27.希望の光 ※
体調を崩し、寝ついてしまったルーティ。彼女のために呼んだ若い医者は、重々しく言い放った。
彼女は確かに、不治の病にむしばまれているのだと。
「それでは、妻は、もう……」
しかし彼が次に口にしたのは、思いもかけない言葉だった。
「いえ、奥方様が病にかかられていたのは確かでしょう。ですが今は、違っているようです」
「……どういうことだ?」
話が呑み込めていない私に、彼は穏やかに微笑みかけてきた。
「かつて奥方様が宣告された病は、生きる気力をなくした者にとりつきます。そうしてそのまま、身も心も衰えていき、死に至る。どんな薬も、効きはしません」
そんな恐ろしいことをさらりと言って、彼は私とルーティを交互に見る。
「そんなことから、この病はずっと不治の病だとされてきました。ただごくまれに、この病を克服した者がいるという、そんな事例が聞こえてくるようになったのです」
「そ、それはどうやって!?」
思わず身を乗り出し、若い医者に詰め寄ってしまう。ルーティが助かる可能性が毛一筋ほどでも残っているのなら、その可能性に賭けたい。
焦る私をなだめるように、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「絶望が引き起こすこの病は、生きることへの意欲を取り戻すことで自然と癒えていくのです」
あまりにも漠然とした内容に、ぽかんとしてしまった。ふとルーティを見ると、彼女も目を真ん丸にしている。
「ただ、それがとても難しいことでして。なにぶんこの病を患う者は、みな生をあきらめ、死を望んでおりますから」
悲しげに目を伏せて、若い医者は続けた。
「私たち医者にできることなど、何もなくて……患者が自分の力で希望を見つける、あるいは周囲の人間に支えられて前を向く、それ以外に、助かる道はないのですよ」
それを聞いて、ルーティがはっとした顔になる。心当たりがあったのだろう。
「奥方様は、その珍しい例の一つとなられたのでしょう。……本当に、ようございました」
「ちょっと待ってくれ、ということは……」
にっこりと笑う若い医者に、おそるおそる声をかける。彼は、とても力強くうなずいてくれた。
「奥方様は、不治の病を克服されました。今体調を崩されているのは、ただの風邪ですね。睡眠を削ったり、疲労をためたりといったことはありませんでしたか?」
「……はい。絵を、描いていて……」
最近の彼女は、時間さえあれば絵を描くようになっていた。あとに残される私のために、思い出を形に残すために。
けれどそのせいで、彼女は眠る時間を減らしていた。一緒に眠ろうと待っている私のほうが、眠気に負けそうになるくらいに。
「それでは、温かくしてしっかり休養し、栄養のあるものをとればすぐに元気になられますよ。滋養にいい薬草がありますから、処方いたしましょう」
そう言いながら、彼は持ってきていたカバンの中を探り、薬を作る支度を始めてしまった。
「奥方様の人生は、まだまだこれからです。どうか、無茶をなさらないように」
彼は手際よく薬を調合すると、代金を受け取って帰っていった。まだぽかんとしたままの、私とルーティを残して。
二人きりになっても、私たちはしばらくの間呆然としていた。やがてはっと我に返り、薬をやかんでせんじる。せんじ汁を入れたカップをルーティに差し出し、じっと彼女の様子を見守った。
どうやらかなり苦いのだろう、可愛らしい眉をきゅっとひそめて、一口ずつ薬を飲んでいる。まだ熱のせいで目つきはとろんとしているし、疲れた様子だ。
けれどその頬は以前よりもふっくらとしていて、カップを持っている手や腕にはうっすらと筋肉がついている。少し日に焼けたその姿は、ここの緑の海によく似合う、健康的なものだった。
トリエステの屋敷にいた頃の彼女は、とてもか弱い女性のように見えた。うっかり触ったら壊してしまいそうな、ガラス細工の人形のようだった。正直、そのせいもあって私は彼女を持て余していたのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、自然と言葉がこぼれ落ちていた。
「……本当に、君の病は、治っていた……」
そうつぶやいたら、もう止まらなかった。
「……これからもずっと、君と一緒にいられる……死にゆく君を、見送らなくていい……」
言葉と一緒に、涙がぼろぼろとあふれてくる。ずっとこらえていた苦しみを、押し流していくように。
ルーティはコップを寝台のかたわらの小机に置くと、そっとハンカチを差し出してきた。
「……わたしには、何もなかった。最後に残された命さえなくなるというのなら、たった一つの夢をかなえたい。絶望の中でわたしは、ふとそんなことを考えました」
そうして、彼女は静かに語り始めた。
「はるか南にあるという緑の海。どれくらい遠くにあるのか分からない。そもそも、本当に存在するのかすら分からない。けれどわたしは、ためらいませんでした。たとえそこにたどり着けなかったとしても、構いはしない。そう思っていました」
ここの海と同じ緑色の目が、まっすぐに私を見つめていた。その美しさに、見とれてしまう。
「何があろうと、夢に向かって進む。それはわたしの人生で初めて、自分の意志で決めたことでした」
「その小さな夢が、君を救ったのか……」
この村で再会した時の彼女は、とても生き生きしていた。不治の病に侵されていているとは、とうてい思えないくらいに。
きっとあの時にはもう、彼女は病から解放されていたのだろう。きっとあの病は、彼女を不幸な人生から解放するために、彼女をこの地に導くために、彼女にとりついたのだ。
そう、今の彼女には、未来がある。不幸の果てにたどり着いた、明るい未来が。
「……ルーティ。君は、自由だ」
私の言葉に、ルーティがはっと息を呑んだ。
「ここで暮らしたいのなら、それでもいい。トリエステの屋敷に戻りたいというのなら、屋敷のみなで歓迎する。それ以外の場所に行きたいというのなら、全力で手助けしよう」
必死に言葉を探す。私のこの気持ちを、間違いなく伝えられる言葉を。もうこれ以上、彼女を傷つけないように。
「君はずっと、不自由な中で生きてきた。けれどこれからは、自由に生きてほしい。……苦しみばかりの生活に君をつないでしまった私が、言えたことではないのかもしれないが」
頭を下げ、ルーティの返事をじっと待つ。
「……本当に、好きに生きても……いいのでしょうか」
「ああ。君がどのような結論を出したとしても、私はそれを支持する」
「わたし、この村が好きです。ここでのゆったりとした暮らしが、大好きなんです」
とても優しい口調で、彼女はそう言った。
「……けれどそれと同じくらい、いえ、それ以上に、あなたのことが好きです」
はっと顔を上げると、ふわりと柔らかな笑みが浮かべた彼女と目が合った。
「許されるのなら、一生おそばにいたい」
「ああ、もちろんだ! 君さえ私のそばにいてくれるというのなら、私は君を一生離しはしない!」
そう宣言した拍子に、また涙がにじんでしまった。まったく、格好がつかないにもほどがある。
「でしたら、一緒にトリエステのお屋敷に戻りましょう」
しかし、続く彼女の言葉に、私は猛烈な違和感を覚えずにはいられなかった。
彼女は、この村が好きだ。そして、私のことも好いてくれている。そして彼女は、私とともにトリエステの屋敷に戻ろうと言った。
違う。それでは駄目なんだ。あの屋敷に連れて帰ったら、彼女を大切な場所から引き離してしまったら、彼女の今の輝きは失われてしまう。
私も、彼女のことが好きだ。彼女が一番輝いていられる、この場所が好きだ。
「……いいや。ルーティ、私たちはこれからも、この村で暮らそう」
できるだけ優しく答えたのだが、彼女は困ったように目を伏せてしまった。
「そうできれば一番ですが、けれど、それでは……」
「トリエステの家は、もう大丈夫だ。それに私も、ここの暮らしを気に入っている」
大きく笑って、力強く断言する。
「……いつか、嫌でも戻らなくてはならない日がくるのだろうとは思う。だからそれまでは、ここでの穏やかな暮らしを楽しもう」
そう付け加えると、ようやくルーティはうなずいてくれた。ちょっぴり涙ぐみながら、笑顔で。




