14.一枚の絵 ※
「はあ、疲れた……」
夕方近く、屋敷の自室に戻ってきて、深々とため息をつく。
アデリーナ・マセッティ。私は彼女の父であるマセッティ伯爵には頭が上がらない。そして彼女は、父親の許しを得てここに来た。
しかも彼女は、ベルティーナを離縁して自分と再婚するように言ってのけた。のみならず、あれ以来毎日のように私のところにやってきて、親交を深めようとしてくる。
なんとも面倒なことに、彼女はトリエステの街の宿屋に居座っているのだ。私の屋敷に居つかれるよりはましだが、それでもこうもしつこく押しかけられると、疲れる。
彼女は本気で、私の妻の座を狙っているようだった。その熱意が、正直……うっとうしくも思えてしまう。
「……あれが本当に、ベルティーナの双子の妹なのだろうか……信じられない」
アデリーナは、自分を魅力的に見せる方法を熟知している。そうして、他者を意のままに動かすことに長けている。そうと分かっていても、ついほだされてしまいそうになるくらいに。
「まったく……あの噂で聞いた悪女ベルティーナのほうが、よほどアデリーナの姉らしい」
そんなことをつぶやいて、ふと考え込む。
……正直、おかしいとは思っていた。あれだけおとなしい、しかも腰の低いベルティーナが、街に繰り出しては平民たちにきつく当たり、男をはべらせる。そんな姿は、どうやっても想像できなかったから。
最初は、本性がばれないように慎ましくふるまっているのだろうと思っていた。だが今では、それは思い違いだったような気がしてならなかった。こうして、真に奔放なアデリーナと顔を突き合わせていると、特にそう思う。
ベルティーナは本当に内気で弱気な女性で、何かの拍子に間違った噂……そう、おそらくは他の誰かと取り違えられた噂が流れていたのではないかと、そう感じるようになっていた。
けれどもう、取り返しはつかない。私はそんな噂を信じ、ずっと彼女を冷遇してきたのだから。今さら謝罪しても、彼女を苦しめ、泣かせたことに変わりはないのだから。
それに今では、アデリーナがいる。今でこそのらりくらりとかわしているが、いずれ私は彼女に押し切られ、彼女を妻とすることになるのだろう。それがマセッティ伯爵の意向であるのならば、もう逃れようはない。
だが、その時ベルティーナはどうなるのだろうか。アデリーナは明らかに彼女のことをうとんじていたし、この屋敷に置いておくことはできないだろう。
「……私に、彼女のことを心配する資格など、もうないというのにな」
私は、最低の夫だ。少なくともベルティーナにとっては、そうだ。
「……せめて、彼女を自由にしてやるべき……なのかもな。これ以上、トリエステとマセッティの間で、彼女が振り回されないように」
私は彼女に、迷惑をかけ続けてきた。ならばこれ以上、余計なもめごとに巻き込まれないようにしてやったほうがいいのかもしれない。
ゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。そのまま、廊下を進んでいく。
結婚以来一度も足を踏み入れたことのない、ベルティーナの部屋を目指して。
しかしそこで私を出迎えたのは、怒りに震えるブリジッタだった。
「ブリジッタ、ベルティーナを知らないか? 話したいことがあるんだが」
そして返ってきたのは、耳を疑うような言葉だった。
「奥方様は、出ていかれました」
彼女は私をにらみつけ、一枚の紙を差し出してくる。
それは、離縁状だった。ただし、赤の離縁状ではなかった。ごく普通の、夫が妻を離縁するときの書類だった。
必要な事項は全て記載されている。ベルティーナの署名もある。
あとは私が署名するだけとなっていた離縁状を見てぽかんとしていると、ブリジッタが声を張り上げた。
「旦那様が赤の離縁状を望んでおられたことを、奥方様は知っておられました。しかしそれでは旦那様の名誉が傷つけられるからと、こちらを残していかれたんです!」
あれだけひどいことをしたのに、まだ私のことを気づかってくれている。そう知ったとたん、胸がぎゅっと締めつけられる。
どうして、突然彼女は出ていってしまったのか。どこに行ってしまったのか。なぜ、黙って出ていったのか。そんな疑問が、次々とわいて出る。
「ベルティーナは、何か言っていなかったか……?」
けれど私の口をついて出てきたのは、そんなぼんやりとした言葉だけだった。
ブリジッタはまた私をにらみ、いいえ、何もございません、とだけ答えた。その目のふちが、泣いていたかのように赤い。
そうして彼女は、足音荒く出ていった。知りたいことがあるのでしたら、どうぞご自分で探してくださいませ、という言葉を残して。
とまどいつつ、部屋の中を見回してみる。
質素で飾り気のない部屋には、それでも彼女が暮らしていた痕跡が残っていた。
しおりが挟まれた古い本、あれは母上が置いていったものだ。
クローゼットにしまわれたドレス、これはあの舞踏会の時に彼女が着ていたものだ。……舞踏会。自分がなんと残酷なことをしてしまったのかと、今さらそんなことを思う。
そして、机の上のスケッチブック。彼女は時折、これを抱えて屋敷の中をふらふらしていた。ふと手に取って開き、驚きに目を見張る。
そこには、花の絵が描かれていた。鉛筆だけで描かれた、白いバラの花。一目で分かる、これは中庭で咲いていたものだ。
しかしその絵からは、確かにふくよかなバラの香りが、葉を揺らすそよ風が、さんさんと降り注ぐ日差しが感じられた。
「……間違いない、ルーティの絵だ……」
街の画廊で買い求めたあのアネモネの絵は、今でも執務室に飾っている。
春の風景をそのまま切り取ってきたような姿に、いつも心和まされていた。いつか、ルーティに会ってみたいとさえ思っていた。その彼女が、まさかこんなところにいたなんて。
ベルティーナが、ルーティ。にわかには信じられなかったが、そのスケッチブックに残されている数々の絵は、どれも間違いなくルーティのものだったのだ。
「……ん? これだけ、様子が違うな」
おそらくは、海辺の絵なのだろう。ふんだんに色を使って、華やかに仕上げてある。
しかしこの絵からは、他の絵のように五感を揺さぶってくる何かを感じなかった。どちらかというと、子どもが描いた夢の中の風景のような、そんな印象を受けたのだ。
首をかしげながら、さらにページをめくる。最後の一枚を見て、息をのんだ。
そこには、私の顔が描かれていたのだ。こちらをまっすぐに見て、心配そうな目をしている。まるで鏡を見ているような、奇妙な気分だった。
「これ、は……あのとき、の……」
他の人間は、この絵をただの人物画だと思うだろう。しかし私には、分かってしまった。
これは前に、彼女に襲いかかろうとしていた蜂を切り捨てた、あの時の私だ。
「……そうか、私はこんな表情をしていたのか……それとも、こんな表情をしていてほしいと、そうベルティーナが願ったのか……」
絵の中の私、その顔には、妻を拒絶する気持ちはかけらほども浮かんでいない。ただ彼女のことを強く心配している、そんな思いだけが見て取れた。
「……私は、彼女を苦しめた。彼女が出ていったというのなら、そっとしておいたほうがいいのかもしれない」
迷いを振り切るように、首を横に振る。
「だが、どうしても……もう一度、彼女に会いたい」
ここまで強い思いがこみあげてきたのは、初めてだった。その思いに突き動かされるように部屋を出る。無意識のうちに、スケッチブックをしっかりとつかんでいた。
そうして、そこで待っていたブリジッタに頭を下げる。
「ブリジッタ、私はベルティーナを探しにいきたい。彼女の行き先について、何か心当たりはないか。どんなささいなものでもいいんだ」
しかし頭の上から降ってきたのは、聞いたこともないくらいに冷ややかな声だった。
「なんて、わがままな……幼い頃からずっとお世話をしてきた者として、情けなく思います」




