6.わたしの小さな夢
屋敷の裏手で木箱に腰かけて、ただ波の音に耳を傾けていた。
わたしは、海が好きだ。マセッティの屋敷にいたころも、毎日窓の外の海を眺めていた。
しっとりとした風が運んでくる潮の香り、優しい波の音、吸い込まれそうな深い青。どれも、涙が出そうになるくらいに素敵だ。
ここトリエステの海は、マセッティのものより少し荒々しい。崖にぶつかって白く砕ける波を見ているうちに、さっきまで感じていた強い悲しみが、少しずつ薄れていくのを感じる。
部屋から持ってきたスケッチブックを広げ、目の前の光景をさらさらと描いていく。こんな風に荒々しく砕ける波を描くのは初めてで、自然と心が浮き立っていく。
これが、わたしのたった一つの取柄だった。きちんと習ったことは一度もないけれど、わたしは目の前のものを紙の上に描いていくのが不思議なくらいに得意だったのだ。
「クレオ……元気にしているかしら……」
わたしに絵を描くことを進めてくれたのもまた、クレオだった。
当時マセッティのメイド長だった彼女は、ずっと屋敷の自室でぼんやりと海を眺めているわたしに、どこからか手に入れたスケッチブックと鉛筆をくれたのだ。
ふっくらとして優しい彼女にスケッチの基本を教わっていたあの時間は、わたしにとって大切な宝物だ。
それからわたしは、目にした美しいもの、素敵なものを次々とスケッチブックに描いていくようになった。
窓の外に見える海と浜辺、裏庭に咲いていた小さな花、近くまで遊びにきていた可愛い小鳥。
そういったものを描き上げるたびに、クレオはふっくらした顔いっぱいに笑みを浮かべて、とても嬉しそうにしていたものだ。
ただ、一つだけ心配なこともあった。もしこのことがアデリーナに知られたら、何が起こるか分からない。スケッチブックを取り上げられるか、あるいはあれを描けこれを描けと命令されるか。
そんな事態を避けるためにも、絵でいっぱいになったスケッチブックは、どこかに厳重に隠すか、あるいは手放してしまったほうがいい。わたしとクレオはこっそり相談して、そんな結論にたどり着いた。
そもそもわたしは、絵そのものにはあまり執着していなかった。風景を紙の上に落とし込む、その感覚が楽しかっただけで。
だから描き終わったスケッチブックをクレオに渡して、処分をお願いしたのだ。
しばらくして、彼女は思いもかけないものを手に戻ってきた。新品のスケッチブック、色鉛筆が数本、それに金貨が数枚。
わたしの絵を、街の画商が買い取ってくれたのだ。クレオによれば、画商はわたしの絵を大いに気に入り、また描けたら持ってきてくれと、そう言っていたのだとか。
それからというもの、わたしはアデリーナに見つからないよう絵を描き、数がたまるとクレオに頼んで売ってきてもらった。
そうしてもらったお金は、家族に見つからないように厳重に隠しておいた。いつか、これが必要になる日がくるかもしれませんからと、クレオが口をすっぱくしてそう言っていたのを、今でも思い出せる。
「……いつか緑の海を見にいくんだって、あのころはそんなことを言っていたわね……」
目の前の紺色の海を紙に写し取りながら、苦笑まじりにつぶやく。
あのころのわたしには、夢があった。こうやって絵を売ってお金を貯めて、マセッティの屋敷を飛び出す。そうして、南に向かって旅をするのだ。
ずっとずっと南、気が遠くなるくらい南にある海は、私の目と同じ、青みがかった美しい緑色をしているのだと、紀行文でそう読んだ。
驚くほど白い砂浜に、どこまでも高く澄んだ青空、そして緑の海。何度その文章を読み返しても、その風景が想像できなかった。ただ、とても美しいのだろうということしか分からなかった。
その話を聞いてから、わたしはずっと夢見ていた。南の海、私の目と同じ色の海を、実際にこの目で見るのだと。
……けれど、わたしがそうやって心躍らせていられたのも、ほんのひと時のことだった。やがて、わたしとクレオがやっていることがアデリーナにばれてしまったのだ。
当時十歳のアデリーナは、この上なく面白くなさそうな顔で言い放った。「クレオ、あんたは首ね」と。
スケッチブックと鉛筆は、没収されずに済んだ。陰気なお姉様にはお似合いだし、あたしは寛大だから好きにさせてあげる、と言って。
ありがたいことに、これまでにこつこつと貯めてきた絵の代金もどうにか見つからずに済んだ。このお金は、いつか夢をかなえる旅に出る時のために取っておくのだからと、小分けにして寝台の裏側に留めつけていたのが功を奏したのだった。
そうしてまた一人ぼっちになったわたしは、これまで以上に熱心に、黙々と絵を描き続けた。
クレオは屋敷を追い出されてからも、屋敷に隣り合うマセッティの街に住み続けていた。わたしのことを、心配してくれていたのだ。
けれど彼女とは、なかなか会うことができなかった。もしわたしが隠れて彼女に会っていたことがアデリーナにばれたら、クレオがどんな目にあうか分からなかったから。
年に一度くらい、家族が全員留守にすることがある。そのときを狙って、こっそりと街に向かい、クレオに会った。
クレオと一緒に画商のもとに向かい、たまっていた絵をお金に換えて、彼女と一緒に新しい画材を買い求める。鉛筆やスケッチブックを買った。それに、色鉛筆を一本ずつ。
普通の鉛筆に比べて、色鉛筆は値が張る。だからわたしは、いつも鉛筆だけで絵を描いていた。こつこつと絵を売って、そのたびに色鉛筆を買い足していって。
いろんな色が、十二本。その色鉛筆は、わたしの数少ない宝物だった。特別な絵を描くときだけ、この色鉛筆を使うことにした。
「初めて描く、トリエステの海……これは、特別な絵だから……」
独り言をつぶやきながら、目の前の風景をスケッチブックに写し取っていく。紺色の色鉛筆と青の色鉛筆を使い分けて、深い海を表現する。
そしてふと、手を止める。
「いつか、緑の海を描く日が来るのかしら……」
緑色の色鉛筆、大切にとってある一本を手に取って、空にかざす。煙ったような空の中で、その緑は目もくらむほど鮮やかに見えた。
「よそに嫁ぐことになったって、結局彼女には言えなかった……」
クレオはいつ、わたしがいなくなったことを知るのだろう。そのことだけは、気がかりだった。
トリエステの海を描き終えて、スケッチブックを抱えて部屋に戻る。その途中、シルヴィオ様とばったり出くわしてしまった。
彼は私の姿を見たとたん、ぐっと苦々しい顔になった。それから抱えているスケッチブックにちらりと目をやって、困惑したような目をする。けれど、何も言わない。
「あ、あの……」
このスケッチブックについて、彼は怪しんでいるのかもしれない。きちんと説明をしておいたほうがいいのかもしれない。別に、後ろめたいことをしているわけではないのだし。
けれどそれ以上、言葉が出てこなかった。彼の拒むような目の意味を、わたしはもう知ってしまったから。
わたしは彼に近づきたいと思っている。でも彼は、わたしを嫌っている。間近で彼の灰色の目を見て、さっきの言葉を思い出した。彼が望んでいるのは、赤の離縁状。ただそれだけ。
「……失礼します」
結局そう言って、その場を立ち去ることしかできなかった。スケッチブックを、ぎゅっと胸に抱きしめて。