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16.旅の終着点

 わたしの、生まれて初めての旅。


 ブリジッタに協力してもらって、トリエステの街で小さな馬車を借りた。わたしと荷物を乗せたらもういっぱいになってしまう、それくらい小さなもの。


 御者と話をつけて、少し南にある大きな街まで連れていってもらうことになった。そうしてその街で、また馬車を借りて、御者を雇って。


 そんなことを繰り返して、どんどん南へと進んでいった。


 トリエステの屋敷にいたころにそれなりにお金を稼いでいたから、道中困ることはなかった。手持ちが少なくなってきたら、街の画廊を訪ねて絵を売った。


 そうやってたくさんの人たちと関わってきたことで、少し自信もついた。以前のように口ごもって引き下がるのではなく、きちんと言いたいことを言えるようになってきた。


 ……トリエステの屋敷に、シルヴィオ様のところにいたころに、こんなふうにふるまえていたら。そうすれば、もっと違った未来があったのかもしれない。


 そんな思いを封じ込めて、さらに旅を続ける。


 どのみちわたしの時間は、もう一年も残っていない。もしシルヴィオ様と心を通じ合わせていたなら、彼を大いに悲しませてしまっただろう。そんなことにならなくてよかったと、そう思う。


 それにもう、わたしは彼の妻ではなくなっているだろう。だから、彼のことは忘れよう。小さなころからのたった一つの夢だけを、最後に追い求めよう。


 一人きりのこの旅は、不思議と解放感にあふれたものだった。


 アデリーナの機嫌をうかがうこともない。振り向いてくれない両親の背中を見ることもない。シルヴィオ様の不機嫌そうな顔を見て、悲しくなることもない。


 ……ブリジッタには、悪いことをしたなと思う。彼女はわたしの事情を全て知っていて、わたしのことを案じてくれていて。


 けれどわたしは、シルヴィオ様には内緒にしていてくれと、彼女にそうお願いした。これ以上シルヴィオ様を悩ませたくはなかったから。それに、人知れずひっそりと終わりたかったから。


 ああ、そうだ。緑の海にたどり着けたら、手紙を書こう。ブリジッタと、それにクレオに。わたしの短い人生で、わたしに親切にしてくれた、数少ない大切な人たちに。


 わたしが生きたあかしを、ほんの少しだけ、残しておきたかったから。




 旅を続けて数か月、風はどんどん温かくなり、日差しはぎらぎらと強くなっていった。


 トリエステの屋敷を出たときに着ていた服では、もう暑くてたまらなかった。なので、途中の街で古着を買った。貴族の娘なら、絶対に着ることのないしろものだ。


 けれど今のわたしにとって、そんなことはどうでもよかった。それよりも、質素だけれど着心地のいい服が欲しかった。


 そうやって身なりを変えたことで、さらに解放されたような気分になれた。トリエステの屋敷を出てきてよかった。こんな世界を、こんな気持ちを知ることができたから。


 ほんの少しだけ残っている未練、シルヴィオ様の面影から顔をそむけるようにして、さらに旅を続けていた。




「これが……緑の、海……」


 ただひたすらに南に進んで、とうとう海辺にたどり着いた。


 白くきらきらと輝く砂浜、青く澄み切った空。そしてその間に広がる、とろりとしているのにさわやかな、緑色の海。


「ああ、本当に……緑色だ……やっと、ここまで……」


 馬車から降り、ふらふらと波打ち際まで歩いていく。そうして、凍りついたようにあたりの風景を眺めていた。胸が苦しくて、勝手に涙があふれだしてくる。


 じゃあ、俺はここで。何かあったら、この村の人を頼るといいぜ。そう言い残して、御者と馬車が去っていく。


 けれどわたしは、そちらにこたえる余裕すらなかった。目の前の風景から、目が離せなかった。


 そうして、どれくらい立ち尽くしていただろう。気がつけば、緑の海は夕日の色に染まっていた。


 ふうと息を吐いて、両手で胸を押さえる。あまりに長いことじっとしていたせいか、すっかり体がこわばってしまっていた。


 そろそろと体をほぐしていたら、後ろから声がした。


「あんた、旅の人かい?」


「さっきからずっと、そこで立ちっぱなしだけどねえ」


 少し離れたところに、老夫婦らしき二人が立っていた。素朴そのものの服を着て、仲良く寄り添っている。その姿を見て、うらやましいな、と思ってしまった。


「もう日が暮れるぞ。今晩、どうする気なんだ?」


 そんなわたしの内心を知るよしもなく、夫のほうがそう尋ねてきた。


「……あてはありません。この海を見たくて、ずっと遠くから旅をしてきただけなので」


 それ以上、何も言えなかった。


 わたしの目的は、もう達成されてしまった。子どものころからの夢だった、緑の海を見ること。命が尽きる前にこの夢をかなえるためだけに、ひたすらに進んできたのだから。


 この先のことなんて、考えていなかった。


「だったら、私たちの家にくるといい」


 黙ってしまったわたしに、妻のほうがそう言った。気持ちはありがたいけれど、甘えてしまっていいのだろうか。


「私たちね、旅の人を泊めるのが好きなの。旅の話をしてくれれば、お代はいらないよ」


「ほら、遠慮するな。……っと、あんた、名前は?」


「ルーティ……です」


 旅の間、ずっとこの名前で通してきた。クレオがつけてくれた大切な名前だからというのもあるし、わたしはもう、ベルティーナとしての自分から解放されたかった。


 何もかも奪われて、抵抗することすらできなくて。幸せになろうとあがくたび、さらに不幸になっていくばかりで。


 わたしにとってベルティーナという名は、そんな因縁のある名でしかなかった。


「そうか。ルーティ、いい名だ」


 老人が目を細め、にっこりと笑う。たったそれだけで、今までに受けてきた傷が少し癒える気がする。


 そうしてわたしは、二人の家にお邪魔することになった。木でできた質素な小屋は、床が砂でじゃりじゃりしていた。その感触に、ずいぶんと遠くに来たものだと感じる。


 老女が手早く作ってくれた夕食、ぶつ切りの魚をトマトで煮込んだものと、浜辺に自生する分厚い葉をちぎったサラダ。簡単そうに見えるのに、素材のいい香りがいかされていて、とってもおいしい。


 それを食べながら、わたしは尋ねられるまま答えていった。旅に出た事情や元の素性については話したくなかったけれど、旅の途中で見たものについてはいくらでも話せた。


 そうやって話を聞いてくれる人がいる、そのことが泣きたいくらいに嬉しい。


 いくどとなくこっそりと涙をこらえながら、最高に楽しい、幸せな夕食を終えたのだった。

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