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3.夫は自由をこいねがう ※

「……旦那様」


 執務室で頭を抱えている私に、ブリジッタがそっと声をかけてきた。いつも冷静な彼女だが、今はやけに難しい顔をしている。


「どうした、ブリジッタ」


「……奥方様の、ことですが」


 ブリジッタには、妻の――あの女を、妻と呼ぶことさえ寒気がするのだが――世話を任せている。賢く冷静なブリジッタなら、この困難な役目も果たせるだろうと、そう考えて。


「ここを出ていくと、実家に帰ると言っていたのか」


「いいえ」


「ならば、話を聞きたくはない」


 期待外れの返事に、失望しながらため息をつく。


 私は、この縁組に納得していない。あの女は周囲の思惑が絡み合った結果、私に押しつけられた花嫁なのだから。


 ……私の父、先代トリエステ伯爵は、祖父母に溺愛されて育った。由緒あるトリエステの家を継ぐのだから、それにふさわしい暮らしをしなくてはね、とか何とか、そんなことを言われ続けていたらしい。


 その結果父上は、トリエステの家を継いだときにはもう、手に負えない浪費家になっていた。


 身につけるものも身の回りのものも、全て一流品ばかり。日々たくさんの友人を招いて、豪勢な宴を開いて。


 母上は父上と似た者同士で、喜々として遊興にふけっていた。そしてもちろん、祖父母はそんな二人を止めることはなかった。


 まだ子供だった私も、一歩間違っていたら父上たちの世界に巻き込まれてしまっていたかもしれない。


 けれどブリジッタが、そうならないように防いでくれていた。


 当時、私の教育係に任命されていた彼女は、波風立たないようにこっそりと、しかし辛抱強く教えさとしてくれたのだ。


 貴族としてあるべき姿について、その義務と責任について。それを聞いた私は、父上たちのふるまいに強い違和感を抱くようになっていた。


 祖父母は両親を構うのに忙しく、両親は祖父母に甘やかされるのに忙しかった。そんなこともあって私は、屋敷に漂う怠惰な空気に染まることなく成長することができた。


 両親や祖父母のふるまいを不安に思いながらも、私はただ見ていることしかできなかった。けれどやはり、そんな日々はいつまでも続きはしなかった。


 私が十七歳のとき、とうとうトリエステの財産が底をつきそうになってしまった。それを機に、ついに親戚たちが動き出したのだ。


 親戚たちはそれぞれの私兵を率い、同時にこの屋敷に押し寄せた。まっすぐに父上のもとに向かい、厳しい顔で詰め寄った。


 このままではこの家は終わる、その前に息子のシルヴィオに当主の座を譲れ、さもなくば自分たちはトリエステ家にあだなすお前たちを討つ。親戚たちは、そんなことを言い放ったのだ。


 だが私は、次の当主にはふさわしくない。両親たちのおかしなふるまいを一番近くで見ていながら、ただ手をこまねいていたのだから。


 そう主張したけれど、親戚たちは聞く耳持たなかった。あいつらのふるまいがおかしいと分かっているのなら、お前は十分すぎるくらいにまともだと、そう言って。


 結局、両親と祖父母は屋敷を追い出され、トリエステ領の端にある小さな屋敷に押し込められることになった。四人に対してさほど愛着を感じていなかった私は、そのこと自体はどうでもよかった。


 どうでもよくなかったのは、トリエステの現状のほうだった。


 しぶしぶ当主となった私は、財政に関する書類――父上が執務をないがしろにしていたので、不完全なものではあったが――に目を通して、卒倒しそうになった。


 私が想像していたよりも、親戚たちが考えていたものよりも、ずっとトリエステの家はまずい状態に置かれていた。このままでは遠からず、この家は破綻する。その先に待つのは、家の取り潰しだ。


 親戚たちから金を借り、可能な限り借金を返し。しかしそれでも、危機を脱することはできなかった。


 ああ、いよいよ終わりか。悔しさに唇を噛みしめたそのとき、思いもかけないところから助けの手が差し伸べられたのだった。


「……家が取り潰しになるか、マセッティの援助を受けるか。あのときの私には、後者を選ぶことしかできなかった……」


 マセッティ伯爵は、「君の家が困っていると聞いてね、私でよければ援助させてくれ」と申し出てきたのだった。人の好さそうな笑顔を振りまきながら。


 家の恥をさらすことにはためらいもあったが、その時はわらにでもすがりたい思いだった。仕方なく事情を大まかに説明したところ、彼は二つ返事でうなずいた。「では、必要なだけの金銭をお貸ししよう」と。


 私と彼は、初対面だった。そんな彼の気前の良すぎる言葉に、当然ながら警戒した。どうして、そこまでしてくれるのですか、と。


 すると彼は、「歴史あるトリエステ家がこのままなくなってしまうのは、この国にとって痛手だからね」と朗らかに答えたのだった。


 もし、時を遡れるのなら。マセッティと関わらずに家を建て直す方法を探せと、過去の自分に言い聞かせてやりたい。そう、やはり彼には別の思惑があったのだから。


「多少は、恩を売ろうとしていたのかもしれないと思った。だが、ここまでとは……」


 マセッティ伯爵の援助を受けてしばらく、私たちは礼節を守った付き合いを続けていた。私は彼のことを友人だと、そう思っていた。


 しかしそうやって親交が深まったところで、マセッティ伯爵は唐突に言い出したのだ。どうか、うちの娘を貰ってくれないか、と。


 もちろん、断る理由などなかった。恩義ある彼の娘なら、喜んで迎え入れよう。そう思っていた。


 ところが、婚礼の準備を進めていたある日、差出人の記されていない手紙が届いた。『貴殿の妻となるベルティーナ、彼女は稀代の悪女である。注意されたし』と。


 男の口調に女らしい文字のちぐはぐな手紙に、最初は何かのいたずらだろうと思った。しかし、胸の中に芽生えてしまった不安は消せなかった。


 だからこっそり人をやって、マセッティの屋敷がある街で聞き込みをさせた。そうして、彼らは……驚くべき結果を持ち帰ってきたのだった。


「使用人や街の者をいたずらに虐げ、複数の男と関係を持つ。両親の前でだけはしとやかな女性を演じていたものの、どうやら最近、普段の所業が両親にばれたらしい。……私のもとに嫁いできたのは、そんな女性なんだ」


 聞き込みの結果を知って、私は絶望せずにはいられなかった。


「私に恩を売っていたことを利用して、マセッティ伯爵は持て余した悪行三昧の娘をこちらに押しつけてきたのだろうな」


 もう何度目になるのか分からないため息をついて、さらに独り言をつぶやく。


「もしかしたら、彼はいずれトリエステの家を乗っ取ることも考えているかもしれないな」


 今この部屋にいるのは、私とブリジッタだけだ。だから、こんな恐ろしい推測を口にすることもできる。うかつな者に聞かれたら、おおごとになりかねない。


「我が家は今でこそ貧しいが、我が王国の建国時より続く歴史ある家だ。新興ながら裕福なマセッティ家にとっては、おあつらえ向きの獲物なのかもしれない」


「旦那様。推測でしかないことを、おおっぴらに発言なさらないでください」


 昔、教育係だったころを思わせる厳しい口調で、ブリジッタがびしりと釘を刺す。


「ああ。だからこうして、君にだけ話しているんだ。それに、あながち間違ってはいないだろう?」


 ブリジッタの眉間に、薄くしわが寄る。明らかに、何か納得がいっていないときの顔だ。


 私が小さいころ、一度こっそり屋敷を抜け出した。しばらくして見つかり連れ戻されたので、必死に言い訳をしたものだ。……あのときの彼女も、こんな顔をしていた。


「できることなら、ベルティーナとはさっさと別れてしまいたい。しかしマセッティとのこともあるから、こちらから離縁は言い出せない。だから、彼女が出ていきたくなるよう仕向ける。……悪女には、ちょうどいいもてなしだ」


「……そちらについて、少々異論がございます」


 ブリジッタの視線に負けじと強気に言い放ったら、彼女の目つきがさらに鋭くなってしまった。


「奥方様は、見ているこちらが気の毒になるくらいに腰の低いお方です。それに、旦那様のそのつれない態度を、気に病んでおられました」


 彼女の声音には、非難するような響きがある。ついぎくりとしてしまったのを、必死に押し隠す。


 実のところ、私も同じように感じてはいた。昨日やってきたあの女は、予想とはまるで違う雰囲気の、弱々しい女性だったのだ。


「だが、それこそが彼女の恐ろしいところかもしれない。演技でもって私たちを油断させようとしているのかもしれないぞ。それに」


 私があの女を受け入れたくないと考えてしまった理由は、もう一つあった。


「……両親と祖父母の愚かな行いの果てに、押しつけられることになった妻……」


 静かに言葉を紡ぐ。ブリジッタが、はっとした顔で私を見た。


「……もう、周囲に振り回されるのはこりごりだ。私は私の意思をもって、自分の人生を歩みたいんだ」


「旦那様……」


「トリエステの当主としての責務を投げ出すつもりはない。だがこれ以上誰かに、行動を縛られたくはないんだ……」


 これが、掛け値のない本音だった。


 トリエステ家を背負っている私には、そもそも行動の自由なんてろくにない。領地を治め、税を管理し、妻をめとって血筋を未来に残し……それが、普通の貴族の人生だ。


 けれどせめて、共に人生を歩く者を選ぶ権利くらいは、主張してもいいのではないか。悪女とともに一生を過ごすつもりはないと、声を上げてもいいのではないか。


 そう思いながら、こぶしをぐっと握る。そんな私に、ブリジッタはそれ以上声をかけてこなかった。

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