1.あきらめの花嫁
青。深い青。果てが知れないほど深い、青い海。
海を見ていると、穏やかな気持ちになれた。どうしようもない辛さも、身を裂くような寂しさも、全部海がのみこんでくれるように思えたから。
わたしは一人で海を見つめながら、ここで一生を終えるのだと思っていた。屋敷の片隅の、質素な部屋で。
「ベルティーナ様、馬車の準備が整いました」
窓辺に立つわたしに、うやうやしく、しかし冷ややかにメイドが声をかけてくる。
今日、わたしは生まれ育ったマセッティ伯爵家の屋敷を出て、よその家に嫁ぐ。親が決めた結婚で、相手の方に会ったことはない。
メイドに先導されて、十八年暮らした屋敷の中を歩いていく。玄関に向かって、しずしずと。
もう二度と、ここに戻ってくることはないだろう。しかし、わたしがここを懐かしく思う日は来ない。そう、断言できた。
「あら、ベルティーナお姉様、お久しぶり」
廊下の先に、人影が一つ。明るく軽やかな声の主は、双子の妹のアデリーナだ。
わたしたちは、双子なのに全く似ていない。わたしは淡い栗色の髪に、明るい緑の目。アデリーナは暗い栗色の髪に、青灰色の目。
軽やかなお喋りも笑うことも苦手なわたしと、いつも笑顔を絶やさないアデリーナ。一人でいるほうが落ち着くわたしと、たくさんの人に愛されるアデリーナ。
そんなこともあって両親は、次第にアデリーナだけをかわいがるようになっていた。
服から何から身の回りのものは全てアデリーナのお下がりになってしまったし、自分の部屋からむやみに出ないように命じられてしまった。わたしの顔を見ていると、辛気臭い気分になるのだと、そう言って。
寂しかった。悲しかった。けれど、その思いを伝えることすらできなかった。海の見える部屋でずっとずっと一人で過ごし、そして、あきらめた。
もう、アデリーナの顔を見ても何も思わない。昔は、うらやましいとか腹立たしいとか、いろんなことを思っていた気がするのだけれど。
「これで、お姉様の顔を見るのも最後になるのね。ふふっ、せいせいするわ」
そんなことを考えていることに気づいているのかいないのか、彼女は愛らしい顔に見事な笑みを浮かべている。
「最後に何か、言いたいことはない? たった一人の姉の嫁入りなのだし、聞いてあげるわよ」
しかしそう言い放った彼女の目には、強い怒りの炎が揺らいでいた。思わぬ態度に、ついたじろいでしまう。
どうして彼女は、そんな目でわたしを見るのだろう。これは政略結婚なんだって、彼女も分かっているだろうに。
「……いえ、特に何も」
「お姉様って、相変わらずね。まあいいわ、旦那様と、仲良くね」
きっと、これは皮肉なのだろう。人との関わりが少ないわたしにも、すぐに分かった。だから無言で頭を下げて、屋敷を出ていったのだった。
花嫁衣裳のまま馬車に乗り込み、運ばれていく。
この嫁入りの話がやってきたのは、ひと月ほど前のこと。トリエステ伯爵家の当主シルヴィオ様に嫁ぐようにと書かれたお父様からの手紙……手紙というより、走り書きに近いものが届いた。
わたしの返事を聞くことなく、日取りが決まり、花嫁衣裳が届き……そして、今日になった。
たぶん両親は、辛気臭いわたしがただ屋敷に居座っているのが嫌になったのだろう。あるいは、ベルティーナを追い出してとアデリーナが頼んだか。
どのみち、この結婚はろくなものではない。政略結婚だとなんだとか、メイドたちがこそこそささやきかわしているのを聞いてしまったし。
ぼんやりと窓の外を眺めていたら、馬車が止まった。マセッティの屋敷より古く歴史を感じさせる屋敷の前に。
そのまま屋敷に足を踏み入れ、奥まった一角にある礼拝室に案内される。そこには神父と、夫となる人がいた。
黒い髪に意志の強そうな灰色の目をした、端正な面差しの男性だった。すらりと背が高く、姿勢がいい。
殿方の知り合いなんて一人もいないわたしには、とても美しい方のように思えた。誰かに見とれてしまったのは、たぶん生まれて初めてだと思う。
けれど彼はわたしに気づくなり、ふいとよそを向いてしまった。神父が新たな夫婦を祝福する言葉を述べている間、シルヴィオ様は冷ややかな無表情のまま、ずっと目をそらしていた。
ああ、やっぱり政略結婚だったんだ。そのことを実感して、少し落ち込んでしまう。
けれど彼の態度は、そのことを抜きにしても少しおかしいように思えた。彼はあまりにも強く、わたしを拒絶している。どうしてなのだろうか。
「あの、シルヴィオ様……」
礼拝室から出て廊下を歩きながら、そっと彼に声をかける。
「わたしが妻では、ご不満……でしょうか」
政略結婚であっても、わたしが彼の妻となったことには変わりない。実の両親と妹にはうとまれていたけれど、もしかしたらこれから、夫と新たな関係を築いていけるのかもしれない。
実は、そんなほのかな希望を抱いてしまっていた。この結婚のことを聞かされたあのときから、ずっと。
シルヴィオ様は、何も言わない。わたしのことを、見ようともしない。その横顔は、苦しげにこわばっている。
「……わたしに直せることがあるのでしたら、努力いたします。どうか、教えてはもらえませんか……?」
彼は無言のまま、突き当たりの扉を開ける。とまどいながら、彼に続いて中に入った。
その向こうには、地味な服を、しかし一部の隙もなく着こなした中年女性がたたずんでいた。ほっそりとして背筋がぴんと伸びた、物静かな雰囲気の女性だ。
「お初にお目にかかります。私はここのメイド長、ブリジッタと申します」
彼女はわたしに向かって、深々と頭を下げた。
こういったとき、どうふるまうのが正しいのだろうか。貴族としての経験をろくに積んでいないせいで、よく分からない。
「……ベルティーナです。どうか、よろしくお願いします」
だから精いっぱい、丁寧に答えてみた。
するとブリジッタが、少し目を見張った。こちらに背を向けているシルヴィオ様も、かすかに身じろぎしたようだった。
何か、間違ってしまったのかもしれない。そんな焦りに突き動かされるように、口を開いた。
「あ、あの」
「ごあいさつ、ありがとうございます。この奥の部屋が、奥方様の部屋となります。ご案内いたします」
うろたえるわたしをなだめるかのように、ブリジッタはかすかに微笑んだ。そうして、わたしを奥の部屋に連れていく。
シルヴィオ様は、奥の部屋には入らなかった。彼はわたしたちに背を向けて、入り口の扉から出ていってしまったのだった。
知らない部屋で、目が覚めた。広くて明るい、豪華ではないけれど趣味のいい部屋。
寝台の上で身を起こし、辺りを見渡す。ここはどこだろう、などと思いながら。
そうしていたら、扉が叩かれる音がした。はい、と答えたら、ブリジッタが入ってきた。
「おはようございます、奥方様」
……そうだ。ここは、わたしの部屋だ。生まれ育ったマセッティの屋敷ではなく、嫁ぎ先であるトリエステの屋敷の。
ブリジッタに続いて、きちんと整列したメイドたちも入ってくる。化粧道具やドレスなど、必要なものを手に。
ああ、わたしはここの当主の妻になったのだった。メイドたちのてきぱきとした動きに、ようやっとそのことを実感した。そして、昨日のことを思い出す。
夫となったシルヴィオ様はわたしに指一本触れるどころか、こちらを見ようともしなかった。わたしと血のつながった家族たちと同じように、わたしのことを拒んでいた。
「幸せになれるはずなんてないって、分かっていたのに……」
うっかり期待してしまったから、幸せになれるかもしれないって思ってしまったから、その分余計に辛かった。
無性に、海が見たかった。波の音が聞きたかった。そうすればきっと、この辛さにも耐えられる。そして全部、あきらめられる。マセッティの屋敷で、ずっとそうしていたように。
悲しいのも、寂しいのも、全部胸の奥に押し込んで。わたしはただ、じっと座っていた。メイドたちがわたしの髪を丁寧にくしけずっているのを、ぼんやりと感じながら。