(後編)リンデンバウムの木の下で【挿絵付き】
スキュラとの闘いを終え、ランチには平和が訪れた。
ハイジのお腹の子はどうなるのか、不思議な力を持つ老女グランマとは――。
過去編の最終話となります。
<命を継ぐ資格、命を守る資格>
ハイジはそれからたっぷり2日間眠り続けた。だが身体の損傷はないどころか、あの変化の一瞬でそれまでの怪我は癒えてしまっていた。スキュラに噛まれたはずの手の傷も、跡形もなくなっている。ハイジの中に眠る力は間違いなく諸刃の刃であり、おそらく変化も初めてのことであろう。彼女が命を削ってその力を使おうとすれば、間違いなく無敵に近い存在となれるが、その代償はあまりに大きい。
「あたしに、それが説得できるかしら――」眠るハイジの枕元でブルーはひとりごちた。
「……ブルー……なに、むずかしい顔して……」
「ハイジ!気がついてたの?!大丈夫?」
「だ、大丈夫……。寝すぎて、背中痛い……」
ずっとベッドの足元に付きっきりだったテリーが跳ね起き、尻尾を振ってハイジの顔をなめた。ハイジはびっくりして悲鳴をあげたが、テリーをたしなめる声には思いのほか元気があり、ブルーはほっとした。
そのあとブルーはスキュラとの決着の一部始終をハイジに説明した。ハイジ自身はスキュラに締め付けられて意識を失ったあとの記憶は断片的だったようだが、変化の記憶はかすかに残っていた。
「すごかったよ。ホント、全能感っていうのか、自分の力で破壊できないものはないってはっきり理解できてたよ、私」
「だけどね、ハイジ、あの力は……」
「わかってる。あれはお父さんの血のせいだと思う。――ブルーは知らないと思うけど、うちのお父さん、昔は天使だったらしいんだよ。何やらかしたんだか、お母さんと出会った時はただのおじさんだったみたいだけどね」
――あたしは間違いなく、あなたのお父さんを知ってる――ブルーはその言葉は飲み込んだ。彼は堕天はしたが「彼のなすべきこと」をして、おそらく赦されたのだろう。
「そのお父さんとも今はもうほとんど会えなくなっちゃったけど、私にとっては天使でも魔族でもなく、娘に彼氏ができたらうろたえまくるくらい普通のかっこ悪いお父さんだったの。まさかこんな力を残してくれちゃったとは、世話かけるお父さんだね……」
「でもそのおかげで、このランチもあたしも助けられたわ。あたしに天使の力が戻ってきたのは、ハイジのおかげ」
「そりゃ、痛い思いして死に掛けた甲斐あったってやつね。でももう、あんなに痛くて苦しいのはこりごり!私は私の力だけで生きていくよ」
ハイジにはあの強大な力に対する執着はなさそうだと分かり、ブルーは安堵した。話しくたびれたらしいハイジがあくびをしたのをしおに、ランチの皆に彼女の無事を報告しに行こうと立った。
「あ、ブルー、力が戻ってきたなら教えて欲しいことがあるんだけど……」
「ん?なあに?」
「私の……私の赤ちゃんはまだ無事?あんなことになったから、もしかして、と……」
ハイジはすがるような目でブルーを見た。彼女が初めて他人に見せた、自分の子供に対する愛情の表れだと分かったブルーは、微笑んで答えた。
「もちろん、大丈夫よ。あなたもたいしたものだけど、赤ちゃんも随分頑丈ね。だけど今はゆっくり眠って、赤ちゃんも休ませて上げないとね」
ブルーが部屋を出ると、ドアの向こうからハイジのすすり泣く声が聞こえた。テリーが心配そうに鼻を鳴らす。彼女はもう大丈夫だろう。
夕食時のマムの家には、ランチのみんなが集まっていた。ブルーの姿を認めると、リケが真っ先に飛んできてハイジの様子を尋ねた。ブルーが頷いて見せると、みんなから歓声が上がった。
リケに誘われて、ブルーはノーラとリケと一緒にテーブルに着いた。給仕当番の女が食事と一緒に赤ワインを持って現れ、ノーラからのお礼で相当に美味しいワインだけれど、ハイジの分も残しておいてとウインクして去っていった。
「ハイジが無事でよかった。僕、ずっと心配で……。ブルーにも、ハイジにもごめんなさい。僕のせいで……」
「リケのせいじゃないわ。魔物に魅入られる……目をつけられるとね、どんなに強い人でも逆らうことは難しいの。あなたが無事であったことが何よりなのよ」
「この子ったら、あれ以来、ブルーやハイジみたいに強くなるんだって張り切っちゃって。力仕事を手伝ってくれるようになったのよ。本当に何もかもあなたたち2人のおかげ。ありがとう」
「そんな……お礼なんて、お世話になっているのだから当然よ」
「それにね、あなたたちの名前を出せばビデオゲームもすぐにやめるようになって……実はそれが一番助かってる」ノーラは声を潜めて愉快そうに言った。
食事の時は賑やかに過ぎ、片づけを手伝い終えたブルーは、外でタバコをふかしているマムの元に行った。マムがすかさずタバコをもみ消すのを見て、ブルーは苦笑いした。
「気を使わなくていいのに」
「だって、今のあんたには天使の力とやらで私達の健康状態がわかっちまうんだろう?タバコを吸うたびに寿命が縮まると言われたんじゃ、旨くもないさ」
「昨日、タバコを吸っていたシャルロを叱ったのは、エルマーと一緒にいたからよ。実はエルには喘息の気があるわ。8歳まで綺麗な空気の下で生活していたら発症しないから――」
「そういう”力”があるってことは、みんなに言わなくていいのかい?」
ブルーは頷いた。スキュラとの戦いの中で彼女に力が戻ってきたのを知っているのはマムとハイジだけだ。良くも悪くも人間界以外のことに通じている彼女達でなければ、その事実をどう受け止めるか分からない。考えた結果、ブルーは今までどおり人としてランチにとどまることを決めたのだ。
満天の星の下、灯りのついた食堂からはまだ賑やかな団欒の声が聞こえ、年長の少女が何人かの幼い子を連れて、マムとブルーに手を振ってお休みの挨拶をした。お姉ちゃん今日は歯磨きしなくていい?からいのキライなのと駄々をこねる子を、少女がたしなめている。その様子を、ブルーはまぶしそうな目で見て言った。
「――ここはいいところよ。環境とか、そういうのももちろんだけど、みんなが助け合っていてあたたかい。だからあたしも『ランチの女』としてここに居たいんだわ」
「ハイジから天使がくるって聞いたときはたまげたけど、あんたみたいな変わり者で助かったよ。グランマの『審査』を通さなくてもよかったくらいさ」
マムはブルーの言わんとすることを察していたのか、さりげなくグランマの話題を出した。
「それはすっかり騙されたわ。”本当は居ない”お婆さんに、あたし面接されたり相談したりしていたのだものね」
いつもリンデンバウムの木陰でロッキングチェアに座っていた不思議な老婆「グランマ」。ただ、彼女がどこで起き伏ししているのか、なぜ皆と食事を取らないのか、そして、なぜ誰の口からも「グランマ」の話題が出ないのか――ブルーはランチで経験する様々な新しいことに気をとられて、そのことに頭が行かなかった。
「グランマの正体は、あのリンデンバウムの木そのものなのでしょう?」
はるか昔に滅びた地「楽園」の末裔であること。リンデンバウムの別名は菩提樹であり、「自由」を象徴する木であること――人よりも、天上界の者よりも長い命を継ぐ樹木であることを考えたら、グランマの正体があの木であることにも合点がいった。
「グランマは、この地のまさにおばあさんなのさ。テキサスの乾いた気候はリンデンバウムに適さないけど、緑と水の豊かなランチでだけは生きていける。私がここにくるよりずっと前から、グランマはここでこの地をひっそり見守ってきたんだからね。で、ちなみに……」
ブルーにはグランマはどんな姿で見えたのかとマムは聞いた。ブルーが見たとおりのことを伝えると、呪術師みたいないでたちだねえと笑った。マムには厳しいナニー(乳母)の姿に見えたという。
「私の育った家のナニーがものすごく怖くてね。多分そのトラウマだ」とマムはまた笑った。
このランチでグランマの姿を見たもうひとり、ハイジには白髪をひっつめにして割烹着を着たおばあちゃんに見えたそうだ。日本で生まれ育った彼女らしい想像だ。
ランチに居る間に、またいつかグランマに会えるときが来るだろうか。ブルーが本当に必要とした時、彼女は現れ「ホラ見たことか、力なんてすぐ戻ってくるって言ったろう?」と静かに微笑むのだろう。
今なら最初にグランマの言った「心から天使に戻りたいと思う時」の意味が分かる。下界に下りたブルーは、修行や鍛錬、天界の失態の後始末を名目に力を尽くしてはきたが、その気持ちはどこか受動的で、何かを成し遂げても満たされるものではなかった。
強きものとしての驕りもあった。だからこそ犬一匹助けるという(結果的によかったかどうかは別にして)だけの理由でたやすく天上界の力を使ってしまい、それが父の怒りに触れてしまったのだ。
だが、スキュラとの戦いの中、ハイジを救えなかったときに感じた絶望と、かけがえのないものを失いたくないという希望は嘘偽りないブルーの本心で、自分の命を危険に晒してもハイジとランチを守ろうとしたことが、天上界の者として「守る資格」を取り戻したのだろうと思う。
それに、ハイジに銃口を向けたことを告白したときのグランマの「よかった」という一言。あれはブルーに天使の力が戻りつつあることを暗示していたのだ。天使は、相手の見た目に惑わされず「邪悪なる者」を見極めなければいけない。スキュラに無慈悲な攻撃をしていたハイジはまさしく「魔」に属するものであり、ブルーの本能がそれを察知したのも、天上界の力あってのことと考えられる。
ブルーは星空を見上げ、力を失ったその日から今日までのことを思い返した。
たかがひと月足らずのここでの生活は、彼女に色々なものを学ばせ、経験させてくれた。その何より大きなものは「本当の幸福」であった。物的に満たされるのとも、力による優越を感じるのとも全く違い、倹しくとも弱くとも、人は十分に幸せを感じることが出来るのだと。
それは天からただ見下ろしていたのでは決して知ることはできないもので、天上界が考える「神の御子である人間に与えるべき幸福」が必ずしも正しいものではないと、ブルーは理解できた。
「ねえ、マム」
「なんだい?」
「――あたし、あとひとつだけ肩の荷を降ろしたらここを去るわ」
「そうかい……まあ、あんたはもうランチの女だ。いつでも遊びに来たらいい」
「ええ、”もうひとつの大きな荷”を降ろせたら……きっと来るわ」
「ハハン、ハイジに毒されたね」
ランチにさわやかな夜風が吹きぬけ、リンデンバウムの葉が優しく音を立てた。
<Take care!>
「みんなー!グラス持ったー?」ハイジの声が食堂に響く。
女たちも子供達も、めいめい好きな飲み物が入った不ぞろいなグラスを手に声を上げる。
「え~……この度は、ノーラさんエンリケ君の新たな門出を祝う会にお集まりいただきまして誠にありがとうございます」
「なんだいその堅っ苦しい意味不明の挨拶は」口の悪い女が囃し立て、みんなが笑う。
「うっさいよ!これがジャパニーズスタイル、ザッツ様式美ってやつなの!」
スキュラの一件から数ヶ月、ノーラとリケがランチを去ることになった。
酒と賭け事に溺れた父親のテオから逃れてランチの住人となった2人だが、リケが誘拐されたという騒ぎを聞きつけたテオは、ショックのあまりすっかり心を入れ替えて真っ当な仕事に就くようになった。それがどうやら安定しそうだということで、晴れてランチを出て親子3人での生活を始めることになったのである。
マムの食堂には、女達が腕を振るった料理がテーブルの上に所狭しと並び、子供達の飾り付けは天井や床にまでおよび、ちょっとクレイジーなパーティー会場と化していた。
そして中央テーブルには、両親に挟まれて満面の笑みのリケと涙ぐむノーラ、そして照れくさそうなテオの姿があった。
「わたくし、ハイジが僭越ながら乾杯の音頭の大役をあずかりまして」ハイジの口上は続く。
「ええい、長い!リケ!ノーラ!おめでとう!もう帰ってくるんじゃないよ!」
「乾杯!」「飲むわよー!」「テオのクソったれ!」「わーい!」
「こらー!最後まで聞けー!って、ま、いっか!かんぱーい!!」
痺れを切らしたマムの掛け声でハイジの音頭は遮られ、皆いっせいに祝いの言葉を叫んだ。子供達はリケをつれてケーキのテーブルに突進し、叱られないのをいいことにお菓子から手をつけはじめる。ノーラは仲良しの女達にすがって早くも号泣しているし、テオは酒豪の女達に脅されて小さくなっている。親子同居の条件として断酒を誓ったテオであったから、彼女達の手には炭酸水の大瓶が握られている。あれを酒のように飲まされてはたまったものではないだろう。
大きくなったお腹を重そうに抱えて、ハイジがブルーの隣に座った。
「ちょっと……ハイジ大丈夫なの、この騒ぎ」はらはらしてブルーが訊ねた。
「ブルーは初めてだったよね。ここのお別れ会」オレンジジュースを手にハイジが笑った。
ランチは単なる不幸な母子の駆け込みの施設ではない。母親には自立できるだけの職を、子供には学びの機会を与え、同時に父親の更正を促す場だったのだ。それでもリケ達のようなケースは珍しく、母子だけで生活を始めるものや、ランチを離れて消息を絶つものもなくはない。
「ノーラとリケと、お父さん、上手く行くといいわね」
「同じことを繰り返したら、マムと力自慢の女が家に押しかけて、暴れ牛を放つって言ってたよ」
ここの女達ならやりかねないとブルーは笑い、コーラを片手にチキンをつまんだ。
「はぁ~……ブルーはいいなあ。もう、そんな食事したって太らないんでしょ?」ハイジは声を潜めた。
「そうだけど……でもちゃんと毎日の運動は欠かさないわよ。ハイジは2人分だからってあんまり食べ過ぎるのもダメだからね」
「いやこれ……マジでものっすごく重いの。あぁ、早く生んで暴れまわりたいっ」
ハイジのお腹の中の子供は、スキュラを倒したあの日から成長をはじめた。恐らくあの一件で、ハイジの母親になりたいという思いが本当に芽生え、子供を成長させたのだと思う。
今までが今までだったので、果たして臨月がいつなのかブルーにも分かりかねるところがあったが、いつ生まれてもおかしくないハイジの状態を、ランチの女達は常に気にかけていた。今日だって、ハイジのテーブルからは一切のジャンクフードは排除され、新鮮なサラダとフルーツ。淡白な味付けの肉と、ライ麦のパンが並んでいた。自分だけいつもと同じ食事だと文句を言いながらも、ハイジも皆の気遣いに感謝しているようだった。
祝いの会は日暮れ前まで続き、家族そろって新しい家へと帰るノーラたちはいつまでも別れを惜しんだ。リケは今までどおり他の子と同じスクールに通うとあって、表面上はあっけらかんとしていたが、いざ車に乗り込むとなるとぐずって大変だった。
なだめすかして車を出す頃にはあたりはすっかり暗くなり、女達は子供たちにシャワーを使って寝るよう命じ、手際よく宴席の片づけを始めた。手伝おうとするのを止められたハイジは、不満そうにしながらも一足先に家に戻っていった。
「いやに素直に戻ったと思わない?」ハイジの様子を不審に思った女がブルーに耳打ちした。
「そうねえ……いつもなら『病人じゃないんだから手伝う!』ってうるさいのに。あたしちょっと様子見てくるわね」
ハイジの体調に何か変化があったのではないかと心配になったブルーは、慌てて家に向かった。ベッドルームの電気がついているところを見ると、早くも寝支度を始めたのだろうか。妙に胸騒ぎを覚えて、ブルーは歩みを速めた。
1分後、ブルーに説教されているハイジの姿があった。ハイジはなんと、禁止されている甘いものを隠し持って、寝室でこっそり食べていたのである。素直に帰ったこともこれで納得だ。
「――まったく、心配して損したわよ!」
「今日くらいいいじゃん……おめでたいんだから、ケーキの3個や4個」
「甘いものは赤ちゃんの歯によくないって言ったでしょう」
「その分明日からちゃんとするから~」まるで駄々っ子である。
ブルーもほっとした分、あまりに怒り続けるのもばからしくなってしまい、キッチンに下りるとハーブティーを淹れて戻ってきた。
「カフェインが入っているものはだめだから……今日だけよ?」
「やった!話わかるねー!こうなったら徹底的に食べよう!」
驚くべきことに、ハイジはベッドの下からバスケットに満載されたカップケーキを出してきたのである。あのタイミングでよくこれだけのものを気づかれずに持ち出したものだ。ブルーは黙ってバスケットを取り上げると、なるべく着色料の少なそうなもの(それでもアメリカのケーキというのは信じられない色をしている)をひとつ選んでハイジに渡した。ハイジは完全に不満そうであったが、これも取り上げられては困ると、文句も言わずにそれを食べた。
「はー……美味しかった。さすがに5個も食べるとお腹がやばいね」
「あなた、もう4個も食べてたの?!」
「チョコとナッツとレーズンと、砂糖がけココナッツ!」してやったりという顔でハイジは笑った。
「お腹壊しても知らないわよ……。とにかくこれは返してくるわね」
「ブルー……ちょっとまって」
「だめよ!もう十分食べたでしょう!」
「いや、そうじゃなくて……。ちょっと、あれが出るかもしんない」
何を言ってるのとハイジの顔を見たブルーは、その真剣なまなざしで事態を察した。「あれ」って赤ちゃんなの?オナラみたいに言わないでちょうだい!陣痛が来たのね?大変、マムを呼んで来なくちゃ!とバスケットを放り出すようにして部屋を出て行った。
ブルーの慌てようを、痛むお腹をさすりながら見ていたハイジは言った。
「天使なんだから窓から羽で飛んで行きなさいよ……。あぁ、ケーキ……もったいない」
もうじき夜が明けようという時になって、ランチに新しい命が誕生した。
<Good Luck to you!>
ブルーが去って数ヵ月後のランチでは、ある女の子の1歳の誕生日が祝われていた。子供達にかわるがわる抱っこされたりあやされたりするのに飽きたその子は、ハイハイのまま食堂を逃げ回り、大人たちをハラハラさせた。
母親であるハイジはというと、ただ満足げにその様子を眺めていた。
「分かってはいても、辛いわねえ」
「ハイジ、あなた本当に日本に帰るつもりなの?」
ランチの女達は口々にハイジに問いかけた。そう、ハイジは娘が1歳を迎える日にランチを去ることを皆に告げていた。今日がその日なのである。
「私はまだ、あっちでしなくちゃいけないことがあるから。それは皆に話した通りだよ」
お互いの身の上を詮索しないのがルールのこのランチとはいえ、ハイジは今まで自分の素性を隠してきたことが心のどこかに引っかかっていた。自分の血のこと、復讐のこと。出て行くと決めた後、彼女はその全てを既に告白してあった。女達は驚きこそすれ、誰一人として彼女を責める者はいなかった。自分の意思でなすべきことを決めた者を否定する人間はここにはいないのである。
「まあ、ブルーが一緒なら安心よね。ハイジひとりじゃ何するか分からないもの」
「便りひとつ寄越さないけれど元気でやってるのかしらね。あの子も不思議な子だったわ」
「彼女も今は日本にいるのでしょう?」
ハイジの娘の誕生を見届けて暫くして、ブルーは天上界へ帰ることを決めた。マムとハイジ以外には「父に勘当されていた家出娘」として「実家に帰る」と話したらしい。ハイジはもちろん止めたが、ブルーの本意を知ると、それ以上は何も言わずに彼女を送り出した。
「今、いるかは私も分からないなぁ。でも、私達が初めて出会った輝夜っていう街でまた会おうって約束しているからきっと会える」
呑気な話ねえ、と女達は笑ったが、ハイジには確信があった。あの、おせっかいな天使は、自分を助けるためにきっと来る、と。
娘と遊んでいた子供達から歓声が上がった。見ると、娘が初めてつかまり立ちをして、テーブルの端を掴んだままよちよちとこちらに向かって歩いてくるではないか。女達は悲鳴に近い声を上げて、子供達に娘を転ばせないように叫ぶ。
ハイジは立ち上がると、娘の数歩前にしゃがんで両手を広げた。ゆっくりゆっくり歩みを進める娘の顔には満面の笑みが輝く。母親の目の前でテーブルから手を離し、両手を差し出した娘をしっかりと抱き、そのまま子供の温かさに身をゆだね、静かに涙を流した。
「まったく、子供ってのはたいしたもんだよ。あのじゃじゃ馬をすっかり母親にしちまうんだからね」
別れのつらさを紛らそうと強い酒をあおったマムの目にも、光るものがあった。
開け放った窓からは初夏のさわやかな風が入り、リンデンバウムの葉擦れの音や遠くに聞こえる馬のいななきを運んできた。かつて魔物が棲んだ水場の周りには、女達が植えたマリーゴールドが花をつけていた。聖母の名のついたその花は、悲しい惨劇が二度と繰り返されぬようにと、豊かな水をたたえた水場を見守っている。