼女にしては珍しく、はっきりと怒りをにじませた声で。
「……何のことだ?」
「奥方様のことです。これではまるで、いじめではありませんか!」
彼女はこの屋敷の使用人の中でも最古参で、しかも昔は私の教育係を務めていた。
そんなこともあって、彼女はとにかく遠慮のない言葉をぶつけてくる。恩は感じているのだが、少し苦手な相手でもある。
そして今の彼女は、今まで見たことがないほどに険しい顔をしていた。
自然と、昔のことを思い出す。私が子供の頃、父の叱責に腹を立てて家出をしたその日の夜、彼女は私の無事を確かめてほっとした顔をした直後、鬼の形相で雷を落としたものだった。
「舞踏会から帰られた後、奥方様はずっと泣いておられました。あの舞踏会を奥方様がどれほど楽しみにしておられたのか、旦那様もお分かりだったでしょうに!」
ベルティーナがあの舞踏会をどう思っていたか、それについては知っていた。ほかならぬブリジッタが、ことあるごとに私にささやきかけていたのだから。
「ああ、知っていた。だが、私には私なりの理由がある」
ベルティーナは悪女。どんな手を使ってこちらをだますか分からない。だから、気を許してはならない。もしかするとブリジッタは、もう彼女に取り込まれてしまっているのかもしれないのだから。
「涙は女の武器。それくらいは常識だろう? 実際、お前の同情は引けたのだから」
ひとまず、そう言い返してみる。しかしその声は、自分でも不思議なくらいにこわばっていた。
舞踏会から戻ってきた彼女が、ずっと泣いていた。その報告のせいで、思っていた以上に動揺してしまっていたのかもしれない。
「しかし奥方様は、そのような手練手管を使えるような方ではありません。あまりに純粋で、世間を知らなくて……」
ブリジッタの反論に、ぐっと言葉に詰まった。その通りなのかもしれないという弱気な思いが、ふっと浮かんでしまって。
「だが、マセッティ家のベルティーナに良からぬ噂が多々あるのは事実だ。どの家でも、子女の醜態は可能な限り隠す。隠し切れないほどに、あの女の行動は常軌を逸していたのだろう」
かつてマセッティの街に向かわせた配下が持ち帰った、数々の噂を思い出す。あんな噂が、勝手に立つわけもない。
「ですが奥方様は、ずっとマセッティの屋敷に押し込められていたとおっしゃっておられます。それにご自分のことを『引きこもりの世間知らず』だと称されておられました。おそれながら、私もその意見には賛成です」
しかしブリジッタの追及の手は、少しも緩まない。どうやら彼女は、本気で怒っているようだった。
「そんな方が、果たしてそのような噂が立つほどの行動に出られるでしょうか?」
「ならばお前は、マセッティの街の噂についてどう説明する?」
「根も葉もないものであるか、あるいはどこかでボタンのかけ違いが起こっているか。いずれにせよ、奥方様はその噂とは無関係です!」
ブリジッタが声を張り上げたその時、メイドたちがおずおずと部屋に入ってきた。旦那様にお客人です、とそう言いながら。
仕方なく、ブリジッタはいったん下がっていく。その顔には、またうかがいますからね、と大きく書いてあった。
ひとまず彼女から解放され、ほっと胸をなでおろす。と、今度は友人たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。よく見ると、昨日舞踏会で顔を合わせた面々ばかりだ。
彼らはそのまま私の執務机を取り囲むと、身を乗り出して一斉にわいわい騒ぎ始めた。
「おいシルヴィオ、昨日のあれは一体何なのだ」
「あんなに可愛らしい奥方を、ずっと無視し続けるなんて」
「私たちに紹介すらしないなど、礼儀知らずにもほどがあるというものだよ」
「夫婦喧嘩でもしたのか? だったら早く謝っておけ。どうせ悪いのはお前のほうだ」
「お前たち、新婚だろう? あそこで踊らないなんて、どうかしてる」
好き勝手言っている友人たちを手で押しとどめ、言葉を返す。
「彼女との結婚は、あくまで政略結婚だ。彼女を利用して、マセッティ伯爵は私に恩を売り、あわよくばトリエステの家をも狙っている。確証はないが、そう考えるのが一番自然だ」
そう言ったら、全員が同時に黙った。
「……まあ、お前の家……先代のせいで、滅亡の危機だものな」
「金遣いの荒い親を持つと、苦労するね」
「でも政略結婚でも、あれだけ綺麗で清楚な女性なら、十分ありだと思うんだけどね」
「不本意な婚姻であっても、添ってみれば案外いい縁組だった……という話も多いぞ」
「それともやはり、夫婦喧嘩でもしたのか? 喧嘩ができるほどに自己主張のできる女性には見えなかったが」
「やっぱり、お前が何かしたんだろう。お前は無邪気でいいやつだが、人の心の機微には少々疎いからな」
「思い込みも激しいしね」
彼らときたら、そんなことをわいわいと言い始めてしまった。他人事と思って、好き勝手に。
「うるさいぞ、お前たち!」
腹の底から叫んだら、全員がまた黙った。
「私のやっていることに、口出ししないでもらえるか? まして、夫婦の間のことだ」
「でも、奥さんがかわいそうじゃないか」
「泣きそうな顔してたぞ」
「このままだと、彼女が不幸になるんじゃないか? 人でなし」
「いいから、全員帰ってくれ! 私はこれから執務があるんだ!」
そう叫んで、全員部屋から叩き出す。ようやく元の静けさを取り戻した部屋で、頭を抱えて深々と息を吐いた。
ああもう、どうして寄ってたかって、私の決意を揺るがせようとしてくるのか。
ベルティーナは、金銭的な援助と引き換えに押しつけられた妻だ。
きっとこのままベルティーナを妻とし、マセッティと縁続きのままでいれば、さらなる問題が舞い込むに違いない。下手をすれば、トリエステはマセッティに乗っ取られるかもしれない。
ベルティーナの本当の姿が何であれ、関係ない。ベルティーナとは離縁する。赤の離縁状を受け取るまで、私は歩みを止めない。そう決めた。
それが、トリエステの家を守る、唯一の道なのだから。
「……だが、本当にこれでよかったのだろうか。みなの言う通り、私はどこかで、何かを間違えているのではないか……?」
しかしふと、そんな考えが頭をよぎってしまう。ぶんぶんと頭を横に振り、胸を張った。
「いや、ここでためらう訳にはいかない。私の両肩には、トリエステの未来がかかっているのだから」
そう自分にそう言い聞かせた時、ある光景がまざまざと脳裏によみがえった。
舞踏会の会場を立ち去る時、ベルティーナは一度だけ会場のほうを振り向いた。つられてそちらを見て、驚いた。
彼女は今にも泣きだしそうな目で、会場を見ていた。仲睦まじく踊る男女を、和やかなお喋りで満ちる会場を、ぎゅっと唇をかみしめて、肩を震わせて見つめていたのだ。
「……信じてはいけない……だまされてはいけないんだ……だが……」
ざわつく気持ちから目をそらし、近くに置かれていた書類を乱暴にひっつかんだ。こうなったら、執務で気分を切り替えるに限る。
しかし脳裏に浮かんでいる泣きそうなベルティーナの面影は、いつまで経っても消えてくれそうになかった。