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7.舞踏会にて

 シルヴィオ様は、わたしとの離縁を望んでいる。そのことは、痛いほどよく分かっていた。


 けれどわたしは、まだ彼と離れたくはない。彼が何を考えているのか、知りたい。こんなふうに誰かに興味を抱いたのは、初めてだ。


 ……でも、子どものころから孤独に生きてきたわたしには、どうやったら彼に近づけるのか分からなかった。


 クレオがいなくなってから、わたしは他の使用人たちと距離を置くようになった。誰かと親しくなっても、どうせまたアデリーナによって引き離される。そう、あきらめていたから。


 あのときあきらめずにいたら、頑張って他の人たちと交流を持つようにしていたら。シルヴィオ様に近づける方法を、思いつけたのかもしれない。


 そんなことをちょっぴり悔みながら、あれこれとシルヴィオ様に話しかける。天気の話、屋敷の話、ブリジッタの話。わたしたちに共通していそうな、そんな話題を懸命に探した。


 けれど返ってくるのは、不機嫌な生返事ばかり。完全に無視されなくなっただけ、前よりはましになったのだけれど。


 いつか、彼ときちんと話ができる日がくるのだろうか。そんな不安を抱え、あきらめと期待のはざまで日々を過ごしていた。




「奥方様、ドレスの寸法を合わせたいので、一度お召しになってはもらえないでしょうか」


 ある日、部屋で静かに本を読んでいたわたしに、ブリジッタがそう声をかけてきた。彼女の後ろには、ドレスらしき布の塊を抱えたメイドたち。


「ドレス、ですか……?」


「はい。このたび、シルヴィオ様のご友人が、舞踏会を開かれることになりました。ご夫婦でぜひ出席してほしいと、招待状が届いたのです」


「……わたしも行って、いいのでしょうか」


 舞踏会なんて、行ったことがない。一応最低限の作法だけは、クレオに教わってはいるけれど。


 でも一番の問題は、そこではない。


 シルヴィオ様は、離縁を望むほどにわたしをうとんじている。だったら、一人で出席することを望まれるのではないか。


 わたしのそんな思いをくみとったかのように、ブリジットが静かに笑いかけてくる。


「旦那様は、奥方様を連れていかれることに同意なさいました。奥方様の晴れ姿をご覧になれば、きっと旦那様も見直してくださいますよ」


 シルヴィオ様が、わたしを見てくれるかもしれない。そう思ったら、胸がきゅっと苦しくなる。本当にそうなったらいいなと、そんな期待が頭をもたげてくる。


「とはいえ、先代の奥方様のお古しかなくて、申し訳ないのですが」


 そう言いながら、ブリジッタはドレスを着せつけてくれた。わたしには少し大きすぎるそのドレスは、春の柔らかな若葉色をしていた。見ているだけで心が軽くなるような、そんな色だ。


 トリエステの家は、経済的に苦しい状況に置かれている。だから、わたしのために新しいドレスを新調する余裕はなかったのだろう。


「いえ、ドレスを着られるだけで嬉しいです……わたしがドレスを着たのは、ここに嫁いできたあのときだけですから」


 そう答えた拍子に、今度は不安がこみあげてきた。結局シルヴィオ様は、あの花嫁衣裳をちらりとも見てくれなかった。だったら、今回も、また……。


「でしたら、私たちが頑張らなくてはなりませんね。ありあわせのものを活かして、奥方様を目いっぱい飾り立てましょう。旦那様が驚いてしまうくらいに」


 そんなわたしを励ますように、ブリジッタが明るく言った。


 そうして彼女たちは、てきぱきとドレスの大きさを合わせていく。余っているところをつまんで待ち針で留め、あるいはささっと仮縫いをして。


「……奥方様。私がふがいないばかりに、苦労をかけて申し訳ありません」


 作業の途中に、ブリジッタが小声で謝ってくる。


「いえ、ブリジッタはとてもよくしてくれますし、謝罪なんて……」


「ですが、旦那様を教育したのは私なのです。旦那様がああなってしまった責任の一部は、私にもあります」


 ふうと息を吐いて、彼女は肩を落とした。


「……必ず、旦那様を説得いたします。奥方様への態度を改めるよう。……ですから」


 それからわたしの耳にそっと口を寄せて、かすかな声でささやきかける。


「どうか今しばらく、『赤の離縁状』は書かないでください」


「……あっ……」


「先日、旦那様と私が話しているところを、聞いておられましたね? 近くの廊下に奥方様がおられたことに、旦那様は気づかれていないようでしたが……」


 彼女は切なげに、そう続けた。


「私は、いえ、私たち使用人一同は、奥方様が来てくださってよかったと、みなそう思っております。ゆえあって、旦那様が勘違いしておられるだけで……」


 そうして、ゆっくりと頭を下げるブリジッタ。メイドたちも手を止めて、めいめい頭を下げてくれた。


「きっと、誤解をといてみせます。ですから、どうか私に時間をいただければ、と……」


「ありがとう、ブリジッタ」


 自然と、感謝の言葉がこぼれでる。


「わたし、シルヴィオ様に近づきたくて、でもどうしていいか分からなくて、困っていたんです。……それだけでなく、ここにいてもいいのかと、迷うようになっていました」


 みながはっとした顔をしているけれど、構うことなく続ける。今は、誰かに聞いてほしかった。


「マセッティの家で、ずっとわたしは他人とろくに関わらずに生きてきました。引きこもりの、世間知らずで……だから、やみくもにシルヴィオ様に近づいて、拒まれて……そんな繰り返ししか、できなかったんです」


「いえ、あれは旦那様が大人げないのです」


 申し訳なさそうな顔から一転、ブリジッタがぐっと顔を引きしめる。ちょっぴり、怒っているような顔だ。


「……そうなのですか?」


「はい。旦那様はまだ小さな坊ちゃまであられたころから、どうにも意地っ張りなところがありまして」


 メイドたちは聞かなかったふりをして、また作業にとりかかっている。けれどその口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


「旦那様もそろそろ、自分が思い違いをしていることに気づかれているはずなのですが……自分の非を中々認めたがらないところも、子どもの頃から変わっておられません」


 ブリジッタの言葉に、ちょっと気持ちが明るくなる。


 それなら、わたしも希望を持っていいのだろうか。いつかはちゃんと、シルヴィオ様がこちらを見てくれる、そんな日が来るのだと。


 しかしそんな希望とは別に、ちょっとふわふわする気持ちもわき起こっていた。


「……またの機会にでも、そういった話を聞かせてもらえませんか? その、シルヴィオ様の子どものころの話を」


「ええ、もちろんです。ベルティーナ様は、シルヴィオ様の奥方様なのですから」


 そう言って彼女は、頼もしく笑いかけてくれた。




 そんなやり取りから少しして、わたしはシルヴィオ様と一緒に舞踏会に向かっていた。馬車の中はやはり静まり返っていたけれど、前ほどその沈黙が苦ではなかった。


 ブリジッタたちが直してくれたドレスは、とってもかわいらしかった。こんなに素敵な服を着たのは、嫁入りのとき以来だ。


 向かいに座ったシルヴィオ様は、落ち着いた雰囲気の礼服をまとっている。彼はずっと窓の外を見つめたままだけれど、その横顔はどきりとするくらいに美しかった。


 いつか、彼の顔も描いてみたいな。そんなことを考えつつ、こっそりとその面影を脳裏に焼きつける。


 そうしていたら、馬車が目的地に着いた。お屋敷の扉をくぐり、そっとため息をつく。


 わたしが知っているのはマセッティの屋敷のごく一部と、それにトリエステの屋敷だけ。


 マセッティの家はとても栄えていると聞いていたけれど、わたしが暮らしていた一角は古びていて、内装も家具も質素なものだった。


 そしてトリエステの家はあまり豊かではないからか、飾り物のたぐいはほとんどない。もちろん、そのことについて少しも不満はないけれど。


 それと比べると、この屋敷ははるかに豪華で、裕福さがありありと見て取れるものだった。


 会場である大広間についたわたしたちに、少しずつ人々が近づいてくる。どうやら、シルヴィオ様の友人のようだった。


 シルヴィオ様は彼らと親しげに話しているけれど、一度もわたしのほうを向くことはなかった。友人たちがけげんそうな顔をしているのに、それをあえて無視している。


 やがて、どうにもぎこちない空気を残して、友人たちが去っていった。そうして、また沈黙が満ちる。


 そんなわたしたちの雰囲気を察したのか、それ以上誰かが近づいてくることはなかった。


 ただそわそわしながら、シルヴィオ様の隣にじっとたたずむ。


 ブリジッタは彼を説得すると言っていたし、もしかしたら声くらいかけてもらえるかもしれない。少しくらい、こちらを見てくれるかもしれない。


 そうしていたら、音楽が聞こえてきた。ゆったりとした曲に合わせて、人々が次々と踊り始める。


 子どものころから、憧れていた。本で読んだ、舞踏会というものに。いつかそこで大切な人と踊りたいと、そんなことを考えていた。


 そおっと、隣のシルヴィオ様を見上げる。彼は不機嫌そうに目を細めたまま、踊る人々を見つめていた。


 こういった場では、踊らないほうが目立つのだと聞いたことがある。特に、わたしたちのような若い夫婦ものならなおさら。だったらシルヴィオ様も、一曲くらいは……。


 そんなひとかけらの希望を抱いて、じっと待った。けれどやがて、曲が終わってしまう。


「……帰るぞ」


 わたしにかけられたのは、そんな一言だけだった。

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