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21.もう少し、君のそばで ※

 食事を終えて、大体の事情も話し終えて。食器を片付け終えたところで、唐突にルーティが言った。


「……本当に、ありがとうございました。それではどうか、トリエステの屋敷にお戻りください。従弟さんも、あなたの帰りを待っておられるでしょうし」


 とても晴れ晴れとした、しかしどこか寂しげな顔で、彼女は笑う。


「そのことなんだが……君さえ許してくれるのなら、この村にしばらく滞在したい」


 私が一定の場所に留まっているのであれば、旅の間よりもずっと従弟と連絡が取りやすくなる。


 それに、私が従弟に当主代行を頼んだ時には、もうトリエステの家は安定し始めていた。両親と祖父母の後始末が、ようやく終わりつつあったのだ。


 本来なら、ここでルーティを説得して、共にトリエステの屋敷に戻るのが一番なのだろう。だが私は、もう少しこの海辺の村で暮らす彼女を見ていたいと、そう思ってしまったのだ。


 それくらいに今の彼女は、生き生きと輝いていた。いつも悲しそうな目をして言葉をのみこんでいたベルティーナと、控えめながらもまっすぐにこちらを見つめてくるルーティが、同じ人物だとは思えないくらいに。


「この村で泊まれるところがあれば一番なのだが……ないというのなら、近くの町に宿をとってもいいと思う。そうして毎朝、この村を訪ねたい」


「滞在……そうですね、ここの風景はとても見事ですから、すぐに帰ってしまうのはもったいないですし」


 私の言葉に、ルーティが納得したようにうなずく。勘違いをされた……というより、言葉が足りなかった。


 あわてて、もう一度口を開く。


「いや、そうではないんだ。私は……もうしばらく、ここで暮らす君を見ていたい」


 ところが不思議なことに、そこから先の言葉が出てこない。私たちは夫婦なのだから、そのうち一緒にトリエステの屋敷に戻ろうという、そんな言葉が。


 まあいい、焦ることもない。従弟は有能だし、時間はある。


「……一応、この小屋に空いた寝室はありますし……頼めば、知り合いの老夫婦の家に泊めてもらえると思いますが……」


 大いに困惑したような顔で、しかし彼女はそう言ってくれた。


「空き部屋か。見せてもらえないだろうか」


 同じ家で過ごすことができれば、それこそ一日中でも彼女と一緒にいられる。そう思ったら、これまでにないくらいに心が浮き立った。


「……一応掃除はしてありますけど、とてもあなたが寝泊まりできるようなものでは……」


 ルーティはすっと立ち上がると、奥の部屋に続く扉を開けた。


 彼女に続いて、そちらの部屋に入ってみる。窓は開け放されていて、心地よい風が吹いていた。


 そこそこ広さはあるのだが、家具は古びた木の寝台と、素朴だが頑丈そうな棚、背もたれのない小さな椅子だけだ。寝台の上には、草を編んだ布のようなものが広げられている。


「この村の家は、ほぼどこも同じようなものですから……シルヴィオ様が快適に眠れるような寝台は、たぶん、ないかと……」


 そんな部屋のありさまを見て言葉を失う私に、彼女はおそるおそる声をかけてきた。


 どうしたものか。やはり、近くの町に泊まるべきか。いや、だが彼女はここの暮らしに順応している。ならば私だって、頑張ればここで暮らせるはずだ……!


「ルーティ。どうか、ここに泊めてくれ。お礼といってはなんだが、君の言うことを何でも聞こう」


 さわやかに笑い、そう告げる。粗末な寝台へのためらいよりも、少しでも彼女の近くにいたいという思いが勝っていた。


 しかしルーティは、困ったように私の全身をさっと眺めている。


「……あの、無理をなさらなくても……その格好では、暑いでしょうし……」


 確かに、とても暑い。汗が止まらない。


 私はトリエステの屋敷からずっと、貴族の普段着でここまでやってきた。袖は長く、シャツと上着とスカーフを重ね着した服装だ。


 旅の間の馬車の中や、宿屋の中では、スカーフを外したり上着を脱いだりしてくつろぐこともできた。


 しかしここは、ルーティの家だ。私は書類上こそ彼女の夫だが、今までの仕打ちをわびにきた身だ。むやみやたらに身なりを崩すなど、できるはずもない。


 だが、この村は暑かった。窓から吹き込んでくる風はひやりとして心地よいのだが、これだけ着込んでいるとその風をろくに感じられない。


 せめて上着を脱いでいいか、ルーティに尋ねるべきだろうか。そう思ったその時、小屋の入り口のほうが急に騒がしくなった。


「おーい、ルーティ。お客さんだって?」


「いい身なりのいい男が来たって、村中で噂になってるよ」


「ちょっとでいいから、顔見せてよ」


 入り口の扉の向こうからは、女性たちの声がする。いたってのんきな、楽しそうな声だ。


「あ、あの……今、ちょっと取り込んでいまして……」


 ルーティは扉を薄く開けて、外の女性たちと応対している。


 私がこれからどうするかが決まっていない以上、彼女としては私を女性たちに会わせられないのだろう。彼女は、すっかりおろおろしてしまっている。


 困っている彼女を、これ以上放ってはおけない。今こそ、私の出番だ。


 ルーティのそばに歩み寄り、扉を大きく開け放つ。その向こうには、十名近くの女性が集まっていた。年齢はばらばらだったが、みなルーティと同じ、ゆったりとした衣をまとっていた。


「はじめまして、この村の方々ですね? 私はシルヴィオ・トリエステ、ずっと北に領地を持つ貴族です」


 そう自己紹介したら、女性たちがざわめき出した。貴族だなんて、どうしてそんなものがこんなところに。そう言わんばかりの顔をしている。


「そして私は、ルーティの夫です。ゆえあって彼女が出ていってしまったので、こうして追いかけてきました。しばらくこちらにお世話になる予定です。どうぞ、よろしく」


 私は可能な限りこの村に留まり、ルーティと過ごす。既に、心は決まっていた。


 しかし私が挨拶を終えた瞬間、みなぴたりと黙ってしまった。


 私は何か、彼女たちの気に障ることを言ってしまったのだろうか。そう思ったその時、たくさんの声が一斉にわき起こった。


「なあんだルーティ、やっぱり亭主がいたんじゃないか」


「それにしても、あんたが亭主のとこを出ていったって……何があったのさ」


「ちょいと、やぼなことを聞くもんじゃないよ。それより、亭主さんがここで暮らすなら、その格好は……無理だねえ。見てるだけで汗が吹き出すよ」


「うちの兄貴のお古でいいなら、貸してあげられそうだけど、どうする? ちょうど、体格も同じくらいだし」


「ああ、そりゃあいい」


 彼女たちはそんなことをわいわいと言い合っていたが、すぐに一人が走り去っていった。


 今のは何だったのだろうと思いながら、ルーティと顔を見合わせる。彼女はほんの少し、笑いをこらえているような顔をしていた。


 彼女のそんな表情の理由は、すぐに分かった。


 さっき走り去っていった一人が、何やら布の塊を抱えて戻ってきたのだ。


「はいこれ、どうぞ。うちの兄貴、ちょっと派手好みなんで、あれですけど……でも、案外似合うと思いますよ」


 彼女はその布の塊を、私に押しつけてくる。私はただぽかんとしながら、それを受け取った。


「この村の、普段着です。かなり涼しくなると思いますよ」


 そんな私を見かねたのか、ルーティがそっとささやきかけてくる。すると女性たちが、さっそく着替えてこいとまた騒ぎ立て始めた。


 ひとまず、布の塊を抱えて奥の空き部屋に移動する。


「……これを着る、か……だが、この村になじむためには必要なのだろうな」


 寝台の上に広げた服を見て、ぼそりとそうつぶやいた。それから意を決して、服を脱ぎ捨てていく。そうして、渡された服に着替えて。


 涼しい。


 さらりとした生地は汗で肌に張りつくこともなく、さわやかな風を通している。袖は二の腕までしかなく、ズボンも膝下丈だ。


 ただ、この色はどうかと思う。ズボンは生成りで頑丈なものだが、上に着るシャツは、白く模様を染め抜いた赤色だったのだ。こんな派手な服は、今まで着たことがない。


 しかも靴ときたら、草を編んだ靴底に色鮮やかな紐が取りつけられていて、その紐を足にくくりつけることで固定するというしろものだ。一応、足の裏が地面に触れることは防げるが……これを靴と呼んでいいものだろうか。


 身軽すぎて、そして派手すぎて落ち着かないが、ひとまずルーティたちのところに戻る。すると、女性たちがまたきゃあきゃあと騒ぎ始めた。


「おや、いい感じじゃないか」


「さっきまでの地味な色より、こっちの赤い服のほうが似合うよ」


「橙色も似合いそうだね。誰かその色の布地、持ってない?」


「うちにあるよ。亭主が着たいっていうから布を買ってせっせと染めたのに、やっぱりいらないって言いだして……見てると腹が立つから、ルーティにあげる」


「え?」


 女性たちの話を黙って聞いていたルーティが、目を丸くする。


「そりゃあいい。ルーティ、その布で亭主さんに服を縫っておやりよ。亭主さん、ここに滞在するんだろう? 着たきりじゃあ、色々大変だ」


「それは……みなさんに教わりましたから、縫えるとは思いますけど」


 どうにもルーティは煮え切らない。あわてて、女性たちに言い返した。


「いや、これ以上ルーティに迷惑をかけたくない。他の衣服は、近くの町で調達することにしよう」


 すると女性たちは、大いに不満げな顔をした。どうもこの村の人間はあけっぴろげで、飾ったところのない者が多いようだ。感情を、思いを隠す気がないらしい。


「いえ、縫います。縫わせてください。……いいですよね、シルヴィオ様」


 いつになく強気な彼女の返答に、私はとまどいつつもうなずき、そして女性たちは大いに満足そうに笑ったのだった。


 そうして、女性たちが帰って二人きりになってすぐのこと。


「……さっきは言い出せなかったんですが……その服、似合っています」


 ルーティはそうつぶやくと、下を向いてしまった。よく見ると、彼女の耳は真っ赤になっていた。

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