26.別れの時は近く
「ん……朝……」
窓の隙間から差し込む朝日に、目を覚ます。いつものように、一日が始まる。
しかしシルヴィオ様にしっかりと抱きしめられているせいで、起き上がることができない。彼の腕の中でそろそろと身じろぎしていると、シルヴィオ様がううんと声を出した。
「おはよう、ルーティ……今日も、目覚めてくれた……」
そうして彼は、よりしっかりとわたしを抱きしめてしまった。
医者の見立てでは、わたしはもうそろそろ命を落としていてもおかしくないころあいだ。
そんなこともあって、シルヴィオ様は毎晩、わたしをしっかりと抱きしめて眠るようになったのだ。こうしていれば、君に何かあってもすぐに気づけるだろう。彼は、そう主張していた。
そして朝、わたしが目を覚ますたびに、彼は大げさなくらいにほっとするのだ。これが、毎朝の習慣のようになっていた。
こんなふうに誰かに触れられるのは初めてなので、まだ慣れない。けれど、それだけ大切に思われているということなのだと、そう感じられる。
新しい習慣は、もう一つあった。わたしは空いた時間に、たくさん絵を描くようになった。
これまで目にしてきた色々なもの、今目にしているもの。そういったものの全てを、形に残すために。……わたしがいなくなったあと、シルヴィオ様が見返せるように。
砂浜の木陰に二人並んで腰を下ろして、スケッチブックを一緒に見返す。
「これは、マセッティ伯爵夫妻とアデリーナか? ずいぶんと前の姿のようだが……」
「三人そろっているところを見たのは、もう何年も前のことになりますから……」
わたしは、見たものを紙の上に描き出すことは得意だ。けれど、見ていないものを想像して描くことは苦手だ。
両親と妹、血はつながっているのに一度たりとも心を通わせたことのなかった三人を描こうとしたら、こうなってしまった。両親は若々しく、妹はまだ子ども。
「こちらはクレオか。昔から美人だな。……君を探していた時に、手ひどく叱られたのを思い出すよ」
「クレオはそういうところがあるんです。普段は控えめなのに、叱るべきところではきっちりと叱ってくれて……子どものわたしをしっかりとしつけてくれたのは、彼女でした」
「ああ……聞いていて、ブリジッタを思い出したな。私もつい最近、彼女にこっぴどく叱られたんだ。……彼女には、感謝しかない」
「わたしもです。ブリジッタには、本当によくしていただいて……いつか二人にも、お礼を言いたいですね。手紙は書きましたけど、実際に顔を合わせたいです」
「そうだな。私たちがこうやって幸せに過ごしているところを、見てもらいたいな」
そのまま同時に、黙り込んだ。波の音と、遠くで子どもたちが遊んでいる声だけが聞こえてくる。
わたしたちには、あとどれだけ時間が残されているのか分からない。未来の話など、できないのかもしれない。
今のわたしは、すっかり健康……だと思う。けれどあの医者は言っていた。この病にかかった者は、みな遠からず命を落とすのです、と。
「そ、そうだ。このスケッチブックを見ていて思ったのだが……君自身を描いた絵は、一枚もないのだな」
暗くなってしまった空気を追い払うかのように、シルヴィオ様が明るく声を張り上げた。
「……わたし、自分のことがあまり好きではなかったので……あえて絵に描こうという気が、起こらなかったんです」
「私は、君の似顔絵が見てみたい。私の似顔絵は、もう何枚も描いてもらった。自分でも驚くくらいに、生き生きしていて……あんな風に絵の中で微笑む君を、見たいんだ」
「でしたら、頑張ってみます。ちょっと照れくさいですが……」
わたしがいなくなったあとのことを考えれば、自分の顔も描いておいたほうがいいのかな、とは思う。きっとその絵は、シルヴィオ様がわたしのことを思い出す助けになってくれるだろうから。
でも逆に、そんなものはないほうがいいのかもしれないと、そうも思ってしまう。わたしがいなくなったあと、ただ一人悲しみにくれるシルヴィオ様の姿を想像したら、辛くてたまらない。
シルヴィオ様は、わたしに愛をくれた。幸せをくれた。それだけで十分だ。
だからわたしがいなくなったら、わたしのことは早く忘れて、幸せになってほしい。それが、わたしの本当の望み。
けれどこんなことを、口にするわけにはいかない。そんなことをしたら、シルヴィオ様を余計に悲しませてしまうから。
この思いは、絵にこめよう。どうか前を向いて歩いてくださいと、そう絵の中のわたしに語らせよう。
そう決意しながら、まだ白紙のままのページをじっと見すえた。
医者に告げられた一年が過ぎ、さらに一か月、二か月と過ぎていって。
どうかこの平穏な日々が一日でも長く続くようにと、わたしとシルヴィオ様は言葉にこそしなかったものの、ずっとそう祈り続けていた。
けれど、この村にしては妙に寒々とした風が何日か吹いた、ある日。
「お、おい、ルーティ!」
やけにあせったようなシルヴィオ様の声に、目を開ける。まだ朝日は昇っていないらしく、小屋の中は暗かった。
「……シルヴィオ……さま……」
そして、体がとても重かった。頭が熱くて、何も考えられない。
「君の体がやけに熱くて、目が覚めたんだ。どこか痛いところなど、ないか?」
「……頭が痛いです。体が重くて、動きづらくて……ぼうっとします……」
わたしの返事を聞いて、シルヴィオ様の顔に恐怖の色が浮かぶ。
「少しだけ待っていてくれ、今、助けを呼んでくる!」
その声を、ぼやけていく意識の中で聞いていた。
それからは、とろとろとしたまどろみの中にいた。村の女性たちに手伝ってもらいながら、シルヴィオ様がわたしの世話を焼いているのが、目を閉じていてもよく分かる。
ああ、わたしのためにあんなに頑張ってくれている。そのことを嬉しく思うと同時に、申し訳なくも思っていた。
けれどそんな考えも、また眠りの中に消えていく。
次に気がついたときには、部屋の中の空気はすっかり変わっていた。寝台のすぐ隣の椅子に腰を下ろし、沈痛な面持ちでシルヴィオ様がわたしを見つめていた。
そしてわたしの枕元には、知らない男性がいる。若くてひょろっとした彼は、この村の者ではない。
「……君の治療のために、町から医者を呼んできたんだ。彼はまだ若いながら、かなりの腕利きなのだとか」
とまどうわたしに、シルヴィオ様がそう説明する。
「腕利きなど、身に余るお褒めの言葉ですが……精いっぱい、頑張りたいと思います。奥方様、少しお体に触れますよ」
若い医者はそう言って、わたしの手を取って脈を確かめ、額に触れて熱を確かめている。それから、シルヴィオ様のほうに向きなおった。
「奥方様は、いつごろ体調を崩されたのでしょう?」
「三日前だ。寝付いてすぐ、貴殿を探させた」
そう答えるシルヴィオ様の声は、隠しようもなく震えていた。
「だが、彼女は一年以上前から、不治の病に侵されているんだ。これは、この症状は……いよいよ病が牙をむいた、そういうことなのだろうか……」
「不治の病、ですか!?」
目を真ん丸にしている若い医者に、切れ切れに病の名を告げる。トリエステの屋敷にいたときに医者に告げられた、あの病の名だ。
「ああ、あの病ですか……しかしこの病状は……それに、奥方様の様子を考えると……」
若い医者は、考え込みながらそんなことをぶつぶつとつぶやいている。そして唐突に、わたしに質問を投げかけてきた。
「失礼なことをおうかがいしますが、奥方様はその頃、ひどくふさぎこんでおられたのでは? それこそ、生きる希望を失うくらいに」
「……はい」
彼の言うとおりだった。あのころわたしは、絶望のどん底にいた。
生まれた家には居場所がなく、嫁いだ先でもうとんじられ、ほんのりと想いを寄せていたシルヴィオ様に、こともあろうにアデリーナが言い寄り始めた。
もう、どこにもわたしの居場所なんてない。わたしは存在しているだけで、誰かに迷惑をかけてしまうんだ。だったらもう、いっそいなくなってしまいたい。あのころ、確かにわたしはそう考えていた。
そんな思いをぽつぽつと語ると、若い医者は悲しげな目をして、ゆっくりとうなずいた。
「……お話は分かりました。その医者の見立ては、間違っていません」