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23.君が生きた証 ※

 月光に照らされたルーティは、まるでこの世のものとは思えないほど美しく、儚げだった。まるで今にも消えてしまいそうな、そんな風情だった。


 そしてそれ以上に、彼女が今発した言葉が気になっていた。


「旅立つ? 君はまた、どこかに行くというのだろうか。私でよければ、同行させてはもらえないだろうか」


 彼女がどこに行くのであろうと、私はついていくつもりだった。こうして彼女への想いを実感してしまった今、彼女から離れることは到底できそうになかった。


 すると彼女は、穏やかに微笑んでみせた。透き通るような、月光に溶けこむような、そんな笑顔だった。


「……わたし、もう長くないんです」


「君が長くない? どういうことだ」


 普通、そういった言葉は病人や老人が使う。しかしルーティは、そのどちらでもない。


 ぽかんとしている私に、彼女は困惑した顔で尋ねてきた。


「ブリジッタから、聞いていないのでしょうか? 彼女がクレオのことを話したのであれば、てっきりあのことについても話しているとばかり……」


「いや、何も聞いていないが……トリエステの屋敷を飛び出した君が、昔からの夢だったという緑色の海を見にいった、ということしか知らない」


 それを聞いたルーティの顔が、悲しげにゆがむ。そして彼女は、そのままうつむいてしまった。


「……トリエステの屋敷にいたころに、体調を崩してしまって……お医者様をこっそり呼んで、診てもらったんです」


 胸元で組み合わせた彼女の手に、ぎゅっと力がこもっている。


「そうしたら、わたしに残された時間は、もう一年程度だと……」


 衝撃的な告白に、一気に血の気が引いていく。彼女が大変なことになっていたのに、気づいてやることすらできなかった。そんな後悔が、ふくれあがっていく。


「それを聞いて、屋敷を出ることを決めたんです。離縁のための、あの書類を残して。シルヴィオ様には迷惑ばかりかけてしまったし、もう自由になってもらおうって」


 彼女はぎゅっと目を閉じて、静かな声で語っている。


「からっぽの、何もない人生でした……せめて最後に、たった一つの夢をかなえようと思ったんです。こっそり絵を売っていたおかげで、多少貯金もありましたから」


 彼女の言葉が、うまく頭に入ってこない。トリエステの屋敷にいた頃に、残り一年の宣告を受けたのなら……もう、半年程度しか残っていないのか?


「……こんな……こんなことになっていたなんて……全部、私のせいだ……私さえ、きちんと夫として君に向き合っていれば、もっと早く、手を打てたかもしれないのに……」


 うろたえる私に、彼女は落ち着いた笑みを向けてくる。


「いいんです、シルヴィオ様。きっとこれが、わたしの運命だったんです」


 彼女の美しい髪が、夜風になびいている。私はただ、それをぼんやりと眺めていた。


「その最後の時間で、今まで知らなかったことをたくさん知りました。夢に見ていた緑の海、村での暮らし、そして……シルヴィオ様の思い」


 そうして彼女は、とてもゆっくりと、大きな笑みを浮かべた。


「わたし、幸せです。とっても。今まで生きてきた中で、一番」


 そんな運命なんて、認めたくない。愛しい彼女と、永遠に引き裂かれるなんて嫌だ。


 けれどそんな言葉は、私の口をついて出ることはなかった。目の前で微笑んでいるルーティは、本当に満足そうだったから。


 ふと気づくと、熱いものが頬を流れ落ちていた。こんな風に涙するなど、いつぶりだろうか。


「……ようやく、分かり合えたのに……」


 ざざん、ざざんと打ち付ける波の音が、私の胸をひどくえぐっているように思えてならなかった。




 それから私は、一日中ルーティと一緒に過ごすようになった。君の終わりが近いというのなら、少しでも長く君のそばにいさせてくれと、そう頼み込んで。


 朝は夜明けとともに目覚め、薄暗いうちに魚をとりにいく。家に帰って朝食にし、そのあとは掃除と洗濯。


 昼から夕方までは、木陰でくつろいだり、裁縫をしたりと思い思いに過ごす。


 夕方、朝の残りや保存食で夕食にし、そのあとは星空の下の散歩。


 毎日が、同じように過ぎていった。順調そのものの日々の中、私の胸の中には徐々にある考えが固まりつつあった。




「ルーティ、私は決めたぞ」


 夕食の準備中、野草をちぎりながらルーティに呼びかける。


「私はこの村とその周囲の地を、トリエステ領とするべく王宮に直訴する」


 その宣言に、ルーティは目を真ん丸にしていた。片手にナイフ、片手に皮をむきかけのイモをにぎったまま。


 この村は『どこでもない地』だ。近くの町と取引はあるものの、田畑は住人たちの腹を満たすための小さなものしかない。そもそも、作物を植えるのに適した土地があまりない。


 だからここの住人は、主に魚をとって暮らしている。自分たちで食べたり、よそに売ってわずかばかりの金に換えたり。


 貴族側からすると、このような地を統治したところで大したうまみはない。むしろ、災害などから住民を守る義務を負う分、統治者側の苦労が大きくなる。ここは、そんな地だ。


 でも、私にとっては違う。この村は、私にとってかけがえのない地になっていた。


 もうじき永遠の眠りにつくルーティ、彼女が終の棲家として選び、私と再会した場所。そして私たちが和解し、思いを育てていった場所。


 どれだけの苦労を背負ってでも、この地を手にしたかった。彼女亡き後も、この村が今のまま、穏やかで健やかであるように。


「私はずっと、この地を守っていきたい。ここの村の者たちの笑顔と、のんびりした暮らしを守りたい。そうすれば、君がいなくなってからも……ここに来れば、君のことを思い出せる」


 情けないことに、最後のほうは涙声になっていた。ぐっと奥歯をかみしめて、懸命にこらえる。


「……みんな、シルヴィオ様のことは好きですから、きっとトリエステ領への編入を喜んでくれると思います」


 と、ルーティが穏やかに言葉を返してきた。


「ここはわたしにとって憧れの場所であり、自分として生きることを教えてくれた場所であり、そして、あなたとの思い出がたくさんつまった場所です。あなたが守ってくれるのであれば、とても嬉しいです」


 にこりと笑う彼女。けれどその笑みが、すぐにくもってしまう。


「……ただ……」


 私から目をそらし、彼女は小声でつぶやいた。


「……あなたと思いを通わせなければ、わたしのことであなたが苦しむこともなかった。それだけは、後悔しています」


「いいんだ。その苦しみもまた、君のことを愛しているという証なのだから」


 愛しているから、苦しい。こんな感情は、今まで知らなかった。


 作業の手を止めて、うつむく。と、ふわりといい香りがした。手にしていたものを置いたルーティが、私をそっと抱きしめてくれたのだ。


「……やっぱり、君と離れたくはない。……どんな形でもいい。生きていてくれ……」


「わたしも、離れたくはありません……」


 そうやって私たちは、じっと抱き合っていた。ただ奇跡だけを、願いながら。

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