4.日常はぎこちなく
そうしてわたしの、新しい日々が始まった。
ブリジッタたちはみんな、とまどいつつも優しく接してくれた。おかげで、生活に苦労はない。むしろ、前よりずっと良くなった。
けれどみんな、シルヴィオ様のあの態度の理由についてだけは教えてくれない。
それも無理はない。彼女たちはずっと前からシルヴィオ様に仕えていて、わたしはつい最近やってきたお飾りの妻でしかない。どちらの言うことを聞くべきかは明白だ。
そしてそのシルヴィオ様は、一貫して無関心を貫いていた。三度の食事のときだけは顔を合わせてくれるものの、やはり一度たりともこちらを見ない。もちろん、話もしない。
わたしも静かに食事をとりながら、そんなシルヴィオ様をそっと見つめる。その端正な顔はやはり不機嫌そうにしかめられているけれど、時折ふっと笑みを浮かべることがある。おそらくは、無意識のうちに。
たぶん、料理がおいしかったとか、そういった理由なのだろう。そうやって微笑んでいるときは、いつもより少しだけ食べるのが速くなるのだ。
そして今も、彼は楽しげに食事をとっている。気持ちは分かる。今日の煮込みはとてもおいしいから。
きっとシルヴィオ様は、元々快活で明るい方なのだと思う。たくさんの友人に囲まれて、さわやかに笑っているのが似合う方だ。
でもそれだけに、彼がわたしをここまで嫌っている理由が分からない。こんなふうに、誰かに強い憎しみを抱くような人物だとは、どうしても思えなかった。
わたし、やっぱり何かしてしまったのだろうか。
もう少し考えて、ふとあることに行き当たった。もしかしたら、そういうことなのかもしれない。
さらに少し悩んで、そろそろと口を開く。
「あの、シルヴィオ様……」
彼の目元に浮かんでいた笑みが、すっと消えた。声をかけたことを少しだけ後悔しながら、それでも勇気を出して言葉を続ける。
「わたしは、引きこもりの世間知らずです。シルヴィオ様をお支えするには、足りないことばかりなのでしょう」
シルヴィオ様の眉間に、ぐっと力がこもった。給仕として控えていたブリジッタが、かすかに目を見張っている。
「けれどわたしは、あなたに釣り合う妻になれるよう、努力します。ですから、どうか……」
「不要だ」
初めて聞いたシルヴィオ様の声は、低く押し殺したような、けれどかすかに震えたものだった。
結局、それ以上何も言うことができなかった。ひどく悲しい気分で食事を終え、とぼとぼと自室に戻る。
一人きりになって、寝台に腰かける。とたん、涙がこぼれそうになった。
わたし、いつの間にこんなに弱くなってしまったんだろう。ほんの少し前まで、両親やアデリーナに冷たくされても、顔色ひとつ変えずに受け流せたのに。
新しい環境にきたからか、ブリジッタたちがよくしてくれるからか。シルヴィオ様に近づきたいと、そんな思いをどうしても捨てられなくなってしまったのだ。こんな思いが、まだわたしのうちに残っていたなんて。
けれどそのせいで、わたしの胸には悲しみが巣くってしまっていた。
近づこうとして手を伸ばしても、シルヴィオ様はするりとかわしてしまう。わたしの手は、いつまで経っても彼に届きそうにない。そのことが、辛い。
「不要だって、言われたけれど……わたしがもっと立派な妻になれば、彼も振り向いてくれるかもしれない……」
世間知らずの弱虫ではなく、彼を支えられるくらいの人物になれれば。もしかしたら、見直してもらえるかもしれない。
「……でも、具体的に何をどうすればいいんだろう……」
結局、前に進めそうにはなかった。そのことにしょんぼりしていたら、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「奥方様、気晴らしに読書などいかがでしょうか」
そう言って顔を出したのは、心配そうな表情のブリジッタだった。その手には、数冊の本を抱えている。
マセッティにいた頃も、本を読む機会はあった。アデリーナが飽きたものを、ぽいとよこしてきたからだ。すっかり擦り切れ、あちこち汚れてしまったものを。
でも今目の前に並んでいる本は、それらの本よりずっと美しく、立派なものだった。それに、まだ読んだことのないものばかりだ。
「まあ、こんなにたくさん……」
思わず感嘆のため息をついたら、ブリジッタが嬉しそうに微笑んでくれた。
「読書はお好きでしょうか。でしたら、またお持ちします」
本を受け取って、もう一度うっとりと眺めて。そのとき、ふと思い出した。
「あの……前に、トリエステの懐事情についてうかがった覚えがあるのですが……こちらの本は、どうされたのですか?」
真新しくはないけれど、状態のいい本。それが何冊も。こんなものが、どこから出てきたのだろう。
世間知らずのわたしだけれど、本が高級品だということは知っている。
アデリーナが本をよこしてくる時、いつも言っていたから。「本当はこんなぜいたく品、あんたにはもったいないんだけどね。あたしの優しさに感謝しなさい」と。
首をかしげるわたしに、ブリジッタはためらいがちに答えてくれた。
「……実は、先代の奥方様が集められていたものなのです。いずれ折を見て売りに出そうと、旦那様はそうおっしゃっておられましたが……」
「それは、持ち出してしまってよかったのでしょうか?」
「ええ。奥方様のためですから」
ブリジッタの笑顔が、ぐにゃりとゆがむ。頬が熱い。
「お、奥方様!」
ぐにゃぐにゃの視界の中から、ブリジッタの焦ったような声が聞こえてくる。そのときようやく、我に返った。わたし、泣いているんだ。
「……大丈夫です。その、あなたの言葉が嬉しくて……」
ハンカチで涙を拭い、ブリジッタに笑いかける。けれどその間も、また涙があふれてくる。
「……わたし、マセッティの家ではずっと冷遇されていたんです。屋敷の片隅で、ずっと一人で過ごして……」
どうして、彼女にこんなことを話してしまっているのだろう。その理由は分かっていた。
わたしにも、かつて一人だけ味方がいた。
わたしの扱いを見るに見かねたマセッティのメイド長クレオが、こっそりとわたしの面倒を見てくれたのだ。人の温かさを教えてくれたのは、彼女だけだった。
でも、アデリーナはそれが気に入らなかった。クレオが自分ではなくわたしのほうを見ていたことが許せなかったのか、彼女は両親に言いつけてクレオを解雇させてしまった。
ブリジッタと話していると、クレオのことを思い出す。ブリジッタのほうが若くて、そして厳格な雰囲気だけれど。でも二人とも、とってもわたしに親切にしてくれた。
「……こんなふうに優しくしてもらえたのって、本当に久しぶりで……」
どうにかこうにか涙を止めることに成功して、ブリジッタに向き直る。彼女はとても難しい顔をしつつも、どことなく納得したようにうなずいていた。
「それで先ほど、引きこもりだ何だとおっしゃったんですね。ようやく、理解できました」
そんな彼女を見ていたら、急にそわそわするような気持ちが込み上げてきた。嬉しかったとはいえ、恥ずかしいことをばらしてしまったかもしれない。
「あの、今の話ですが……シルヴィオ様には内緒にしてもらえませんか?」
そろそろと頼み込むと、ブリジッタがけげんそうに目を細めた。
「どうしてでしょうか? 旦那様にはお伝えしておいたほうがよいかと思いますが」
「……シルヴィオ様は、わたしのことをうとんじておられます。その上、実家でもそんな扱いを受けていたと知られたら、軽蔑されてしまいそうで……」
わたしが世間知らずなのは、見れば分かるだろう。けれど、血のつながった家族にさえさげすまれているということを、彼に知られたくないと、そう思った。
「……はい。奥方様が、そうおっしゃるのであれば」
ブリジッタは礼儀正しくそう言って、また部屋を出ていく。彼女が置いていった本を一冊手に取って、じっと眺めた。
その本の表紙には、仲睦まじく見つめ合う若い男女の姿が描かれていた。たったそれだけのことに、また寂しさを覚えてしまった。