2.新しい生活
メイドたちの手によって髪を結い上げられ、薄く化粧をされたわたしは、自分でも少し驚くくらいには綺麗だった。
用意された普段着も、今までマセッティで着ていたものと比べたらはるかに上等で、素敵だった。
わたしは十八歳になったけれど、化粧の仕方も、髪の結い方も知らない。屋敷の奥で、一人引きこもっているだけの生活をしていたから。
昨日、マセッティの屋敷を出る前に花嫁衣裳に着替えた。化粧をしたのは、あれが初めてだった。肌の上に何かが張りついているようなこの感覚は、やっぱり苦手だ。
でも、慣れなくては。政略結婚とはいえ、わたしはシルヴィオ様の妻となったのだから。彼に恥をかかせないよう、頑張りたい。……たとえそれが、無駄な努力だとしても。
そうして身支度が済んだわたしを、ブリジッタがどこかに案内していく。緊張しながら、さわやかな朝日の差し込む廊下を歩いた。
「おはようございます、旦那様。奥方様をお連れいたしました」
ブリジッタが開けた扉の向こうは、食堂だった。
十人くらいが同時に着席できそうな大きな長机が置かれていて、一番奥にシルヴィオ様が座っていた。端正な顔に、不機嫌そのものの表情を浮かべて。
やっぱり彼は、こちらを見ようともしない。その姿に、昨日感じた寂しさがよみがえる。
「……おはようございます、シルヴィオ様」
勇気を出して声をかけてみたけれど、返事はない。予想していた通り。
しゅんとしながら、ブリジッタが引いてくれた椅子に腰を下ろす。長机の端と端、シルヴィオ様の正面で、彼から一番遠い席。
わたしが席に着くと、すぐに食事が運ばれてきた。今までマセッティの屋敷で食べてきたものとさほど変わらない、肉と野菜の煮込みと、丸っこいパン。
食事は、おいしかった。向かいの彼と話せたら……彼が一目だけでもこちらを見てくれたら、もっとおいしかったのかもしれない。
そんなことを思ったせいで、自然とうつむいてしまう。悲しさをごまかすように小さく息を吐いたら、近くに控えていたブリジッタがわずかに身じろぎしたように思えた。
無言のまま朝食を終えてまた自室に戻ってくると、ブリジッタがどことなく焦ったような口調で尋ねてきた。
「奥方様。食事は、お口に合いましたでしょうか……?」
「はい。とてもおいしかったです」
思ったままを答えると、彼女は露骨なくらいにほっとした顔になった。
「でしたら、ようございました。……実は見ての通り、このトリエステ家の懐事情は少々苦しく……奥方様のドレスも、この部屋も、お食事も粗末なものばかりで、申し訳ありません」
彼女の言葉に、首をかしげる。粗末。とてもそうは、思えない。
「……ドレス、素敵だと思いました。この部屋も、気に入りましたし……」
不思議に思いながら、また素直な気持ちを言葉にする。
「あなたも、他のメイドのみなさんも、よくしてくれて……」
マセッティの屋敷にいたころは、メイドたちですら最低限しか顔を見せなかった。
たった一人の味方だった人が屋敷を辞めさせられてからは、自分でシーツを替えなくてはならなかった。それに、部屋の掃除も。
それを思えば、今の待遇に不満なんてなかった。こうやってブリジッタが普通に話しかけてくれるだけでも、大違いだ。
しかしわたしの言葉に、ブリジッタは何とも言えない表情になった。まずいものを飲み込んでしまったかのような、居心地が悪くてたまらないといったような、そんな表情だ。
「あの……どうか、しましたか?」
「いえ、奥方様。満足してくださっているのであれば、私から申し上げることは、何も……」
そのまま、二人顔を見合わせて黙り込む。
……落ち着かない。何か話さなくてはと、そう思ってしまう。
こんな風に感じるのは、いつぶりだろう。一人っきりでいれば、沈黙が気まずいなんて思うことはないから。
「えっと、ブリジッタ……さん」
「奥方様、私は使用人なのですから、さんは不要ですよ」
「はい、ブリジッタ。その、昨日から気になっていたのですが……」
ブリジッタは落ち着いた、友好的な態度で接してくれている。彼女なら、わたしの疑問に答えてくれるかもしれない。
「どうしてシルヴィオ様は、あのような態度を取っておられるのでしょうか……」
わたしがそう口にしたとたん、ブリジッタがさっと顔をこわばらせた。
「……申し訳ございません、お話しできないのです。旦那様に口止めされておりまして」
彼女は心底申し訳なさそうだった。彼女にそんな顔をさせてしまったことを後悔すると同時に、また寂しさがつのってくる。
昨日まで、わたしには何もなかった。わたしはマセッティの屋敷で、ただぼんやりとしているだけの存在だった。
でもこうして、人と話す喜びを思い出してしまった。昨日顔を合わせたばかりだけれど、ブリジッタは誠実な、優しい女性だと思う。
彼女と話していると、胸が温かくなる。けれどそれだけに、シルヴィオ様のあの態度を思い出すと、苦しくなってしまう。誰かに拒まれることなんて、もうすっかり慣れていたはずなのに。
「……分かりました。あの……ここの近くに、海はありますか?」
海が、見たかった。波の音を聞きたかった。この寂しさを、洗い流してしまいたかった。朝からずっと我慢していたけれど、もうこらえられなかった。
「はい。屋敷の裏手から、遠くに海を臨むことができます」
彼女の返答に、ほっとする。
「ありがとうございます。……少し、見にいってきます」
彼女に会釈して、部屋を出る。屋敷の間取りはさっぱり分からないけれど、外側をぐるりと歩いていれば、そのうち裏手に出られるはずだ。
できるだけ目立たないよう、人気のないほうを、閑散としている場所を選んで歩き続ける。
やがて、何もない空き地に出た。辺りには古い木箱がいくつか転がっているだけで、木の一本も生えていない。とても殺風景だ。
その空き地の奥まった一角に、低い柵が立てられているのが見える。どうやらその向こうは、切り立った崖になっているようだった。
そしてその向こうから、ざざん、ざざんという耳慣れた……いや、耳慣れたものより少し荒い音が聞こえてきた。
柵に近づくと、下のほうに海が見えた。大きな波が次々と崖に打ち寄せ、砕けて散っている。
海の色は、青を通り越して紺色だ。夜の闇のように暗く、嵐のように荒々しい。こんな海もあるのか、と目を見張り、波が砕けるさまをじっと見ていた。
マセッティの屋敷から見える海は、わたしの寂しさをのみこんでくれていた。でもここの海はちょっと違う。
ここの海は、わたしの代わりに、怒ってくれているように思えた。わたしが自分の感情をうまく出せないから、冷遇されても口ごたえ一つできないから。
「……ありがとう……」
嫁ぎ先が、海の見える屋敷でよかった。ここでなら、わたしはもう少し頑張れる。
記憶にあるものよりもひんやりとした海風が、わたしの頬をなでていった。