10.思わぬめぐりあい ※
ああ、どうにもむしゃくしゃする。
先日の舞踏会以来、友人たちが次々と舞踏会の招待状をよこしてくるようになった。
しかも『必ず奥方殿を連れてこい』『私たちに彼女を正式に紹介しなさい』『二人で一曲踊ること』などという条件を付けて。
いっそ、ベルティーナの所業、マセッティの街にあふれる噂について、みなに明かしてしまおうかとも思った。そうすれば、私がこんな態度を取っていることも理解してもらえるだろうから。
ただそれは、私にとっては恥を告白するに等しかった。
親が家を食いつぶしていたとはいえ、自力で家を立て直すことすらできず、借金の肩代わりにとんでもない妻を家に引き入れることになったなどと、知られたくなかった。
……ベルティーナは、噂通りの悪女ではないのかもしれない。しかしそう思ってしまうこと自体、私が彼女にほだされてしまっているということを意味するのかもしれない。そんなこともあって、今の私は自分の判断に自信が持てなくなってしまっていた。
「一度、マセッティの街に出向いてみるしかないのだろうか……」
しかしそんな暇はないし、あそこに出向く大義名分もない。マセッティ伯爵に挨拶に行ってもいいのだが、彼を義父と呼び、機嫌取りの会話をするのも腹立たしい。
そんなことを考えながら屋敷を飛び出して、トリエステの街を歩く。民たちは私の顔を見ると、みなにこやかに挨拶してくれた。
ひとまず、民はつつがなく暮らしているらしい。そのことに、ささくれ立っていた気分が少しだけ落ち着く。
滅亡寸前まで傾いたトリエステ家だったが、近頃ではどうにかこうにか持ち直しつつある。とはいえ、まだまだ油断はできないのだが。
屋敷のほうの経費を可能な限り切り詰めて、マセッティから援助してもらった金銭を領地の運営に回すことで、民の暮らしを守ることにしたのだ。
「……こうしてみると、両親の金遣いの荒さを改めて思い知らされるな」
私はまだ子供のうちから、親戚のところに預けられていた。というより、自ら望んで移り住んだ。
いずれ私はトリエステの家を継ぎ、領地を、領民を治めていく。そのためには様々な知識と経験が必要となると思っていたのだが、両親も祖父母も、何一つ教えてはくれなかった。
父たちは「民たちから適当に税をしぼり取って、王宮に必要な税を納めて、あとは好きに使えばいい」という、そんな適当な言葉を返してくるばかりで。
しかし私は、どうにも不安を覚えずにはいられなかった。なので親戚に頼み込み、そちらで知識と経験を積み上げることにしたのだ。
……ちなみに、ブリジッタは私の世話係としてついてきていた。そんなこともあって彼女には頭が上がらない。……ベルティーナのことについては、譲れないが。
そんなことを考えながら、さらにぶらぶらと街を歩く。と、一軒の店が目についた。正確には、その店先に飾られていたものについて。
何の気なしに、その店に近づいていく。そこは画廊で、ガラス張りの窓の向こうに、数枚の絵が飾られていた。
両親がこさえた負債を清算するために、屋敷の中の装飾はあらがた売り払ってしまった。仕方のないこととはいえ、あまりにもがらんとしている。
「いずれ、絵の一枚も飾るべきかとは思っていたが……」
しかし私の目を引いたのは、豪華な油絵ではなかった。その隣にひっそりと飾られている、小さな額に収められた絵だった。
私の両掌を合わせたくらいの大きさの、少し黄色味を帯びた画用紙。そこに、一輪の花が描き出されている。鉛筆だけを用いた、白黒の地味なものだ。
立ち止まって、その絵を見つめる。草原を吹き抜ける風が頬をなでたような錯覚に、思わず頭を振った。何だ、今のは。
呆然としていたら、扉が開き、店主が姿を現した。
「これはこれは、シルヴィオ様。そちらの絵が気になられるのでしょうか」
「あ、ああ。……この絵だけ、雰囲気が違うな」
先ほどの衝撃からまだ立ち直れていないまま、そんなことを返す。すると彼はにっこりと笑い、会釈した。
「ええ、そうなのです。店の中でじっくりと、間近でご覧になっていかれませんか?」
絵を買う予定は、まだない。もっとトリエステの家が安定してからだ。けれど私の体は、勝手にうなずいてしまっていた。そのまま、店主の案内で中に通される。
勧められた椅子に腰を下ろした私に、店主は先ほどの絵を差し出してきた。質素な額に収められたその絵は、近くで見るとさらに素晴らしいものだった。
花壇の片隅にひっそりと咲く、アネモネの花。ただの鉛筆で描かれているというのに、鮮やかな赤い色が見えるような気さえする。繊細な葉をかすかに揺らす、春のそよ風を感じたような気もした。
額を手にしたまま、ふうと深く息を吐く。そんな私に、店主がにこやかに声をかけてきた。
「見事なものでしょう? 数日前に、同じ作者の絵を数枚仕入れたのですが……残っているのは、この一枚だけです。みな、あっという間に売れてしまいました」
「これほどのできばえなら、それも当然か……」
そうつぶやきながら、もう一度絵をじっくりと見る。その片隅に、鉛筆で小さく署名がされていた。
「『ルーティ』……? 女性のようだが、聞いたことのない画家だな」
首をかしげる私に、店主がにこにこと笑いながら説明する。
「作者の方が、表舞台に立ちたくないとおっしゃっているのですよ。私はその方に会ったことがあるのですが、素性については明かさない約束となっておりまして」
となると、この絵を描いたのが女性かどうかも怪しい。ただ私には、きっとこの絵を描いたのは女性だろうという確信めいたものがあった。繊細で優しい心を持った、そんな女性だ。
「……そうか。これを、もらえるか」
「はい。ただいまお包みいたします」
店主は私の言葉を予測していたらしく、既に包み紙を手にしていた。そうして、あっという間に絵を包んでしまう。
そうして私は、小さな絵の包みを手に屋敷に戻ってきた。
両親と祖父母が追放されてトリエステの当主となってから、無駄遣いなどしたことはなかった。そして、それを苦に思うこともなかった。
どうも私は、生まれながらに物欲があまりないようなのだ。この辺りは、親たちに似なかったらしい。
けれどこの絵を見たとき、欲しい、と思ってしまった。手元に置いて、一日中眺めていたい。そんな衝動が、こみ上げてきたのだ。
「ただの物欲……にしては、妙に熱を帯びている気がするな」
執務室に足を運び、そこの机の上に包みを置く。慎重に開くと、中からはあのアネモネの絵が姿を現した。
「質素そのもののこの部屋に、花が一輪……」
その花に見とれていたら、自然と笑みがこぼれてきた。
「ルーティ、か……きっと、このトリエステの街かその近くに住んでいるのだろうが……一度、会ってみたいな」
いつか、この家がしっかりと立ち直ることができたら。その時は彼女を探し出して、特注の絵を描いてもらうのもいいかもしれない。
街並み、野原……いや、違うな。海がいい。屋敷から見下ろせる雄大な海が、あの繊細な筆跡で紙の上に浮かび上がっていく様を見てみたい。
「そのためにも、一層頑張るか」
小さく微笑んで、執務机に置かれた書類を手に取った。アネモネの花に、時折視線を向けながら。