(中編)再び手に入れる
ランチからほど近い水場に出るという魔物「スキュラ」に連れ去られた子供を助けるために、ハイジは驚異的な力で攻撃をする。
彼女の尋常ならざる強さはブルーも知ってはいたが、ハイジの戦い方はブルーには恐ろしく感じられた。
その違和感と、ギクシャクしてしまったハイジとの仲を解消するため、ブルーは意を決する。
<真実>
翌朝ブルーが目覚めると、既にハイジは起きていて、キッチンで朝食の支度をしていた。今日はマムの食堂ではなくここで食べようというハイジの提案で、彼女もブルーと話をするつもりなのだと分かった。
テーブルの上に目玉焼きと丸パンとオレンジ、そしていい香りのコーヒーが並ぶと、ハイジは昨夜のスキュラとの戦闘をブルーに詫びた。子供を救うために後先考えずに飛び込み、結果的に何の成果もないままスキュラを逃がしてしまったのは自分の失策だというのだ。
「どうしてあんな戦い方を?」
「だから、リケのことを思うとつい」
「そうじゃなくて、ハイジの戦い方は……はっきり言うけれど、酷く残酷で恐ろしい。初めて会ったときのあなたは、自分の身を守るためにもかかわらず、すごく隙だらけで甘かった。あんな暴漢たちを相手にしてもなお傷つけすぎないようにしていたのに、何故?」
話を遮られて追及され、ハイジは虚を突かれたように無口になったが、コーヒーを一口すするとふっと息をついてブルーの顔を見た。おどけてみようとしたが上手く行かず、強張った泣き笑いのような表情を貼りつけたまま搾り出すように発した言葉に、ブルーは耳を疑った。
「復讐のためよ。私はね、ブルー、あの人が死んで20年以上、ずっとその相手を探していたの」
復讐、という言葉を吐いてしまうと、ハイジは箍が外れたように話し続けた。その表情は一見冷静であるが、テーブルに置かれた手は強く握られていた。
彼女の夫は23年前の1992年、日本の輝夜という港湾の街に突如現れた外敵の襲撃に遭って亡くなったという。輝夜が人と魔族と獣人が共存する珍しい街であることは、訪れたことのあるブルーも知っていた。ハイジと初めて会った時、街のそこかしこの道路が傷み、廃墟も多かったのはその襲撃のせいだったのかと納得できた。
「――ハイジは、その襲撃の相手に復讐を……?」
「あまりに突然の襲撃だったから、最初は何が相手なのか誰も分からなかったのよ。だけど、何年かに一度、輝夜と同じような種族混在の街が襲撃を受けることがあって、段々と正体が見えてきた」
ブルーのほうをまっすぐに見つめるハイジの目には意思が宿り、その手はもう震えてはいなかった。
「そいつらの名は『白の裁定者』――強大な科学兵器を所持するカルト教団。いつか来る世界滅亡の時のために、選民である自分達が新たな人類としてこの世界を統治するのだという、クソみたいな理想を掲げた狂人の集団よ」
カルト、狂人の集団――という言葉の過激さよりも、ブルーはそのあとハイジが言うであろう言葉が読めてしまい、それが恐ろしかった。
「だめよ、ハイジ!」
「天使のあなたに告白するのは怖いけれど……私、きっとすごく沢山の人を殺す」
「あぁ……」ブルーは両手で耳を覆った。絶対に聴きたくない台詞だった。
だから、戦う相手にいちいち温情をかけるのをやめにしたんだ。どこでやつらと対峙しても、冷静に確実に命を取れるようにね。それが私がいまこうして生きてる唯一の意味。止めたって無駄だよ。
冷め切ってしまった朝食には手をつけず、ハイジは最後にそう言って家を出た。
彼女から発せられた言葉の衝撃に暫し呆然としたブルーであったが、意を決したように立ち上がると棚からバスケットを出し、それにテーブルの上のものを詰め込んで厩舎に向かった。今日はハイジが子供達を学校に送る当番だ。ガブちゃんに乗って追いかければ間に合う。
「あのわがまま娘に朝ごはんを食べさせなくちゃね!」
何が止めたって無駄よ、無駄かどうかはあたしが決めるんだから!何の混血だか知らないけど、こっちは100%まじりっけなしの天使なのよ!だから――
――あんな「助けて」って目で言われて、ほっとけるわけないじゃない。
<架け橋>
「ふむ……なるほどねぇ。『白の裁定者』については私も知らないわけじゃない。というか、世界情勢に通じていればおのずと耳に入ってくるのがやつらの噂さ」
「まぁ、マムって何者なの?この牧場の経営主さんってだけじゃない気がするわ」
「こう見えても世界の正義、アメリカ生まれの私を舐めたらいけないよ」
この国の人間がもつ独特の高慢さをちらつかせるのではなく、半分自嘲的に笑ってマムはブルーに話の先を促した。
「その組織を、ハイジはカルト教団だと言っていたけれど、武力を以っていくつもの街を襲撃してるだなんてただのテロ組織と変わらないと思うのだけど?」
朝の話の後、ガブリエルに乗ってハイジを追いかけ、半ば無理やりに朝食を届けたブルーは、午前の巡回をしながらマムに今までのいきさつを話した。
「単なるテロ組織とは言えないのは、やつらがべらぼうに発達した科学力を持っているからなんだ。街ひとつ分ほどもあるでかい船で、普段は宇宙空間で生活してるって言うんだから。クローンで増えているという噂もあるし……私らの社会がタブーにしている科学技術だって、やつらは平気で使っちまうってことさ。そして何より恐ろしいのは――」
マムは一瞬言いよどみ、空を仰いだ。よく晴れたその空のはるかかなたにいるであろう「白の裁定者」を見据えたのであろうか。
「やつらは魔族だろうが獣人だろうが、それこそ天使だろうが片っ端から捕まえちゃ、色々な実験をしているって話だよ。実際、丸ごと滅びた種もあるらしい」
「なんですって?!」
ブルーは驚きと怒りの混じった叫びを上げた。魔族はもちろん、獣人だって天界と決して折り合いのいい種族ではない。だからといって命を弄ぶような行為は決して許されない。何て傲慢で驕った組織なのだろう。
「太陽の下を歩くvampを見たことあるかい?」
「えっ?」
「白の裁定者の、一番の被害者はヴァンパイアの連中だ。ご存知のとおり、vampは夜しか活動できない。それなのにやつらは太陽の光を恐れないvampを作り上げちまった。しかも最悪なことに、それをウイルス化して、感染させたvampを地上のあちこちにばら撒きやがった」
「ヴァンパイアは時に仲間の血を、互いに味わいあう習慣があるわよね。まるで上等のワインを飲むかのように……」
「――あぁ、それはあっという間だったさ。たった数年のうちに、ほとんどのvampが感染しちまった」
吸血行為で同族を増やすvampが昼も夜もなく活動したのでは「捕食」される人間にとってはたまったものではあるまい。しかし、何故マムはvampを「被害者」と?
「vampは一日の半分を休眠しないと老いちまうのさ。太陽の下にいられなかったのはある意味やつらが不老の体を維持するために身体に備わった機能だった。そのリミットがなくなって、かなりのvampは放蕩的に生きた……結果、いくつかの種族は絶えてしまったらしい」
「酷い……」
白の裁定者の横暴さにブルーは激しい怒りを覚えた。どんな種族であれ、何千年、何万年と命を継いで生きてきたのだ。それを人為的に捻じ曲げて、何が統治なのだ。到底許しがたい。
「ただねえ……。ハイジがやつらを仇のように思うのは理解できるが、一体どうやって復讐するっていうんだ。今やどこの政府も手出しできないほどの強大な『国家』だよ、あいつらは」
それはブルーも考えた。今の話を聞いて真っ先に思いついたのは、自分に力が戻ったら父に願い出て、天界から白の裁定者に罰を下すというものであったが、それほど簡単な相手とは思えない。ましてやハイジひとりにできることなどたかが知れているもいいところだ。
「……!!まさか……!」
「ん?どうした?」
「あ、いいえ……独り言」
ブルーの頭に一瞬よぎった考えは、おそらく白の裁定者に抗し得る唯一の策と言っていいものだった。しかし、かつてをそれを成し遂げた者はいないどころか、試そうとした者すらいないのではないだろうか。
――天界の戦闘力、魔族の魔力、獣人の膂力、人の団結力。もし、お互いがお互いを補うことが出来たら、これほど強い集団はないわ。問題はその間に今まで「架け橋」がなかったことだけ……。
「できるかもしれない……『あの場所』なら……」
ブルーのつぶやきは、ランチを走る乾いた風にかき消され、マムの耳には届かなかった。
<リンデンバウムの木陰で>
午後の休息時間、ブルーはグランマの元を訪れた。
初めて会った時と同じように、グランマはリンデンバウムの木陰でロッキングチェアに座っていた。前回と違う点があるとすれば、木陰の涼しい場所にはテリーが陣取って昼寝をしていることと、ブルーが椅子ではなく地べたに座り、木の幹に寄りかかっているということだった。
「フン、天使様のくせに随分とここの女達に似てきたじゃないか」
「だって、こうしないとお砂糖がシャツにこぼれるのよ」
ブルーの右手には粉砂糖がいっぱいかかったドーナツ、左手には使い古されてでこぼこになったアルミのマグカップが握られていた。昨夜のお礼とお詫びにと、リケの母のノーラが皆に振舞ったものだ。
「――まあいいさ、そういう変化は歓迎だからね。で、また随分突飛な発想をしたもんだね。ハイジがあらゆる種族を仲間にしてあの罰当たり集団にお灸を据えようとしてるって?」
ブルーは今更ながら、グランマの「視る力」に驚いた。ドーナツを一口齧る間に、ブルーが話そうとしたことを全て読み取ってしまっているなんて。これじゃ隠し事なんてできやしない。
「そして、あんたはそんなハイジの正体に触れて、怖くってしかたない。でも助けたい。だから迷ってわたしのところに来たんだろ?」
「グランマにはお見通しだから正直に言うわ。昨日の夜、スキュラと戦った時のハイジは、『魔』そのものだった。あたし、一度はハイジに……銃口を向けたの」
恐怖に耐えかねてハイジを撃とうとした自分の弱さを、ブルーはグランマに初めて告白した。グランマの反応を覗おうにも、深いしわの刻まれた顔からは、彼女の気持ちは読み取れなかった。ランチの仲間であるハイジに危害を加えそうになった自分に、好意的な返事がくるとは思っていないが、暫くの後にグランマが発した言葉は意外なものだった。
「そりゃあ、よかったじゃないか」
「え?」
「やっぱりあんたにしかハイジのことは任せられないね」
「……グランマ、それってどういう」
「なんだい、察しが悪いね。わたしは今あんたを視たからもう疲れたよ。ひとつだけヒントをやるからちょっと眠らせておくれ」
ブルーが頷くと、グランマはこう言った。
「ハイジじゃなくて、例えばマムだったら、あんたは同じようにしたかい?」
ヒントどころか、さっぱり分からない謎かけを残して、グランマはロッキングチェアの上で目を閉じてしまった。こうなってしまうともう話をすることは出来ない。
ブルーは諦めて、ドーナツとコーヒーをゆっくり味わい、ジーンズにこぼれた砂糖をはらうと、ランチの仕事に戻ることにした。テリーも、休憩は終わりとばかりに立ち上がってとことこと「持ち場」へと向かった。木陰でおとなしく草を食んでいたガブリエルに跨ると、厩舎に向かう道すがら、ブルーはあれこれと考えをめぐらせた。
自分の憶測をぶつけたところでハイジは否定するかもしれない。助けの手を差し伸べて拒まれたらどうしたらいいのか。だけど、あたしはあの子に人を殺させるわけにはいかない。グランマの言いたいことがまだわからなくとも、自分はハイジと話し合うべきなのだ。
「僅かでも天使の血が入った者が復讐のために人の命を奪うだなんて、そんな罪深いこと――」
思わず口をついて出た言葉にはっとした。
「――あれ?今何か、さっきのグランマの言ってたことが……」
靄がかかったようになっていた頭の中にわずかな閃きが生まれそうになった。
しかし、ブルーの思考は誰かの叫び声で断ち切られた。
「ブルー!リケが……!スクールから抜け出してどこかに行っちゃったって……!」
声の主はバギーに乗って向かってくるハイジで、その後ろにはラファエルに騎乗したマムが続いていた。手にはライフルを持っている。
3人は顔を見合わせると頷きあって、そのままあの水場へと向かった。
<兆し>
水場へと全力で馬を駆りながら、マムがブルーに伝えた話によると、昨夜の一件の後、リケは夢から覚めたように正気を取り戻した。身体に外傷もなく、何があったかも全く覚えていないようだったので、そのまま他の子供と一緒にハイジに送られてスクールに行ったという。
教師には、今日のリケは夢見が悪いのかナーバスになっているようだ、何か様子がおかしかったら知らせてくれと頼んでおいたのが幸いし、リケの姿が見えなくなってすぐマムの元にも連絡が来た。(ランチの住人の環境の独特さはスクール側も熟知しているのだ)
しかし、職員総出で周囲を探してもリケは見つからず、子供の足ではなく何かの乗り物で移動した、つまりは誘拐されたのではないかという騒ぎになっているという。その情報が逆に、マムにスキュラの仕業を連想させたのだ。
「昨日、リケはランチから数キロはなれた水場で見つかった。でもあんな夜中に子供が1人でたどり着けるわけがないだろう?間違いなく、あの魔物の仕業だよ」
――スキュラという魔物は、美しい容姿と歌声で子供や男を誘い込み、命を奪う――
だとしたら一刻も早くリケを助けなければならない。昨日の失敗で魔物は「焦って」いるはずだ。恐らく今度は容赦なく……。
おぞましい妄想を振り払い、ブルーは自分達のはるか前方で砂煙をあげて走るハイジのバギーを見据えた。
ハイジでなければ、スキュラを倒すことは出来ない。そして、あたしでなければ、ハイジが自分の中の魔に囚われるのを防ぐことは出来ない。それを同時にやってのけろというの?おもしろいじゃない!天使の力がなくったって、そんなの丁度いいハンデだわ。本気で怒ったあたしをなめんじゃないよ!
心の叫びまですっかり「ランチの女」になって、ブルーは馬を走らせた。
ブルーの数メートル後ろでは、マムが舌を巻いていた。
「おやおや……なんて速さだい。競走馬くずれのサラブレッドのラファエルと、生粋のカウガールの私が全力出してるっていうのに追いつけないだなんて。そもそも、ガブリエルはクォーターホースじゃなかったかい?」
風になびくガブリエルの白いたてがみは輝き、その身体までも仄かに光を帯びているようだった。決着の場へと近づくにつれて僅かに起こる変化に、ブルーはまだ気づいていないようだった。
<魂の限界>
永遠とも思える距離を走ってようやく水場に到着したブルーは、馬を下りてBerettaを抜き、ハイジの背後から水場を覗き込んだ。
スキュラは昨夜と同じ、黒光りした鱗に覆われた怪物の姿をしており、女性の形をした上半身でリケを抱いていた。リケの顔には血の気がなく、目は開かれているが、視線は虚空を見つめていた。
「……生きてはいるね」暫し遅れてきたマムが僅かな安堵を見せたが、声にはスキュラの禍々しい姿を目の当たりにした恐怖が滲んでいた。
「だけど、どうやって助けたら……」
昨夜の戦いを思い出すが、数発の銃撃で撃退できる相手とは思えず、下手に刺激してリケを危険に晒すわけにもいかない。マムもブルーも手をだしかねていると、ハイジが水場を見つめたままで問うた。
「マム、ウリエルって生まれたとき何ポンドだったっけ?」
「はぁ?何言ってんだいこんな時に」
「ウリエルですって?!」
「去年、難産だったんで私とハイジで取り上げた子牛だよ……たしか80ポンドぐらいじゃないかね」
子牛に、ウリエルだなんて……。本当にこのランチは家畜にとんでもない名前をつける。
「じゃ、リケの方がずっと軽いね。余裕でいける」
羽織っていたシャツを脱いでタンクトップ姿になったハイジは、準備運動をするかのように腕をぐるぐると回すと、助走をつけていきなり水場に飛び込んだ。信じられない跳躍だけでスキュラの目の前に一気に到達すると、スキュラが身構えるよりも前にその口の中に一撃を叩き込んだ。
スキュラの鋭い歯がハイジの拳に食い込み、鮮血が散る。不意をついた攻撃にスキュラの力が一瞬緩んだのを見逃さず、ハイジは空いている右手でリケを奪い取ると、スキュラの胸を蹴って口から拳を引き抜いた。そしてブルーたちのほうに向き直ると「受け止めて!」と叫んでリケを空に放ったのだ。
「ちょっ……!無茶……」
マムは慌てて構えたが、「子牛より軽い」リケの体重を支えきれず、抱きとめたもののそのままの格好で派手にひっくり返った。
「マム!大丈夫?!」
「……大丈夫なもんかい……イテテ……。この豊満なバストがなかったらどうなってたか」
痛みに顔をゆがめながらもマムが軽口を叩いたのは、抱きとめたリケが無事であった安心感からと分かり、ブルーも思わず笑みを漏らしたが、すぐに水場に視線を移した。ハイジは?
「ハイジッ!!!」ブルーは悲痛な叫びを上げた。
水場ではおぞましい光景が広がっていた。スキュラが蛇の胴体をハイジの上半身に絡め、彼女の身体をぎりぎりと締め上げている。悲鳴すらあげられないほどの力なのか、みしみしと骨がきしむ音だけが聞こえ、ハイジの足は空を掻いた。
ブルーはBerettaを構え、スキュラの上半身にありったけの銃弾を放った。弾が当たったところからはどす黒い体液が噴出し、魔物の醜い顔が苦痛で歪む。いや、苦痛などではなかった――笑っている。この捕らえた者さえ絞め殺してしまえればいいと思っているのか、スキュラは高らかに笑いながらハイジを締め付けた。
装弾ももどかしく、ブルーは叫びながら何発も銃弾を撃ちこんでいった。マムもライフルで加勢するが、スキュラの上半身の肉をいくらそぎ落としても下半身の力を緩めることは出来ない。もはやハイジの足はピクリとも動かずだらりと垂れ下がるだけだ。
ぐしゃり、と嫌な音がして、この世のものとは思えない叫声が響き渡った。ブルーは反射的に顔を背けた。それと同時に、友を救えなかった罪悪感が彼女を襲い、立っていられないほどの眩暈を感じた。
「――お、おいっ!あれ……あれはどういうことだい!」マムの混乱した声が耳に届いた。
おそるおそる水場を見たブルーにも、目に映ったその光景を把握するのに時間を要した。
水場でのた打ち回って悲鳴をあげているのはスキュラだった。釣り上げられて岸に放り出された魚のように、身体を折り曲げて悶え苦しんでいる。ハイジを締め付けていたはずの下半身は――無残に引きちぎられてうねうねと動いていた。
そんなスキュラの無様な様子を、ハイジは水場に立って無表情に見下ろしている。何の感情も覗えない眼をした彼女は、すっと右足を上げると、スキュラの胴体を踏みつけた。何度も何度も。やわらかいものが砕ける嫌な音とスキュラのけたたましい悲鳴が辺りを包み、そのおぞましさにマムは地面に崩れるように膝をついた。
「……Metamorphosis……」ブルーは絞り出すような声でつぶやいた。
「メ、メタ……なんだって?」
「メタモルフォシス――自分の中に隠れた別の特性によって、身体が変化すること。何てことなの……ハイジの血は、やっぱり……」
ブルーはその気配を確かに知っている。はるか昔、天界を追放された「強き者」の名を冠した天使。彼は一切の武器を持つことなく、天界の力も使わず、己の腕だけであらゆるものを破壊した。ハイジの中にその血があるのだとしたら、スキュラなど虫けら同然に扱うだろう。
だが、その血がもたらす力は到底人の身体で受け止められるものではない。
ハイジの動きがぴたりと止まり、立ったままがくんと首が折れた格好になると、突如激しい悲鳴を上げ、自分の体を抱くようにしてその場にうずくまった。なりふり構わぬ声で痛い痛いと泣き叫ぶハイジに、今度はスキュラがぼろぼろの上半身のままでしがみついた。ハイジに爪を食い込ませ、牙をむいて喉を掻き切ろうとする。
ブルーはBerettaを捨て、すり鉢状の岸を水場のほうへと滑り降りた。唯一の武器を捨てた自分に何が出来るのか、考えることもないままに身体が自然とそうしたと言ったほうが正しい。ただ、もどかしい。人間の身体は、なんて重くて遅いのだろう。砂地に足を取られて転倒し、舌打ちをする。すぐに立ち上がるが、必死に足掻いてはいても一向に前に進まない気さえする。スキュラが口を大きく開け、ハイジに噛み付かんとするのがスローモーションのように見える。でも、自分は絶対間に合わない――。
これじゃあまたハイジを救えない。もうさっきみたいな絶望はいや!
ブルーは斜面の途中から水場に飛びこんでいった。死に掛けているとはいえ、スキュラみたいな魔物に素手で挑んだところで何が出来るのか、わからないけれど、こうしなければ絶対に後悔すると思ったのだ。
がむしゃらに飛び込んでいったブルーは、自分でも何をどうしたのか理解できなかった。
しかし気がつくと、ハイジを両手で抱きかかえ、マムとは反対側の岸辺に立っていた。いや、立っているんじゃない――懐かしい感覚に、ブルーは一瞬混乱した。
「こら、天使!そんなもの隠してたんなら最初から出しておくれってんだよ!」
マムが乱暴な言葉とは裏腹に拍手喝采を送っている。それを「はるか上」から見下ろすと、ブルーは一度ゆっくりと地上に降り、すでに気を失っているハイジをそっと寝かせ、再びスキュラの元に向かっていった。
翼が返ってきたのだ。おそらく、天使としての力も。
そうなれば、あたしのすることはスキュラを倒すことではない。
激しい水音を立ててもがき苦しんでいたスキュラは、目の前にブルーの姿を認めると牙をむき出して襲い掛かってきた。しかし、ブルーが何かを唱えると金縛りにあったかのようにぴたりと動作がとまった。スキュラの口からはうめき声とも泣き声ともつかない音がかすかに漏れるだけで、恐らくその命は間もなく尽きるであろうことが想像できた。
ブルーはスキュラの額に手を添え、祈りの言葉を捧げた。
「貴女は沢山の命を奪ってきた。それは決して許されることではない。でも、貴女がこうなりたくてなったのではないことは分かる。だからせめて、元の姿で逝くことを許します。贖罪を終えた貴女に、また新たな生がもたらされますように」
辺りがまばゆい光に包まれ、スキュラの身体を覆っていた鱗が剥がれ落ちると、美しい女の姿が現れた。それは一瞬だけ微笑み、あとは光の粒となって消滅していった。
どんな形であれ、命あるものの最期には祈りが必要だ。ブルーは女の魔物の不幸を哀れみ、救いを願った。
(後編)に続きます。