13.決断の時
それからアデリーナは、毎日やってくるようになった。トリエステの街の宿屋で寝泊まりして、昼間はほぼずっと屋敷に入り浸るようになったのだ。
そうして、ことあるごとにシルヴィオ様とお喋りしたり、出かけたりしているらしい。
そんなことは知りたくなかったけれど、アデリーナ本人が、ちょくちょくわたしのところにやってきては、シルヴィオ様と何をしたのか逐一報告してくるのだ。まるで、わたしに自慢するように。
そんな話を聞き続けていたせいか、わたしは体調を崩すことが多くなっていた。食欲もないし、絵を描きたいとも思わない。本を読もうとしても、内容が頭を素通りする。そのくせ、眠ることもできない。
ただ何をするでもなく、ぼんやりと寝台で横たわっている、そんな時間がどんどん増えていた。
すっかりやつれ果てたわたしを見かねて、ブリジッタが医者を呼んでくれた。シルヴィオ様に迷惑をかけたくないから、どうかこっそりと来てください。そんなわたしの願いを、ブリジッタと医者は快く聞き入れてくれた。
そうして、医者にあれこれと診てもらって。
衝撃の事実を、告げられた。
「奥方様の一大事に、ふらふら出歩いているなど! 少々お待ちください、今すぐ旦那様を呼び戻してまいります!」
わたしと一緒に医者の言葉を聞いたブリジッタが、真っ赤になって部屋を飛び出していこうとする。今日もシルヴィオ様は、アデリーナと一緒に出かけているのだ。
「いいんです、ブリジッタ」
「ですが、奥方様!」
「……これもまた、運命なのかもと……そんな気がします。わたしがここを離れがたくてずるずると過ごしていたから、もう終わりにしろと、そう神様が言っているのかもしれません」
わたしは、不治の病にかかっているようだった。幸い、他人にうつるものではないらしい。
ただ、わたしに残された時間はもうあまりない。おそらくは一年程度でしょうというのが、医者の見立てだった。
「シルヴィオ様には、絶対にこのことを教えないでください。あのかたは、本当は優しいかただと思うのです……このことを知れば、多少なりとも悩んでしまわれるでしょう」
重ねてそう言ったら、ブリジッタは無念そうにうなずいた。そんな彼女に、そろそろと頼み込む。
「……少し、一人にしてもらえませんか」
そうして一人きり、ぼんやりと部屋を眺める。どれだけ苦しかろうと、悲しかろうと、あと一年の辛抱で終わる。そう思ったら、不思議と気分が軽くなっていた。
シルヴィオ様とアデリーナが末永く幸せに暮らしているさまを見ないで済む。ああ、これは神様の恵みなのかも。そんなことを考えてしまうくらいに。
でも、このままぼんやりと残りの時間を過ごすのも、少しもったいない気もする。
「久しぶりに……描いてみようかしら」
机の上にスケッチブックを広げ、色鉛筆で絵を描いていく。
白い砂浜、目が覚めるような青い空、そして、宝石のように美しい緑の海。子どものころから憧れていた、南の海の風景。もちろん、実物を見たことはないから、全部想像で。
「……全然、駄目ね。わたし、見たことのないものはうまく描けないみたい」
風景画というより、絵本の挿絵のようになってしまったその一枚を見て、思わず苦笑する。
ページをめくって、今度は鉛筆を手にする。もう一つ、描いてみたいものがあったのだ。
自分でも驚くくらいに、鉛筆が滑らかに動く。どこにどの線を引けばいいのか、全部見えているかのような気分だ。
そうして描き上がったのは、シルヴィオ様のお顔。あの日、わたしを助けてくれたときの、優しい表情。
「……こんなにも強く、心に焼きついていたのね……」
わたしにとって、やはりシルヴィオ様は特別なかたなのだろう。政略結婚であっても、冷たくされても、それでも彼を憎いとは思えなかった。むしろ、こちらを見てほしいと思い続けていた。
「恋って、こういうものなのかしら……」
けれど、それを知ったところでもう意味はない。わたしには、もう時間がない。それに、アデリーナがいる。彼女の手にかかれば、シルヴィオ様はひとたまりもない。
この小さな恋のつぼみは、このまま胸の奥にしまいこんだまま、一生日の目を見ることはないだろう。咲かずに枯れる花。ふふ、わたしと同じね。
ならばせめて、少しでも彼に迷惑をかけないよう、終わらせよう。決断の時が、ついにやってきた。
この部屋には、旅行用のトランクも用意されていた。先先々代の妻が使っていたとかいうとびきり古いトランクは、しかし中々に頑丈で、たっぷりものが入りそうだった。
トランクを広げ、必要なものを放り込んでいく。着替えや下着、身の回りのこまごましたもの、新品のスケッチブックと色鉛筆の束。そして、金貨や銀貨がつまった袋。
トリエステの街の画廊で絵を売りだしたおかげで、かなりまとまったお金が手に入っていた。今では『ルーティ』の作品は、中々の高値で取引されているらしい。
わたしは今、旅の準備をしているのだった。
いつかここから出ていく、それがわたしにできるたった一つのいいこと。かつてわたしは、そう言った。そしておそらく、今がその時だ。
「ブリジッタ、ちょっと手伝ってほしいことがあるのですが……」
そうして、廊下でおろおろしていたブリジッタに声をかける。これから自分がしようとしていることを話したら、彼女は真っ青になった。
「そんな、それでは奥方様が、あまりにもおかわいそうで……」
「これが、わたしの決めた道です。不思議ですね、命の終わりを告げられたことで、ようやっと悩みが消えた気がします。奇妙なくらいに、すがすがしい気分なんです」
そう言ったら、彼女は目を潤ませていた。
「けれどこの計画は、わたし一人ではできないんです。どうか、力を貸してください」
「……奥方様が、そこまで覚悟を決めておられるのなら、私には反対のしようもありません……」
それから二人で、必要なものを用意していった。その間、ブリジッタは何度も涙をぬぐっていた。
やがて準備も整い、街で借りた小さな馬車がやってくる。
急がなくては。シルヴィオ様に気づかれる前に、ここを離れなくては。
「それでは、今までお世話になりました。いつも気にかけてくれてありがとうございます。とても……とても、嬉しかったです」
そんな別れの言葉を残し、ブリジッタ一人に見送られ、わたしはトリエステの屋敷を、街を後にした。