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5.赤の離縁状

 それからは、ブリジッタが持ってきてくれた本をひたすらに読みふけるようになった。


 アデリーナは小さいころこそ本を読んでいたようだったけれど、成長してからは全く読んでいない。


 そんなこともあって、わたしがマセッティにいたころに読んでいたのは、もっと年の若い少女向けの、ふわふわとした甘い物語ばかりだった。


 一方、この屋敷に残されていた本は……一言で言うなら、大人向けだった。愛憎入り乱れる切ない恋物語、刺激的で複雑な人間模様。どぎまぎしながら、そんな物語を読み進める。


 その中には、わたしと同じように虐げられていた令嬢の物語もあった。最後には幸せになるお話もあったし、さらなる悲劇に見舞われて終わる話もあった。


 わたしは、幸せになれるのだろうか。ふと自分にそう問いかけてしまい、気分がどんよりと重たくなる。


 生まれてこのかた、いいことなんてろくになかった。飢えはしなかったし住むところも着るものも与えられてはいたけれど、心は牢獄につながれているも同然だった。


 そんなわたしに、幸せな未来なんてやってこない気がする。だって、嫁ぎ先ですら、こんなことになってしまっているのだから。


 ついそんなことを考えてしまい、さらにずうんと落ち込んでしまう。この程度のことで落ち込むなんて、わたしはどうしてしまったのだろう。


 マセッティの屋敷にいたころは、未来なんて考えなかった。毎日が同じことの繰り返しで、気がつけば少しずつ年を取っていた。何も期待しなかったから、がっかりすることなんてなかった。


 やっぱりわたしは、まだ心のどこかで期待しているのかもしれない。メイドや使用人はみんなとっても親切にしてくれるし、ブリジッタという話し相手もできた。


 だからなのか、いつかシルヴィオ様もこちらを向いてくれるのではないかという、淡い期待が消えてくれない。こんなこと、今までなかった。


 駄目。このまま、こんなことを考えていたら、どんどん苦しくなってしまう。一度、気分を変えたほうがいい。


 読みかけの本にしおりを挟み、机の引き出しを開けた。目的のものを取り出して、部屋を飛び出した。




 ちょっぴりどきどきしながら、屋敷の中を歩く。一応わたしは、ここの主の妻ということになっている。だから、この屋敷を好きに歩き回ることができる。


 それは分かっているのだけれど、どうにも気が引けて仕方がなかった。マセッティの屋敷にいたころは、部屋からはほとんど出なかったから。どうしても外出したいときだけ、こっそりと忍び足で出かけていた。


 そんな訳で自然と足音を殺しながら、そろそろと歩き続けた。美しく整った庭を見て、そちらに行こうかと思い、考え直す。


 こんな目立つところにいたら、シルヴィオ様に見つかってしまうかもしれない。彼がわたしを見つけたら、きっと露骨に嫌な顔をするだろう。そんなさまを見たら、もっと気分が落ち込んでしまう。


 だったらやっぱり、海を見にいこう。そう考えて、屋敷の裏手に向かう。


 あそこは他の場所よりも荒れていて、手入れが行き届いていない感じだった。おそらく、普段はめったに人がこないのだろう。一人でゆっくりしたいわたしには、好都合だ。


 そうやってなおもそろそろと歩いていたら、前方から人の話し声が聞こえてきた。思わず足を止め、物陰に隠れてしまう。マセッティの家にいたころからの、癖で。


 下手に逃げたら、物音で気づかれてしまう。だからここでいったんやり過ごそう。


 そう考えてじっとしていたら、気づいてしまった。この話し声、シルヴィオ様とブリジッタだ。


 二人は何か、言い争っている。遠いせいで細かいところまでは聞こえないけれど、シルヴィオ様はとっても不機嫌で、ブリジッタは……少し、あきれている?


 不思議に思って、耳を澄ませてみる。


「……だから、離縁を……」


「まさか……噂を……信じて……」


「どちらでも……私は、自由に……」


 聞こえてきたのは、切れ切れのそんな言葉だけだった。


 話の筋はやはり分からない。けれど二人は、離縁について話し合っているようだった。もしかしてわたしは、もう追い出されてしまうのだろうか。


 すうっと血の気が引くのを感じる。胸を押さえて、必死に息を整える。今ここで見つかったら、きっと怒られる。盗み聞きしていたことをとがめられてしまう。


 そうしていたら、ひときわ大きなシルヴィオ様の声が響き渡った。


「私からは離縁を言い出せないのだと、君も知っているだろう!! だからどうしても、赤の離縁状が必要なんだ!」


 赤の離縁状。思いもかけない言葉に、隠れたまま目を丸くする。


 この国において、貴族の女性には人生に一度だけ『赤の離縁状』なるものを書く権利がある。夫と別れたい旨を記し、最後に赤文字で署名する。古くは、自分の血を使って署名したらしい。


 この赤の離縁状は、妻の署名だけで成立する。しかも、それが作られた時点で効力が発生する。


 普通の離縁状は、夫婦の両方が署名し、かつそれを王宮に提出して受理されることで、ようやく効力が発生するのだ。そのことから考えると、赤の離縁状は、かなり特殊な書類だ。


 なんでも、昔々……横暴な夫に耐え切れなくなった妻が血染めの離縁状を残し、そのまま

命を絶ってしまったという事件があったらしい。それを受けて、このようなしきたりができたのだとか。


 そして赤の離縁状を受け取るということは、男性にとってはかなり不名誉なことだ。妻に一方的に捨てられた、それだけの落ち度のある男だという評判が立ってしまうからだ。


 でもシルヴィオ様は、赤の離縁状を欲しがっている。この屋敷で暮らす貴族の既婚女性はわたしだけだから、わたしに赤の離縁状を書いて欲しいと、そう思っているのだろう。


 彼からは離縁を言い出せないのなら、二人の署名が必要になる普通の離縁状は作れない。


 ……やっぱり彼は、わたしを、追い出そうとしている……?


 ずっとそんな気はしていた。けれど、どうしてそこまで……。


 物陰で立ちすくんでいたら、やがて気配が遠ざかっていった。痛いほどの静寂が、辺りには満ちていた。


 そろそろと隠れ場所を出て、呆然としたまま歩き出す。頭が真っ白になって、何も考えられない。ただ、ここから離れたい。そんな気持ちに突き動かされるまま。




 そうして、また屋敷の裏手にやってきた。その辺に落ちている木箱を裏返して、その上に腰を下ろす。部屋を出てそう経っていないのに、ひどく疲れてしまっていた。


「シルヴィオ様は、わたしのことを嫌っている……それこそ、離縁したいと思うくらいに」


 きっとそうなのだろうなと、心のどこかでそう感じてはいた。でも、そこまで離縁の意志が固かったなんて。それこそ、赤の離縁状を突きつけられたという不名誉を背負ってでも。


「彼のほうからは離縁を言い出せないって、どういうことなのかしら……」


 貴族の結婚というものは、家同士の結びつきを作るという意味もある。だからこその、政略結婚だ。わたしはマセッティとトリエステの家をつなぐ、そのためだけにここにいる。


 もしかしたら彼にも、何か事情があるのかもしれない。わたしを妻にしたのにひたすら冷たく当たる理由、それなのにわたしを離縁できない理由。


 分からないことだらけだけれど、彼は彼で困っているのかもしれない。


「……わたしが赤の離縁状を書いたら、シルヴィオ様は喜んでくれるのかしら……」


 きっと、それは当たっている。ずっと存在を無視されていて、今では邪魔者扱いされているわたしにも、他人のためにできることがある。その響きは、思いのほか甘美なものだった。


 でも同時に、胸がずきりと痛むのを感じた。


 わがままなのかもしれないけれど、もう少しここにいたい。シルヴィオ様が何を考えているのか、知りたい。できることなら、彼と打ち解けたい。


 マセッティにいたころには感じたことのないそんな思いが、次々とあふれでてくる。


 遠くから聞こえる波の音だけを感じながら、じっとただ座り続けていた。これからどうするのか、その答えはいくら考えても出てこないように思われた。

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