24.悩み事はつきなくて
わたしがこの村に来てから、半年近くがたっていた。
一年を通して温暖なこの地で暮らしていると、時間の感覚もおかしくなってしまう。というより、そんなことはどうでもよくなってしまうのだ。
正直、わたしは今がいつなのか、もうそれすら考えないようになっていた。
けれどある日、シルヴィオ様が暗い顔でつぶやいたのだ。もう半月ほどで、君が出ていってから一年になるな、と。
それからというもの、彼は毎日のようにわたしの体を気づかうようになってしまった。痛いところはないか、苦しいところはないか、と。
今のわたしは、かつてトリエステの家で寝ついていたのが嘘のように元気そのものだった。もしかしたら、もう病は治ったのかもしれない。そう主張したのだけれど、シルヴィオ様の顔色は暗いままだった。
それだけでも悩ましくてたまらないというのに、よりによって問題がさらに持ち上がっていた。トリエステ家と、マセッティ家のことだ。
シルヴィオ様に無視され、彼の従弟にばっさり振られたアデリーナは、本当にお父様に泣きついたらしい。
お父様は、じわじわとトリエステ家をしめ上げにかかったのだ。私の大切な娘を粗末に扱うような家に、これ以上援助をするつもりはない、今までの貸しも返すようにと、そう言って。
シルヴィオ様は必死に隠しているけれど、彼の従弟からの知らせは、よくないものばかりになっているようだった。
「せめて、トリエステの家のことだけでもなんとかできればいいのに……」
ある日の午後、そんなことをぼんやりとつぶやきながら、一人で浜辺をとぼとぼと歩く。シルヴィオ様は、村の男たちとともに小屋の修理中だ。先日の嵐で、少し雨漏りしてしまったのだ。
彼はこの村に来てから、驚くほど勤勉に、熱心に物事を学んでいった。網を使った魚のとり方、小舟の乗り方、木に登って木の実をとる方法、まきの割り方……もう今では、村の男たちと同じくらいに働けるようになっていた。
わたしとともにこの村で住むために、彼はこんなにも努力してくれた。その思いに報いたいのに……わたしには、何もできない。そのことが悔しい。
そうしていたら、向こうから女性たちが歩いてきた。畑仕事の帰りらしく、農具をかついで陽気にお喋りしている。
「おや、ルーティじゃないか。一人だなんて珍しいね。夫婦喧嘩でもしたのかい?」
「何言ってるのさ。小屋の修理だよ。うちの亭主も手伝いにいったからねえ」
「一応、ここの領主様なのに……よく働くよねえ、あの方は」
彼女たちはそう言って、シルヴィオ様を褒めそやしている。
シルヴィオ様の請願、この地をトリエステ領としたいという願いは、王宮にも、そしてここの村のみんなにも、あっさりと受け入れられた。
けれどそれによって変わったことといえば、みんながシルヴィオ様をさん付けで呼ぶようになった、それだけだった。
「それはそうと、やけに暗い顔をしてるねえ?」
「あたしたちでよければ、相談に乗ろうか?」
「話すだけで、楽になることもあるよ。ま、あたしたちは頭はよくないし、理解できないかもしれないけれど」
そんな彼女たちの優しい言葉に、少しためらって、言葉を返した。
わたしの体のことは伏せて、トリエステの家のことだけを話す。
事情があって、とあるところにお金を返さなければならないのだけれど、どうすればいいのか分からない。そのせいで悩んでいるのだ、と。
「借金ねえ……どうしようもなくなったら、家を放り捨ててここで二人のんびりと暮らしていくっていう手もあるとは思うけど……」
「でも貴族様にとって、家ってのはとても大切なものなんだろ? 何とかしてやりたいね」
「お金になりそうなもの……あれとか、どうだろう」
「ああ、あれね。村長さえ説得できれば、何とかなるんじゃない?」
彼女たちはわたしを置き去りに、どんどん話を進めていく。どうしてここで、村長の名前が出てくるんだろう。
困ったままなりゆきを見守っていたら、彼女たちが一斉にこちらを向いた。
「あ、そうか。ルーティは知らないんだったね。この村では年に一度、お祭りをやるんだよ」
「そのときに、海の神様をかたどった人形をおまつりするんだ。普段は、村長の家にしまわれてるんだけど」
「それが、とってもきれいでねえ。その人形自体は持ち出せないけれど、修理用の部品くらいなら、あげられるかもしれない」
「よし、じゃあ今から行ってみようか」
わたしの返事を聞くより先に、彼女たちは歩き出す。わたしを連れて。
「村長、海の神様の人形、見せてやってよ」
そうしてそのまま、村長の家に上がり込んでしまった。
「どうしたんじゃ、突然大勢でやってきて」
村長は小柄な老人で、髪は真っ白だ。けれどこの村の男だけあって体は丈夫で、毎朝素もぐりで貝をとっている。
「トリエステの家が、貧乏で困ってるらしいんだ。だからあたしたち、お金になりそうなものを探してるんだよ」
その言葉に、村長も納得したようにうなずいた。
「ああ、なるほどの。人形……というより、あまりのほうに用があるんじゃな。ほれ、こちらじゃ」
村長に案内されるまま、奥の部屋に向かう。頑丈そうな木の棚の鍵を開け、村長は何かを取り出した。それを見て、はっと息をのむ。
村長が掲げているのは、大小様々な真珠を糸でつないで組み上げた、猫くらいの大きさの像だった。下半身が魚の形をしたその像は、赤や桃色のサンゴ、それに虹色の貝細工で飾り立てられていた。
「きれい……こんなに素晴らしいもの、生まれて初めて見ました……」
驚きに高鳴る胸を押さえていたら、村長は人形をしまい、大きな木箱を持ち出してきた。それをどんと近くの机に置き、蓋を開ける。
その中身を見て、今度は文字通り絶句した。
そこにみっしりとつまっていたのは、さっきの人形に使われていたのと同じような真珠の山だった。大鍋一杯分……ううん、もっと多い。
「こっちの木箱に入っておるのが、修理用の材料じゃ。いざというときは、この中から質のいい真珠を選び出し、海神様の人形を直すんじゃよ」
村長はのんびりとした口調で説明すると、人形がしまわれた棚のほうに視線をやった。
「とはいえ、人形はそうそう壊れたり傷んだりしないからのう……真珠もサンゴも貝も、たまる一方でな」
そういえば、さっき棚の中に似たような木箱がいくつもしまわれているのがちらりと見えた。一番下には、何か小さなものがつまった袋が何袋もあった。
あの中身が全部、真珠やサンゴや虹色の貝だとしたら……駄目だ、どれほどの価値があるのか、わたしには分からない。
「これらの真珠は、長い間わしらが少しずつ集めてきたものなのじゃよ」
この真珠を生み出す貝は、ここの海にたくさんいるのだそうだ。けれどとりすぎて死に絶えてしまわないように、代々村長が厳重に管理しているらしい。サンゴも同様に、村長が管理している。
彼が毎日素もぐりを欠かさないのは、そういった生き物の確認も兼ねているのだとか。
「とはいえ、その気になればもう少し多めにとることもできる。ただ、置いておく場所がもうなくてのう」
村長の家とはいえ、他の家と比べてもそんなに広くない。こんなに価値のあるものをたくさん保存しておくのも、骨が折れるのかもしれない。貴族の屋敷と違って、金属製の金庫なんてないのだし。
「それと、虹色貝は普通にとって食べておるから、こちらは村中に呼びかければすぐに集まるぞ」
「えっ!? あのきれいな貝を、食べるんですか?」
村長が口にした言葉に、思わず声を張り上げてしまった。
「あんたも一度は、食べてるはずだよ。シルヴィオさんが来て間もないころ、うちの亭主が差し入れにいっただろ? あのでっかい巻貝だよ」
横合いから、おかしそうな声がかかった。確かにしばらく前、小ぶりのカボチャくらいある貝をもらって、さっと湯がいて食べたのだけれど……。
「あの貝、根気強く磨いて表面を削ると、素敵な虹色が出るんだよ」
「そうだったんですか……貝殻はシルヴィオ様に差し上げてしまったので、知りませんでした。なぜか、あの貝殻が欲しいとおっしゃっていて……」
そう伝えると、女性たちが同時ににんまりと笑った。
「ああ、やっぱりそういうことか」
「だったらあたしたちは、黙っておこう。勝手にばらすのは、粋じゃないからね」
そんなお喋りを制するように、村長がまたのんびりと口を開いた。
「この真珠、ある程度なら分けてやれなくもないが……一度、シルヴィオさんを連れてくるといい。トリエステが貧乏、と言われても、どれほどの金があればいいのか、わしらにはとんと見当がつかんでの」
「はい、分かりました!」
そう答えて、村長の家を飛び出す。もしかしたら、シルヴィオ様の力になれるかもしれない。そんな希望に、胸おどらせながら。




