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18.かりそめの、幸せな暮らし

 早朝、窓の隙間からさわやかな日の光が差し込む。そのまぶしさに、目を覚ました。


 ゆったりとした柔らかな寝間着から、明るい色の絞り染めの普段着に着替える。


 普段着は道中買い求めた古着よりもさらに簡素なつくりだけれど、心がぱっと明るくなるような、明るい黄色で染められていた。しかも胸元に、鮮やかな紫の糸で飾り縫いが施されている。


 寝間着は生成りの綿地だけれど、胸元に共布の小さなリボンが付けられていて、とてもかわいい。


 これらの服は、村の女性たちが作ってくれたものだ。普段着が二着と、寝間着が一着。村の女性たちに裁縫を教わったら、今度は自分で服を仕立ててみるつもりだ。


 あんたは新たにこの村の一員となるんだから、贈り物くらいさせてちょうだい。初めて顔を合わせたその日、彼女たちはそう言っていた。どうせそんなに手の込んだものでもないんだし、遠慮せずに受け取っておくれよ、とも。


 そして彼女たちは、その日の夕方にはこの服を持ってきてくれた。それを受け取ったわたしはまた泣いてしまい、彼女たちによしよしとなだめられてしまった。


 新しくもらった服を着て、新しい家に荷物を運びこんで。新しい仲間たちに生きるすべを教わって、新しくいろんなことができるようになって。


 そんな日々は、きらきらと輝いているように感じられた。けれどそのせいで、わたしはみんなに打ち明けられなかった。わたしの命の終わりが、近づいてきているということを。


 今日こそは言おう。明日こそは。そんな決意をいくどとなく繰り返し、考え直した。


 もし今わたしの命のことを話してしまったら、みんなはきっと暗い顔をするだろう。きっとこれまで以上に、わたしのことを心配するだろう。そうしたら、今のように楽しく過ごせなくなってしまうかもしれない。


 わたしは今、幸せだ。自分のことは自分でこなし、仲間たちと笑いあう、そんな時間を壊したくはない。


 だから心の中だけでそっとみんなに謝罪して、何食わぬ顔で暮らすことにしたのだ。


 そんなことを思い出しながら窓を開け、手早く朝食の支度をしていく。


 朝食は、昨日網ですくって干した小魚とエビを入れたスープ。香草をたくさん入れて、独特の風味に仕上げる。


 最初にこのスープを老夫婦の家で食べたときは少し驚いたけれど、今はもうすっかりお気に入りの一品だ。香草の組み合わせと量さえ間違えなければ、何を具にしてもおいしくできあがる、そんな簡単なところもいい。


 窓の外には、ゆっくりと昇っていく朝日。きらきら輝く水平線を眺めながら、できたてのスープを口にする。こんなぜいたく、少し前まで考えられなかった。


 満たされた気持ちで朝食を終え、後片付けを済ませる。細い釣り竿を手に、家を出た。


 この村のすぐ外の岩場は、いい釣り場になっている。男たちは船で沖に出て漁をするけれど、女や子どもはこの岩場で、小魚や貝などを捕まえている。


 男たちがとった大きな魚はよその町に売りにいき、女子どもがとってきた小ぶりの魚などは日々の食事になる。


 魚以外にも、浜では野草や香草がたくさん採れる。小さな畑では、野菜やイモも作られている。


 ひなびた雰囲気とは裏腹に、この村はとても豊かだった。


 岩場に向かって歩いている間にも、どんどん朝日が昇っていく。少し薄暗いくらいの時間のほうがよく釣れるのだけれど、こうやって朝の散歩を楽しむのもいい。


 まあ、焦らずにいこう。この村は、みんなのんびりしている。魚がとれなかったら、他の家に行って分けてもらえばいいのだから。ここではみんな、そうやって助け合って生きている。


 わたしだって、助けられてばかりではない。わたしが絵を描けるのだと知ったみんなは、似顔絵を描いてほしいと頼んできた。もちろん、快く引き受けた。


 そうしたらお礼だと言って、保存のきく食材や素敵な布などをもらってしまった。こんなにたくさん受け取れませんといったのだけれど、みんな笑顔で押しつけてきたのだった。


 自然と微笑みを浮かべながら、どんどん歩く。ようやく岩場についたときには、もうすっかり辺りは明るくなっていた。適当な岩に腰かけて、のんびりと釣り糸を垂らす。


 波が岩に打ち付ける音に、目を細めて聞き入る。ぼんやりと見つめた釣り竿の向こうには、緑色の海が広がっている。さわやかなそよ風が、わたしの髪をさっとなびかせていく。


 ああ、幸せだな。


 この村で暮らし始めてから、何度こう感じたか分からない。日常のちょっとした全てに、幸せを感じずにはいられない。


 ブリジッタとクレオへの手紙へも、こんな思いをありのままつづることができた。きっと二人とも、喜んでくれるだろうな。


 ……そうして昔のことを考えた拍子に、ついうっかり思い出してしまった。結局近づくことのできなかった、わたしの生涯ただ一人の夫。今はもう、赤の他人となったあの人。


「忘れましょう。わたしはこんなにも、満たされているのだから……過去を振り返る時間なんて、もうないのだから……」


 そう自分に言い聞かせて、また釣り竿をじっと見つめた。


「あ、お魚……!」


 細い釣り竿の先が、ぐいんと大きくしなっている。もしかしてこれは、かなりの大物かも。


 みんなに教わったことを思い出しながら、そろそろと糸を引いていった。




「おや、おかえりルーティ。今日は大漁じゃないか」


 村に戻る途中、貝拾いをしている女性に出くわした。小さな男の子を二人連れて、三人がかりでせっせと貝を拾い集めている。


「はい。みなさんに教えてもらった技術のおかげです」


「なあに、あたしらは大したことはしてないさ。釣りってのは、知識や技術もものを言うけれど、最後は運任せだからねえ。あんた、ついてるよ」


 わたしが手に提げているのは、細縄でくくった大きな魚。頭から尻尾の先までが、わたしの肩幅くらいある。


 普通は、あの岩場にやってくるのはもっと小さな魚だ。たぶんこの魚は、えさとなる小魚を追いかけて、岩場に入り込んでしまったのだろう。


 そしてわたしはそれ以外にも、中くらいの魚を何匹も釣り上げていた。多めに用意していた細縄を全部使って、ようやく縛り上げられたくらいにたくさん。


「この村ではねえ、そんなふうに突然たくさんの魚を手にしたものには、何かいいことが起こるって言い伝えがあるのさ。その魚は、海の神様がくれた、祝いの宴のためのものなんだってね」


「ふふ、素敵な言い伝えですね。でもわたしには、取り立てて祝うようなことはありませんし……」


「だから、これからやってくるのさ。何か、お祝いしたくなるようなことがね」


 彼女は日焼けした顔に大きな笑みを浮かべ、わたしが手にした魚にまた目をやる。


「その魚、干すなり酢漬けにするなりして取っておくといいよ。よそにおすそ分けするんじゃなくてね」


「はい、そうします」


 そう答えつつ、心の中ではこんなことを思っていた。だったらこのお魚は、何日もかけて全部わたしのお腹の中に消えるのだろうな、と。


 岩場を離れ、砂浜を歩く。もう昼近くなっていて、太陽は真上近くでまばゆく輝いていた。でも肌を焦がすそんな日差しすらも、愛おしい。


 ざくざくと砂を踏みながら、軽やかな足取りで家に向かう。そのとき、向こうのほうに誰かが立っているのが見えた。海のほうを見つめたまま、微動だにしない。


 まぶしくて、誰なのか分からない。けれどその人の服装は、貴族の普段着のように見えた。


 こんなところに、どうして貴族がいるのだろう。あんな格好では、暑くてたまらないだろうに。


 首をかしげながら、その人影に近づいていった。わたしの足音に気づいたのだろう、その人がこちらを見る。


 つややかな黒い髪、驚きに見開かれた銀色の目。凛々しく整った面差し。


 そこにいたのは、シルヴィオ様だった。

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