(前編)「彼女」との再会【挿絵付き】
舞台は2015年のテキサス。
瀕死の状態であった天使のブルーは、かつて日本で出会ったアーデルハイトに命を救われる。
当時、彼女は子を宿していたが、それが今でも生まれないのだという。
彼女の助けになりたくとも、天使の力を失ったブルーにはなにもしてやれない。
落胆するブルーに、アーデルハイトは自分と一緒に住まないかと提案する。
アーデルハイトの今の住処は、女と子供だけが住むランチ(牧場)だった――
<2015年 テキサス州ダラス『Fallen Angel』>
ビルの隙間から見える、腹が立っちゃうくらい綺麗な青空に向かって、あたしは呟いた。「後悔なんか、してないわ」と。
お気に入りの青いドレスが、都会の砂埃で汚れている。だけどあたしにはそれを手で払う力はもうない。ビルとビルの間の薄暗い路地にぺたりとお尻をつけて座って、汚い壁にもたれかかって、四角く切り取られた青空をぼんやりと眺めている。
お腹に手をやると、そこには拭い去れない違和感がある。堕ちて行くあたしのはらわたが悲鳴を上げているのだろうか。つい先日まで天使であったあたしには、この感覚が理解できない。
――そう「つい先日まで」。
あたしは友を救うため、禁じられていた「力」を使った。しかも、人間相手にだ。天使としてあるまじき行為に、父ミカエルは罰をお与えになった。あたしはもう、天使ではないのだ。
「でも、後悔なんかしてないわ。最期に、大事な友達を、救えたから……」
不意に、空色がじわりと滲んだ。と、同時に目尻に熱いものが伝うのを感じた。あたしは泣いているのか。一体何に?自分の愚行を後悔して?それとも、堕天の事実を嘆いて?
はらわたが再び悲鳴を上げ、目の前が段々と暗くなる。
あぁそうか、これは堕天などではなく「死」だ。
天使であった時には感じたことなどない苦痛。
おそらく、あたしはこのまま死へと向かって行くのだろう――。
「ちょっとっ!あなた大丈夫?」
誰かがあたしの前に跪いているらしい。その人物は、ほっといてと言う力すらないあたしの肩をつかむと、がくがくと乱暴にゆすった。その痛みにかろうじて目を開けると、若い女性と目が合った。大きな目をまん丸にして、その女性は素っ頓狂な声を上げた。
「……あなた、もしかして、あの時の天使さん?!」
こりゃ大変だ、と言うが早いか、その誰かはあたしを軽々と抱き上げた。あぁ、何だろう。あたし、この人を知ってる――。
死んでいくはずのあたしは、なぜか安堵でいっぱいの気持ちになって、そのまま意識を失った。
鼻をつくにおいとざわめきであたしは目を覚ました。うす眼のまま首を廻らせて周囲を確認すると、どうやらここは飲食店か何かのようだ。ビニールの革を貼った安っぽい長椅子に横たわっていた体を起こそうとすると、反対側の長椅子に座っていたらしき人物が、テーブル越しにあたしに話しかけた。
「おはよう天使さん。久しぶりね。ざっと、20年ぶりってとこかな」
「あなたは……」
「覚えてないかもね。日本の“輝夜”っていうきったない街で、私あなたに助けてもらったの」
「……覚えてるわ。アーデルハイトさん……だったわね」
よく覚えていたわね、とまた目を丸くして、アーデルハイトは紙コップを差し出した。お礼を言ってひとくち口をつけると、暖めたミルクだった。あたしはそれをゆっくりと飲み、彼女の顔をまじまじと眺めた。
数十年前、あたしはふらりと立ち寄った日本の港湾の街で、数名の暴漢に襲われていた彼女を助けたのだ。といっても彼女はとても強く、あたしがしたのはほんのお手伝い程度だったけれど。その彼女とアメリカで再会したことも驚きだけれど、彼女があたしを覚えていて、あたしもすぐ彼女が分かったのはもっとびっくり。
「あたしも驚いたわ……全然変わってないのね」
あの時、ほんの少女のように見えたアーデルハイトは、日に焼けて健康そうになってはいるが、見た目は当時とほとんど変わっていない。年を取っていないのだ。
アーデルハイトはにっこり笑って、まあその辺の話はあとで、ちょっとまってね、と言い残すと席を立った。カウンターのようなところに行き、メニューとにらめっこをしている。
途端にあたしは自分が置かれている状況を把握し、戦慄した。
店内に充満する油のにおい、派手な内装、無駄に明るい音楽、そして赤地に黄色の「M」のマーク……。ここは、あたしが下界でもっとも忌避している「堕落の園」ではないか!
世界中どこに行ってもみられるこの店は、何らかの食料を提供する場を装ってはいるが、その正体はまごうかたなき悪の巣窟である。魔族が経営しているに違いないとあたしは睨んでいる。だって、ここに入る前の人はみなどこかイライラしているのに、出てくる時は一様に満足げな笑みを浮かべている――肉体の健康度が明らかに低下しているのに、だ!きっと魔の調合を施した“何か”を人間たちに摂取させているのよ――。
一刻も早くここを立ち去らなければ、と思うが、体に力が入らず、あたしはテーブルに肘をついたまま、アーデルハイトにこの恐るべき事実を伝えるべく、戻ってくる彼女を睨みつけた。
安っぽいプラスチックのトレイを掲げて、鼻歌混じりに彼女は戻ってきた。
「そんな目しなくても、天使さんの分も買ってあるわよ。はい、ダブルパウンドベーコンエッグチーズバーガーと、ポテトのXXL、テラサイズのコーラね」
あたしの目の前に、トレイに乗った「悪魔の食事」が突き出された。反射的に私はのけぞって、禍々しい食べ物を凝視した。
練ったひき肉を固めて丸めて焼いて、これでもかというくらい滲み出た脂を、もっさりしたパンが吸っている。ご丁寧に、肉と肉の間には黄色すぎるチーズがいちいち挟まって、それがパンにまで垂れている。パンと肉の間には厚切りの燻製肉。エッグというからには卵が使われているのだろうが、肉とチーズに圧迫されてその姿を確認することは不可能。自然のままの味の調和などどうでもいいらしい加工ぶりだ。
そして馬鈴薯を細く切って油で揚げて、塩を振っただけの、つまんだだけで指がてらてらしそうなデンプン&油。おまけに、小さい皿に盛られた血のように赤いソースをつけろということらしい。
さらには、花瓶かと思しきサイズの紙製のコップに、黒く泡立った液体がなみなみと注がれている。果汁なんて入れるつもりがないらしい。液体のそこから湧き出る泡がはじけるたびに、薬品臭さが鼻についた。
――魔族は、神の御子である人間に、こんな酷いものを食べさせているのね!
この黄色いM字の飲食店が魔族の経営だという確証はまだないけれど、あたしは魔族のせん滅を密かに心に誓った――が、堕天してしまった今となってはせん無き願いと気が付き、深くため息をついた。
「あれ?マック嫌い?」
「そうじゃないの……アーデルハイトさん、これはね……って!」
何てこと!あたしの目の前に座ったアーデルハイトが、もりもりと悪魔の食事を平らげているじゃない!しかも超幸せそうに……!まちがいない、彼女がこんなに色が黒くなっちゃったのは、日焼けなんかじゃなく、魔族化が進んでいるからだわ!
衝撃にわなわなと唇を震わせるあたしに、彼女は見当違いなことを言った。
「この非常時にカロリーの事なんか気にしちゃダメだよ。食べられるとこまででいいから、遠慮なくいっちゃって、ホラ!」
と言うと、あたしの口に「焼きひき肉とチーズの油サンド」を突っ込んだ。濃厚なチーズの香りと肉汁に、私は一瞬気が遠くなりかけ――。
10分の後、あたしのトレイの上には、ハンバーガーの包み紙、ポテトの空き箱、そして空っぽの紙コップが残るのみとなった。アーデルハイトのトレイも同じだ。
「イイ食べっぷりだったね!さ、仕上げにアップルパイに行こうか!」
「も、もういいわ……」
あたしは口元を紙ナプキンでぬぐいながらかろうじて答えた。
「あれ?あんまり美味しくなかった?」
「そんなことないの……むしろ……」
今までの人生、いや天使生?で食べた何よりも美味しかった……。その証拠に、一口食べた後は無我夢中だったもの。魔族の供する物を口にしてしまった屈辱など、この食事の美味しさの前に霞んでしまったくらいだ。
さらにあたしはもう一つの事に気がついた。先ほどまでの「死」の気配がどこにも感じられず、違和感のあった腹部にそっと触れてみても、あたしのはらわたはもう悲鳴を上げていなかった。これは一体、どういうことだろう?
いつの間にか、アーデルハイトが両手に新たな飲み物をもって来ていた。今度は珈琲らしい。香りは皆無に等しいが、これなら慣れ親しんだ飲み物だ。安心して口をつけるあたしに、アーデルハイトはにこにこしながら話しかけてきた。
「相当おなか空いてたみたいね。天使さん、ご飯食べるお金もないの?」
「え」
「最初見つけた時、ふらっふらだったし、おなかはグーグー鳴ってるし、とりあえずマックに連れてきたけど……気に入ってもらえたみたいで良かった」
あたしはアーデルハイトの言わんとするところと、自分が今しがた経験した感覚について、やっと「理解」した。
「――あぁ、これが『空腹』という現象なのね!」
天上界の住人は、飢えるということを知らない。常に満たされていて食べる必要がないからだ。
酒やほんの少量の食べ物を時々口にするが、それは飢えているからではなく、摂取の悦びを味わいたいからにすぎない。だから、あたしは今まで空腹感も満腹感も経験したことがなかったのだ。
「なぁんだ、あたしはてっきり堕天の影響で内臓から腐って死んでいくのかと……。」
「堕天?あなたが?」
マックを平らげて、一人で驚いたり納得したりしているあたしのその一言を聞き咎めたアーデルハイトに聞かれ、あたしはこれまでのいきさつを語り始めた。
天上界のガーディアンであったあたしは、父である大天使に命じられて下界で生活をすることになった。目的ははっきりとは明かせないが、「天上界の失態の収拾」「射手としての技術の向上」が主なものだ。
タブーとされているのが、己の欲のために天上界の力を使うこと。しかし、今回あたしはその禁忌を犯してしまった……。
「昔、私を輝夜で助けてくれたのはセーフだったの?」
「あたしたち天使の最大の仕事は、生まれてくる子供たちを幸せに導くこと。あのときあなたはお腹に赤ちゃんがいたから――」
あたしははたと気がついた。そうだ、その時、妊娠していたこの子は今……。アーデルハイトの胎内の気配を探るが、赤子の生命を感じることはもうできなかった。
あたしが微妙な顔つきをしたのを察したのか、アーデルハイトはなんでもないという風に答えた。
「今もまだいるんだけどね。その話は後でする。それよりも天使さん、あなたの話だよ」
やっぱりあたしにはもう天使の力はないのだ。自分の力が失われたことを改めて思い知らされたあたしは、落胆しないよう気を取り直して自分の話を続けることにした。
「ええ、あたしは数日前、自分の友人を救うためだけに力を使って、人間の男性を3人も……根絶やしにしたの……うっかりだったわ。そのせいで罰を与えられ、堕天を……」
後悔はしていないとは思ったが、やはり今後を思うと気鬱は隠せない。語り終えて俯いたあたしに、アーデルハイトは意外なことを言った。
「ん~、大丈夫。天使さん、あなた堕天使にはなってないわよ」
「えっ」
「実は私、魔族とのハーフなの。父が魔族でね。だから、あなたが堕天したら気配で分かると思うもの。でも、あなたから魔族のにおいはしない。大方、お仕置きでちょっと力を取り上げられちゃっただけじゃない?」
「それはとてもうれしい慰めだけれど……そんな簡単に分かるもの?第一あたしは、あなたに魔族の血が入ってることにびっくり。確かにとっても強かったけれど、あの時魔族だなんて思いもしなかったわ」
「まぁ、父は魔族としてはちょっと変わっていたらしいから……」
どこか明言を避ける風のアーデルハイトの態度に引っ掛かりを感じたその時、あたし達の座っている席の窓ガラスを、誰かが外から激しく叩いた。
見ると、鬼のような形相の男が3人、あたしを指さして何かを叫んでいる。
「あの人たち……」あたしは目を丸くした。
「ナニナニ?あのスキンヘッズのガラの悪い兄ちゃん達、なにもん?」
「あたしが根絶やしにした……」
「え?なに?殺しちゃったんじゃなく?」
「さすがに命はとらないわよ。その代わり体中の毛という毛を根絶やしにして、金輪際はえないようにしてやったの……あんなになっちゃって、酷いことしたわ」
それを聞いたアーデルハイトはけらけらと笑い「あの様子じゃお礼参りだろうから私に任せて」と店の外に出て行った。
「お礼……?あたし何かお礼を言われるようなことしたかしら?」
きょとんとして、ガラス越しに外を見たあたしはぎょっとした。男のうちの一人がこちらに銃口を向けていたのだ。咄嗟に自分の銃に手を伸ばすが、その前に男の銃は手刀でたたき落とされた。アーデルハイトだ。
男の手首に振り下ろした手刀の威力はどれほどのものだったのだろう。銃をもっていた男は悲鳴をあげてのたうちまわっている。その後、傍らにいた男が怯んだ隙に側頭部に蹴りを入れて倒し、逃げようとした最後の一人にも後ろからしがみついて首を捻った。
あたしは息を呑んだ「以前より強く……でも、よくない戦い方だわ」
以前輝夜で見かけたアーデルハイトの戦いは、確かに見事なものであったが、どこかおざなりというか、手加減を感じられるものだった。そのせいで隙を生み、あたしの助けを必要としたのであるが、今回は全く温情と言うものを感じない。殺してはいないが、結果的に相手が死んでしまってもかまわないと思っているかのような……。
何が彼女を変えてしまったのだろう?さっき言いかけたお腹の子供の事もまだ聞いていないし、見た目が全然変わっていないことも、何か特別な事情でもあるのだろうか?あたしは、いつの間にか魔族のハーフに肩入れしている自分に気がつき、慌てて首を振った。
「ばっ……何してやがんだ!」手首を押さえた男の悲鳴で我に返ったあたしが外を見ると、なんとアーデルハイトが気を失ったほうのズボンを脱がせているではないか。
「あの子……こんな場所でなんてこと……!」
あたしが慌てて外に出ると、アーデルハイトは満足そうに男たちを見下ろしていた。手首を折られた男だけが正気で「クソっ」とか「お前ら早く起きろ!」とか悲痛な叫びを上げている。その「惨状」を見て、あたしは思わず目を覆った。
アーデルハイトは3人の男のズボンの裾を丁寧に「だんご結び」にしていたのだ。ズボンを半分ずり下ろされて、6個のお団子できれいに裾を塞がれ、何とも間抜けな格好だ。2人は未だ気を失ったままだが、目が覚めた時の事を思うと気の毒でならない。
「お、お前……そのスカしたドレス女の味方かよ!」
痛みのせいか恥ずかしさのせいか、汗びっしょりになった男があたしを指さして汚い言葉を発したけれど、あたしは気の毒そうな目で見てあげるのが精一杯だった。
「味方っていうか友達ね。銃まで出して3人がかりでなにしようとしてたのよ、ハゲ」
「うっせえ!誰のせいでこんなことになったと思ってんだよ!」
「自業自得でしょうが。すね毛がないのは確認したけど、他の場所もチェックしてやろうか?ん?」
にやにやしながら男ににじり寄っていくアーデルハイトと、咄嗟にパンツを押さえて悲鳴を上げる男。
いつの間にか野次馬が周りを取り囲み、中には面白半分に写真を撮る者まで出てきた。
あたしはせいいっぱいのしかめっ面をして首を振り、アーデルハイトに言った。
「あのもう、そのくらいで……あなたのはしたない言葉の方がよほど堪えるわ」
「このくらい言ってやらないと、このハゲまた来るよ――って、しまった!」
「ど、どうしたの?!」
突如慌てふためいて、やや古い型の携帯電話を取り出したアーデルハイトは、買い出しの途中だったのと言って、舌を出した。
「あー。マム、ごめんなさい。買い物の途中で天使を一羽拾っちゃって――嘘じゃないって。――はい、はい。すぐ戻りまぁす」
マムだの天使一羽だの、何のことかと尋ねようとしたら、一人の男がものすごく情けない悲鳴を上げた。頭を蹴られて気絶していた方だ。案外早く気がついたらしい――が、それも当然だ。彼の尻にどこからきたのか、犬ががっぷりと噛みついている。あれでは正気にならざるを得ない。
「うわっ、あのワンちゃん、何してるの!」
「あの子……私が助けた……」
中型犬サイズの白黒の犬が、鼻にしわを寄せて唸り声を発しながら、親の敵とばかりに男の尻に歯を立てている。
「えっ?えっ?じゃ、天使さんが助けたお友達って」
「あの子よ。あの3人の男が、あの子の毛をはさみで切って苛めていたから……」
アーデルハイトはぽかんとした後、笑いながら犬の方に近づき、何やら話しかけると犬を連れて戻ってきた。尻を噛まれていた男は、今更のようにズボンのお団子に気がついてさらに情けない悲鳴をあげていた。
「この子、綺麗なボーダーコリーね。こんなかわいい子いじめたんじゃ、つるっパゲも仕方なしでちゅよね~」
アーデルハイトに頭を撫ぜられた白黒の犬は、あたしを見て、嬉しそうに尻尾を振った。
「よし、じゃ、予定より多くなっちゃうけど、そろそろ行こうか」
「行くって、どこに?」
「天使さんも、ワンちゃんも、行くとこないでしょ?マムのランチでしばらく世話になると良いわ」
「ランチ?」
すたすたと先を歩くアーデルハイトを追いかけるようにして、あたしは尋ねた。ボーダーコリーは彼女にぴったりと寄り添ってついてくる。
「Ranch――牧場よ。大きい牧場で住人は多いから、一羽や一匹増えても大丈夫。私のバギーの後ろでいいかな。荷物がちょっとあるけど、うまく乗ってね」
街を抜けた先は、赤褐色の砂に覆われた荒野であった。
土埃をまきあげながら走るバギーの後部に荷物と一緒に腰掛けたあたしは、振り落とされないよう荷物を縛ったロープを掴み、単調な景色を眺めるでもなく眺めていた。ボーダーコリーはアーデルハイトにおんぶをされるような格好で器用に乗っていた。
灼熱の太陽に照らされて、おそらく雨もほとんど降らないのであろうこの土地は、どこまで行っても乾いていた。そして時折、動物の骨らしきものが落ちているのが見え、ここで生きていくことの厳しさを物語っていた。
「……いいのかなー!」
「え?」
ぼんやりしていたあたしはアーデルハイトが何か呼びかけていることに気がつかなかった。
「天使さんのこと、なんて呼べばいいのかな、って言ったのー!」
「あ、あぁ……あたしは……」
天上界では「蒼の天使」と呼ばれていたが、それはガーディアンの隊を率いるときに便宜的につけられたものだった。(もちろん「紅の天使」や「翠の天使」なんかもいる)
ただ、この地上に降りてきて、空や海の青がとても美しいことを気に入ったので、その名前を継承することにしたのだった。
「蒼の天使、それがあたしの名前よ。名乗ったのは初めてだけれど」
「あおの、てんし……んー長いからもっと呼びやすく、ブルーとかどぉ?」
肝心の天使が入ってないじゃないの……と異議を唱えようとした途端にバギーが大きく跳ね、あたしの発言は遮られてしまった。
「私のことは、これからはハイジって呼んでね」
「どうして?アーデルハイトさんでも別に長くはないと思うけれど……」
「これでも一応、休職中の公務員なのよ。これから行くランチには住み込みで雇ってもらってる形になるから、本名で働くのはまずいの。だからよ」
彼女は日本で働いていたはずだし、そもそも数十年も休職を認めてくれる機関がどこにあるというのだ、という疑問はあったが、深く詮索しないことにした。
<『ブルー』と『ハイジ』>
30分も走ったであろうか、突然変化した景色に、ブルーは声を上げた。
「これは……オアシス、ではなさそうだけれど……」
それは、赤土の乾いた平原のさきに突如現れたといっていい緑の地であった。広大な草原と放牧された家畜たち、木でできた素朴な家が数軒と、何か大きな倉庫のようなもの。映画のよくできたセットかと思うくらい、その地は周囲の様子と大きく異なる豊かな自然を持っていた。
「ハイ、到着。ここがマムのランチよ。荷物を置いたらマムたちに紹介するからちょっと待ってて。あーその間に……」
ワンちゃんの名前を決めておいて、と言い残し、ハイジはバギーを走らせて行ってしまった。
そんな急に言われても……と、おとなしく座っている犬のほうを見ると、心なしか期待に満ちた目をしているような気がして、ブルーは余計に困ってしまった。
「天界にいて名前が必要なのは上級の天使だけだったし、そもそも名づけは天使の得意分野じゃないんだけど……」
程なくバギーで戻ってきたハイジに犬の名を訊ねられ、ブルーは「テリー」だと答えた。
「なかなか男前な名前だね!センスあるよ、ブルー」とハイジはテリーの頭を撫でた。
「そ、そうかしら?」とブルーはあいまいな笑みで答えた。
(さっきハンバーガー屋でみた「テリヤキ」っていうメニューが気になったから、という理由は言わないほうがいいわね……)
再びハイジのバギーの後ろ(今度はきちんとした座席だった)に乗り、ブルーとテリーは一軒の家にたどり着いた。ハイジが中に向かって声をかけると、一人の女性が姿を見せた。
年齢は50前後といったところか、派手な顔立ちには化粧っけがなく、長いブルネットを無造作に束ね、着古されたジーンズの上に羽織ったシャツからよく日焼けした腕を見せる恰幅のいい中年女性は、自分を「ランチのマム(お母さん)」だと名乗り、右手を差し出した。
ブルーも名乗り、手を差し出すと、力いっぱい握り締め、豪快に笑った。
「ハイジに拾われた天使だなんて奇異な話だけれど、怪しい娘さんじゃなさそうだ。ここは女子供しかいない牧場だけど、気が済むまで居てくれていいからね」
「女性と、子供だけ……?」
「その辺はグランマが教えてくれるさ。さ、私は荷物を片付けてくるから、ブルーをグランマのとこに連れてっとくれ、ハイジ」
はあいと返事をして先にたって歩くハイジの背中に、ブルーはグランマとは誰なのかを訊ねた。
「ここの『面接官』かな。マムが認めた入居者のよしあしを見極めるのが、グランマ(おばあちゃん)なんだ」
「……そのあとにひいおばあちゃんと続く、ってことはないわよね?」
「ねえ、ブルーは『楽園』って知ってる?」
ハイジの唐突な問いかけにブルーはぎくりとした。「楽園」――かつて天上界が作り、無垢な人間を住まわせた地。ある大天使の失態によって潰えた、悲劇の地。それが「楽園」だ。
そして、ブルーはその失態の「後始末」の使命を負い、この地上に降りてきた。
なぜハイジはいきなりそんなことを聞くのだろう。咄嗟のことでうまく答えられないブルーを気にしない様子でハイジは続けた。
「……グランマはね『楽園の末裔』って言われてるの。昔むかしにあったそりゃもう天国みたいな素晴らしい場所でグランマは生まれたって」
間違いない、彼女の言う「楽園」は天上界のそれだ。
「そ、そのグランマと、今からあたしが……?」
「グランマには『人を視る力』があるの。どこからきて、どんな目的を持って生きているのか、とかね。だから多分、ブルーが天使だとか、でも堕天してないとか、そういうこと視てくれると思う」
自分はそのグランマとやらに会っていいものだろうか。逡巡するブルーに気づいてるのか居ないのか、ハイジは歩みを進めた。
「さ、ここよ。グランマはあっちにいるわ」
ハイジが指差した先には、一本のリンデンバウムが葉を茂らせていた。ちょうど木陰に当たる場所にロッキングチェアが置かれていて、こちらに背を向けているので顔は分からないが、そこに座っているのがどうやらグランマらしい。
がんばってね、とハイジにぽんと肩を叩かれ、ブルーは木のほうへと近づいていった。
<「楽園の末裔」>
「こんにちは……グランマさん?」
ブルーは椅子の背後からおそるおそる声をかけたが返事はない。ハイジを振り返ると、大丈夫というように手をひらひらさせたので、思い切って椅子の前に回って、グランマの顔を覗き込んだ。
「そんなに顔を近づけなくても聞こえてるよ」
「ひっ……ご、ごめんなさい」
老婆はびっくりした顔のブルーに、目の前の椅子に座るように手で示した。
ブルーは古びた木の椅子に腰掛け、まじまじと「グランマ」と呼ばれる老婆を見た。
子供くらいの背丈しかなく、背も曲がっているようだ。木陰とはいえ十分に暑い日なのに、パッチワークの施された厚手の布をマントのように羽織っていて、そこから見える手はごつごつとして皺だらけだった。
グランマはいきなりブルーを驚かせるようなことを言った。
「よくきたね。『蒼の天使』というのかい。どうやら本物の天使様らしくてびっくりしたよ」
「あ、あたしの……本当の名前をどうして」目を丸くしてブルーは訊ねた。
「聞くよりも視てしまったほうが早いからね。わたしにとって天使は、人よりも近いからよく視える」
「それじゃあ……」
「あぁ、この気配は天使そのものだよ。今はどういったわけか力を封じられているっていうのが不思議だけどねえ」
ブルーは安堵した。自分は父に見捨てられたわけではないのだ。「力」がいつどうやって戻るのかは皆目見当はつかないが、それでも希望が見えてきたように思えた。
グランマの力を信じることにしたブルーは、今までのいきさつをすべて正直に話した。
「楽園」には大天使と人間の間に生まれた子がおり、まがまがしい力を以って楽園を破壊し、天上界は楽園とともに彼らのほとんどを葬った。しかしその一部は地上に逃れ、未だに人を襲う怪物として平和を脅かしている。そして自分はそれを見つけ次第抹消するようにと命じられている、と。
グランマはちいさく笑い、わたしのことも消すのかい、と聞いたが、ブルーは寂しげに笑って首を横に振った。
「今の私には……あなたはただのおばあちゃんにしか見えないのだもの。無理だわ」
「力が戻ったら命をもらいますなんていうのはごめんだからね。わたしは確かに楽園の末裔ではあるけれど、怪物じゃあない」今度は声を出して愉快そうに笑ったグランマにつられ、ブルーも無意識のうちに笑みをこぼした。
そのあとブルーはグランマからこのランチについての話をいくつか聞いた。
まず、ここには全部で30人ほどの住人がおり、そのすべてが母親とその子供であり、大人の男は1人もいない。女や子供は、夫や父親の借金や暴力から逃れ、この地に身を寄せているのだという。酪農と民芸品を作ることで生計を立て、細々と暮らしているそうだ。
「ハイジは?……彼女についてはグランマはお分かりかと思いますけれど……」
「あの子はガードマンだね。力仕事もできるし、魔族の血が入ってるから頑丈だし、元警察官だけあってなかなか頼りになる」
「あとは……」
「ああ、お腹にいる子だね。ハイジがここにきて2年にはなるけれど、よほどお腹の中が居心地いいのか一向に出てきやしない。でも居るのは間違いないね」
20年ほど前、粉塵でハイジと初めて会ったときのことを思い出した。そのとき確か彼女は4年ほど生まれないと言っていたはずだ。ということは……。
「魔族の血が入っているとはいえ、20年近くもお腹の子が生まれないということって、あるのかしら……」
ブルーの疑問に、グランマは答えた。魔族はそもそも成長が遅い種族であり、不死といっていい寿命を持つ種さえある。現にハイジは50年以上生きているが、あのように少女のような姿だ。お腹の子の育ちが遅いというのもありえないことではない、と。
「ただね……あの子の場合は、体や種族だけの問題ではないようでねぇ」
「他に原因が?」
「母親になる本当の覚悟ができていないっていうのかねぇ。母になることを潜在的にものすごく恐れているんだよ。あの子のだんなはね、不幸なかたちで死んじまって、あの子はそれをずっと自分の責任だと枷をはめて生きているんだ……」
暴漢から彼女を救ったとき、ハイジからわずかに感じた人生に対する諦念。周囲の好奇の目がつらくて輝夜を出て行くのだと言っていたが、そこに夫の死という原因があったことをブルーは初めて知った。
「あの子が心から母親になりたいと思うときがくれば、無事に生まれるんじゃあないかね。あのままじゃあ、お腹の中で婆さんになっちまう」
だから頼んだよ、天使さん、と笑って言うグランマに、ブルーはどういう意味かと聞き返した。
「ハイジの力を見ただろう?魔族の血のせいか、とんでもないパワーを出す。ただ、あの子はまだ自分の力の限界点をみたことがないんだよ。あんな戦い方をしてたら、あの子は自分の中の化け物に食われちまう。だが、視たところあんたはそれを止められるだけの強い力を持っている」
「でも……今のあたしは……」
「あんたも、心から『天使に戻りたい』と思うときがくればいいんだろうけどねぇ」
まだ話したりなそうなブルーに向かって「今日はここまで、もちろん合格だよ」と席を立たせたグランマは、ブルーが礼を言ったときはもう目を閉じて眠っているようだった。
――天使に戻りたいと心から願う……今の自分にはその思いが足りないのだろうか。
ブルーは軽くため息をついたが、グランマという不思議な老女に己を見透かされ、助言を受けたことをひそかに面白くも感じていたのだった。
<導かれて>
グランマとの話を終えたブルーを、テリーがきちんとお座りの姿勢で待っていた。彼女に頭を撫でられると嬉しそうに尻尾を振り、先に立って歩き出した。ついて来い、ということらしい。
テリーに誘われた一軒の家の前では、ハイジが荷車に積んだ何かを運び入れているようだった。テリーが一声吼えると、ハイジはブルーが一緒に戻ってきたと気づき、家の中に手招きをした。
「ここが今日から私とブルーの家ね。今まで私1人だったんで、今ベッドとか置くところ」
そういうと、外においてある荷車からベッドを「持って」やってきた。しっかりとした木でできた大きなベッドを、まるで中身の入っていない箱でも持つように軽々と。ブルーが手伝おうと手を出したが、やはり思いのほか重く、かえってバランスが崩れて危ないからと結局ハイジが何もかもを1人で運び込んできた。
「なんだか……ごめんなさいね。お世話になることになっちゃって……」
「いいんだよ。私も1人は寂しかったし、ブルーには昔助けてもらった恩があるしね」
あ、そういえば……と、ハイジは荷をひとつ解いて、ベッドの上に何着かの服を並べた。
「そのドレス、だいぶ汚れちゃってるし、それじゃあ動きにくいから着替えたほうがいいよ。これは今までここに住んでた人が置いてった服だから、適当に選んでね」
着替えたらキッチンに来てと言い残し、ハイジは部屋を出て行った。ブルーはベッドの上の服たちを珍しそうに眺めた。
新品ではないが、綺麗に洗濯のしてあるジーンズと綿のシャツ。カラフルなTシャツ。そして、柔らかな下着……。一つひとつに手を触れながら、ブルーは思わず微笑んだ。
――自分だったら絶対に選ばない服ばかりだわ……でも、おもしろそう!
着替え終わってハイジの待つキッチンに行くと、コーヒーのいい香りがした。
Tシャツにジーンズという服装のブルーをみて、ハイジは満足そうに頷いた。
「なかなか似合うじゃん。これでもうちょっと日に焼けたら立派なカウガールだね」
「こういう格好は初めてだけれど、いいわね。ジーンズってこんな硬い生地なのに、動きやすくて」
「Levi'sは天使のお墨付き、ってわけね……で、どうだった?グランマ、何だって?」
コーヒーの入ったマグカップと、クッキーが山盛りになっている皿を差し出しながらハイジが聞いた。
ハイジの子供のことと体のことには触れずに、自分は一時的に力を封じられてるだけらしいとブルーは話した。
「そっかぁ……じゃあ、力が戻るまでここで暮らせばいいよ。私もここにいたら子供生まれるんじゃないかと思って待ってるから、一緒だね」
ハイジの口調があまりに自然だったので、虚を突かれたブルーは一瞬返答に迷ってしまった。そんなブルーを見て、ハイジは自ら話し始めた。
彼女の中に確かに子供は生きていて、あちこちの病院にいっても妊娠初期のまま成長が止まっていると診断され、原因も解決法も判明しなかった。そこで海外の医療に期待をしてアメリカにやってきたが、このテキサスでよからぬうわさを聞いたので、こうしてランチに住みながらガードマンのようなことをするようになったのだという。
「うわさ?」
「人を食べる怪物が出るの」
「怪物ですって?」
”怪物”の言葉に、ブルーは一瞬自分がこの下界に来た本当の理由を話そうかと迷ったが、ひとまずはハイジが話すのを聞くことにした。
「ここの女たちは、それを『スキュラ』って呼んでる。古い神話の怪物の名前なんだって」
「その神話、聞いたことがあるわ。確か……美しい女神だったのに、恋敵に嫉妬されて毒を盛られたせいで、下半身が醜い魔物になってしまったという……」
「ひえぇ、そうなの?女って怖っ……で、私はスキュラを見たことないんだけれど、やっぱり上半身は綺麗な女で、下半身は真っ黒な蛇だって言われてる」
ランチの端にある水場に現れ、綺麗な声で歌い、子供や男を誘って水に引き込むという。その下半身を水に漬けていると美しい女にしか見えないため、誰も怪物とは思わない……。
数年に一度、子供が水場のそばで行方が分からなくなることがあり、大人たちは子供を水場には近づけないように気をつけているということだ。
この話からすると「スキュラ」は楽園から生じた怪物ではなさそうだ。楽園の怪物はみな人型の醜い巨人であり、出現したときの被害は街が壊滅するなど相当なものになるはずだったからだ。
ブルーは心なしか安堵はしたものの、この地に出るという怪物のうわさも聞き捨てならないと思った。
不毛の地に突如現れる緑のランチ。「楽園の末裔」を名乗る老婆。そして生まれない子供を宿す、魔族の血を引く不老の女。
天上界の力は失われていても、自分がここにたどり着いたのは何かの導きではないかと、ブルーは考えた。
――だとしたら、することはひとつね。
「ねえ、ハイジ」
「ん?」
「ここに、銃を撃てるところはあるかしら?できれば射撃場のような……」
天使としての力はなくとも、下界で身につけた射撃の力はこの地を守るのに役に立つはずだと思った。そして、自分が力を取り戻す鍵もそこにあると、ブルーはおぼろげながら光明を見出した。
ハイジに案内されたのは、ランチのはずれにある古びた射撃場だった。雨ざらしのためか的を掛けた木は朽ちかけ、的は砂埃で汚れているが、試射には十分だった。
「この辺は物騒だから、銃の撃てる人用に作ったみたいだけど、今は誰も使っていないから好きにどうぞ。ただ、的の反対側に人がいないかだけ確認してね」
ブルーは緊張してBerettaを構え、的に狙いを定めた。自分が下界に来てから鍛錬した銃の腕は鈍ってはいないだろうか……そんな不安を頭から追い出し、丁寧に的を狙って撃った。
銃弾は見事に的のほぼ中央を射抜いていた。立て続けに数発撃ってみたが、それらのすべては綺麗に狙い通りの軌道を描いてくれた。
それを見てハイジは口笛を吹いた。
「前もうまいなあと思ってたけど、さすがだね」
ブルーはふうっと深く息を吐くと、的のほうを見たまま答えた。
「安心したわ。あたしの中にこの力がまだあって、ほっとした」
「怪物が出たとき頼もしいよ。よろしくね」
「ハイジは……さっきグランマが元警察官だって言ってたわ。銃は?」
私はこれ、とハイジは手のひらで拳を叩くような真似をした。
「警察官のときからどうも銃や武器は苦手で……。輝夜を出てひとり放浪するようになってからは空手、柔道、柔術、カンフー、キックボクシング……とにかく格闘技ばっかり頑張ったの」
「女性なのに……それにあなたはお腹に赤ちゃんが……」
ブルーはたしなめるように眉をひそめた。
「でもね、女が1人で生きていこうとしたら、身を守る術が必要でしょ。武器は国によって規制があるし、自分を鍛えてしまうのが手っ取り早い。それに、言葉が通じなくても戦えたら働き口に困らないもの」
そして、私にはいわゆる女の武器を使った仕事は向いてないからねえ、と自嘲的な笑みをこぼした。
そんな風に笑う彼女を見て、ブルーは、再会したときのハイジの戦い方を思い出した。
ブルーに絡んできた暴漢との戦いは、輝夜で見たときの華麗だけれどどこか危ういそれとは違い、はっきりした「目的」を持った戦い方に変わっていた。いや、はっきりした「殺意」と言ったほうがいいかも知れない。
今は平穏な毎日を過ごしているように見える彼女が、このランチにたどり着くまでにどれだけの死線をかいくぐってきたのかが想像できた。
彼女の「枷」をはずし、心から母親になりたいと願う気持ちにさせる……。
今のブルーには難問だが、その答えを見つけることを使命として、しばらくここで彼女に寄り添って暮らしていこう、とひそかに決意したのだった。
<ランチでの暮らし>
その夜は、ランチの食堂兼団欒の場となっているマムの家で、新しい住人を歓迎するささやかなパーティーが行われた。
ブルーは次々と挨拶に来る女たちが進めてくる手料理を食べるのと、やたらに人懐っこく絡んでくる子供たちの相手に最初こそ戸惑いを感じなくもなかったが、初めて密に接する人間たちに好奇心を刺激された。
――グランマの話だと、訳ありでここに住んでいる人たちばかりだということだけれど……みんなとても楽しそう。人が「幸せ」と感じることは、天上界が理想の形だと思っていたのとは多少違うようね――
ブルーのことは「ハイジの古い友人」と紹介されたが、女たちは深く詮索してくることもなく、他愛のない話で笑いあい、ふざける子供をときにはたしなめながら、賑やかなパーティーは夜遅くまで続いた。
子供たちがあくびをし始めたのをしおにお開きとなり、まだ飲み足りないと言うマムと数人の女達を残して、ブルーとハイジは家に戻って休むことにした。
「明日は子供達を送る当番じゃないし、7時に起きればいいかな」
レトロなアナログ時計のアラームをセットしながら独り言をいうハイジに、ブルーが聞いた。
「時計に、何をしてるの?」
「……ブルー、目覚まし時計知らないの?まあ、天使とか神様ってなるとそういうの要らないのかぁ、便利だね。じゃ、歯磨きしたらもう寝よう」
「……はみがき……」
「洗面所に新しいの出しておいたから使って……って、まさか、それも知らないとか?」
その後、ハイジによる歯磨きのレクチャーがしばらく続いた。歯磨き粉をチューブからじかに口に入れようとしたり、ブラシの力加減がわからなくてオエっとなったり、もうこんな苦しいことはごめんだと途中で投げ出そうとするブルーを見て、ハイジは「あなたが人間界でちゃんと生きていけるかどうか、マジで心配になったよ」と呆れながらも楽しそうに笑った。
隣同士のベッドに入り、おやすみと言ってすぐ、ハイジのベッドからは寝息が聞こえてきた。歯磨きと格闘して変に目が冴えてしまったブルーも、目を閉じてまもなく眠気がやってきた。今日は本当に色々なことがあり、人間界に降りてきてもっとも長い一日だといえた。ただ、体に感じる疲労はむしろ心地よく、思いのほか安らかな心持で、彼女もほどなく眠りに落ちていった。
それから数日の間は、ブルーはランチでのハイジの仕事ぶりを見たり、一緒に買出しに行ったり(もちろん目当てはハンバーガーの昼食だ)、ランチの住人たちとの会話を楽しんだりと平穏に過ごした。
しかし、「異変」はある朝やってきた。
目覚めたブルーは、自分の体に明らかな違和感を抱いた。起き上がろうとすると、胸の奥からなにかこみ上げてくるような気持ち悪さと、胃がきりきりと締め付けられるような痛みに、思わずうめき声を上げてしまうほどだった。
カーテンからさす光を見ると、すでにだいぶ日は高く、ハイジはランチの仕事にでてしまっているようだった。とにもかくにも、彼女にこの体の異常を知らせなくてはと、気分の悪さを圧してクローゼットまでたどりつき、着替えをしようと服を――。
ハイジが何かを持って戻ってきた時、まず真っ先に聞こえたのは、ブルーの悲痛な叫びだった。何事かと慌てて寝室に行くと、ジーンズを手にしたまま床に座って呆然としているブルーが居た。
「ど、どうしたのっ?!」
「あ、あたし……やっぱり変だわ。どうしよう……」
「何があったのよ。落ち着いて話して?」
ブルーのあまりの狼狽ぶりに、心配になったハイジが近づいて顔を覗き込むと、青ざめた顔で唇を震わせてブルーは答えた。
「……ふ、服が……着られないの!」
数分の後、ふたたび寝巻きに着替えてベッドに寝かせられたブルーは、ハイジの話をきいて今度は本格的に悲鳴をあげた。
「あ、あたしが……太ったですって?!」
「そう、それもかなり明らかにね!そりゃそうよ、ここにきて毎日あんなに食べて、運動らしい運動もしていないんだから、当たり前!」
「ハイジなんて、あたしより食べるじゃない!」
「私は動いているもの。力仕事に、牛達の世話に、買出し――そんな私と同じだけ食べたらそうなるわよ」
「なんてこと……」
ブルーは両手で顔を覆って、何かぶつぶつと唱え始めた。どうやら祈っているらしいが、そんなことで体形が戻るわけもなく、ハイジに「現実から目を逸らさない!」と一喝されてしゅんとなった。
「ま……ダイエットすればいいのよ。ここには仕事がいくらでもあるし、ブルーもそろそろ何かしてみてもいいかもね。今日はとりあえず、これを飲んで寝てて」
ハイジは持ってきた瓶からグラスに何かを注ぎ、ブルーに渡した。
「これは……ジュース?」
「そう、りんごジュース。分けてもらってきたのよ。胸焼けに効くんだから……っと、ブルーの今の体調不良はそれ、食べ過ぎたあとの胸焼けっていうやつだからね。病気じゃないから安心してね」
「……そうだったの。人間の身体って、不便ね」
ジュースを一口飲むと、りんごのさわやかな香りがして、心なしか胸のあたりの気持ち悪さが軽くなった。気分がよくなるまで何も食べずに寝ているようにと言い残すと、ハイジはふたたび出ていった。
コップいっぱいのジュースを飲み終わり、ベッドに身体を横たえたブルーは、ここ数日の生活を思い返した。
――食べれば太る。シャワーや歯磨きをしないと汚れたまま。ぶつけたところはアザになるし、走っただけで息が切れる……。人間って、本当に不便に出来ている。それなのに、天上界の住人よりも幸福そうに見えることがあるのはどうしてなの――
その答えを見つける前に、ブルーは安堵のために再び眠りに落ち、夢を見た。
食べても食べても減らないハンバーガーとドーナツと、生クリームのたっぷりのったカフェラテを存分に堪能する夢だった。「もう気持ち悪くないから食べてもいいでしょ?」という天使にあるまじき寝言を聞く人は、幸運にも誰もいなかった。
<天界に住むもの、地底に潜むもの>
翌日、すっかり体調をよくしたブルーは、ハイジに案内されてランチの仕事をいくつか見て回った。
炊事、洗濯、掃除は、子供が幼いためにランチにいなければいけない女性がおこない、酪農はマムを筆頭とする体力自慢の女性が、民芸品を作って売るのは子供が学校に行っていて行動が自由になる女性が受け持っていた。もちろん、子供達も学校から戻れば色々と手伝うことがある。ブルーが助けたあのテリーでさえ、放牧地の牛達を見張る仕事を(ボーダーコリーの本職は羊を見張ることだが)嬉々としてこなしていた。
皆、忙しくも楽しそうに働き、ランチはそれほど豊かでないまでも笑い声の絶えない、まさに砂漠のオアシスのような集落といえた。
「どう?ブルー、なにかできそうなことあった?」
「……恥ずかしいけれど、今まで人間界のこういうこと、全然してこなかったから分からないわ」
「だと思った……。ブルーの腕ならガードマンも出来るだろうけど『定職』はほしいよね。ねね、逆にさ、天上界ではなにしてたの?」
ガーディアンとして、命ぜられるままに戦う日々でしたというのは憚られたので、それは伏せて説明することにした。
「ええと、天上界の仕事は、この世界を平和に保つことだったから――そういうコトがないときは、歌を歌ったり、音楽を奏でたり、天上界の動物達と遊んだり」
「仕事ですらない……」
「そ、そうよね……」
まったく、天上界ではガーディアンの一団を率いていた自分が、下界に行くとこんなにも役立たずだったなんて……。ブルーは情けなさすら感じた。
「――いたの?」
「え?」
「天上界にはどういう動物がいたの、って聞いたの」
「あ、あぁ……そうね。動物は基本なんでもいるのだけど、特に人とのつながりのある動物は、みな死ぬと天界に来るわ。犬が一番多くて、次は馬かしら……」
「へぇ……ネコじゃないんだ?」
「ネコは、どういうわけか下界でも無条件で愛されるし、ネズミがいるぶん天上界よりよほど楽しいからって、すぐに転生しちゃうわね」
「なるほど、納得。――っと、じゃ、ブルーの仕事はココで決まりね」
ハイジに連れて来られたのはランチの片隅にある厩舎だった。
「ここは……」
「ここには馬が2頭だけいるの。1頭はマムがランチを移動する時に乗ってるけど、もう1頭は乗ってた人が出て行っちゃって。マムが1人で世話をしてるんだけど色々と忙しいから、ブルー、馬たちの世話をしたらいいんじゃない?」
厩舎の中は家畜独特のにおいはするものの、清潔に保たれ、手入れの行き届いた2頭の馬には新鮮な飼葉と水が与えられており、マム1人でランチ運営の傍らにここまでの世話をと思うと、頭が下がる思いだった。もちろん、天上界で見慣れた馬の愛らしさを好むブルーは、これをランチでの自分の「定職」としてやっていこうと決心した。
ただ、ブルーの決心も初っ端からくじかれそうになった。ハイジに馬たちの名前を聞いたところ、マムが乗っている栗毛の馬が「ラファエル」、ラファエルより一回りほど小さく、乗り手のいない白馬が「ガブリエル」だというではないか。自分よりもはるか高位の天使の名がついてるだなんて、とてもじゃないが軽々しく乗ったり出来ないとブルーがぼやくと、ハイジは「だったら好きなあだ名で呼べばいい、ガブちゃんとか」と笑うだけだった。
――やれやれ……。もし天使の力を取り戻せたとしても、高位の天使をあだ名で呼んだことが知られたら天上界に戻れないんじゃないかしら。
ブルーは苦笑いし、肩で大きくため息をついた。と、同時に、2頭の馬もぶるるんと鼻息を鳴らした。「ほら、馬たちもそれでいいですよって言ってるみたいよ」とハイジはまた笑った。
そして1週間もする頃には、「ガブちゃん、行くわよ!」と威勢よく叫びながら、白馬にまたがってランチ内を闊歩するブルーの姿が見られるのだった。乗馬と馬の世話がよかったのか、以前と同じかそれ以上に軽い身体を取り戻せたことも彼女を機嫌よくさせていた。
朝はハイジと一緒に起き、その日着る服をああだこうだと選び、馬たちに軽く運動をさせ、皆と賑やかな朝食を取り、昼まではたっぷり仕事をこなし、たまには大好きなハンバーガーを食べに行き、子供達が学校から戻るまでは読書や昼寝やランチの散歩、そして夕方馬たちを厩舎に戻して、一日が終わる――。
夜、床に就くとブルーはいつも考える。
何不自由のない天上界にいたときよりも、今の暮らしの方がよほど「幸福」なのは何故なのか、と。確かに天上界にいれば飢えることも疲れることも不潔になることもない。下界にいると、食べなければ働けない、疲れれば心まですさみ、手入れを怠ればすぐあちこちが汚れる。とても不自由なことだ。ただ、彼女はそんな暮らしを決して恵まれてないとは思えないのである。
――うーん……毎日考えてはいるんだけど、こればっかりはまだまだ正解にたどり着けそうもないわね。
いつもならこのあたりで心地よく眠りに落ちるところであった。
しかし、この日の眠りは、住人の女の悲鳴によって妨げられた。
狂ったような女の叫び声に、同じ部屋で寝ていたハイジもがばりと起き、窓を開けてどうしたのかと訊ねた。
「子供が――リケが――……スキュラに囚われたのよぉっ!!!!」
「スキュラ」――ランチの端にある水場に潜むという女の魔物の名前だ。
ハイジも目で頷き、急いで着替えた二人は、ハイジのバギーで水場へと向かった。
外灯などあるはずもなく、夜は月明かりだけが頼りの広大な土地を、ハイジはバギーのライトだけで器用に運転した。ブルーはBerettaの装填を確かめ、ガンベルトにしっかりと収めた。スキュラと呼ばれる魔物は一体どんなものなのか、天使の力を失ったままの自分で抗し得るのか、様々な疑念は頭から追い払い、ブルーはただひたすらに子供の無事を祈った。
「着いたよ、ブルー、準備して」
たっぷり10分も走ったところでバギーを停めてハイジが告げた。ブルーはベルトからBerettaを抜き、安全装置が外れているのを確かめて両手で構えた。水場の周りは緩やかなすり鉢状になっており、バギーのライトでは水面を照らすことが出来なかった。折悪しく月には雲がかかり、あたりは自分の手さえ見るのも覚束ないほどの闇に包まれた。
「――ハイジ、どうするつもり?手探りでも降りてみる?」
聞いては見たものの、敵の姿も、ましてや子供がこの水場にいるのかもわからない状態で降りていくのは無謀に思えた。
「いた……!リケだ!私行くから、ブルーは援護お願い!」
「あなた見えてるの?でも、援護と言っても……私には何も見えないのよ?!」
「リケ以外、何撃ってもいいから!それがたとえ私でも」
ハイジは斜面をすべるようにすり鉢の底へと進んでいった。リケ!という叫び声と、水に飛び込む音がしたが、ブルーには何が起きてるのかさっぱり分からない。
――魔族の血を引いたハイジだから、この暗闇でも見えるのね。もちろんあたしも、力があるときは見えていたけれど、今は本当に役立たずね……。
ついぞ忘れかけていた、自分の失われた力のことが頭をよぎり、ブルーは一瞬気鬱になりかけたが、雲が晴れ、月明かりがあたりを照らすとブルーにも水場の全容が見えた。びしょぬれになったハイジが、ぐったりした子供を抱えて岸に上がってくるところで、ハイジの表情からすると、どうやら息はあるようだった。
「リケも、ハイジも大丈夫なの?」
「大丈夫!水場でぼーっと立ってるとこを捕まえたから!ブルー、バギーの荷台から毛布を――」
「――ハイジ!!!」
激しい水音とともに、子供を抱えたハイジの背後から何物かが突如現れた。ブルーの叫びと水音で事態を察したハイジは、振り返ることなく猛スピードですり鉢の底から駆け上がり、子供を少し離れた柔らかな茂みに寝かせた。その間、ブルーは銃口をその何物かに向けて警戒をしたが、水から上がってくる気配は感じられなかった。
「――あれが……スキュラ……」息を荒げたハイジがつぶやくように言った。
「なんて、禍々しいのかしら……」
上半身は美しい女、下半身は黒蛇、という伝承のあるスキュラだが、今対峙しているそれの上半身は長い髪と体つきで女であることは分かるものの、肌は蛇のうろこに覆われ、目は赤く光り、口は耳まで裂けている。その不気味な容姿に、ブルーもハイジも息を呑んだ。
この魔物に銃弾は効くのか、弱点はどこか、どういう作戦が有効か、何も知らないも同然で挑むのは無謀ではないのか……。ブルーは一瞬のうちに考えをめぐらせたが、もちろんベストの答えなど見出せるはずもなく、焦りと緊張でBerettaを握る手が汗ばむのを感じた。
「援護を」
「えっ?」
「こいつ、ここで殺さないと……」
「ちょっと、ハイジ……っ!」
叫び声とともに、ハイジは再び水場へと駆け出し――いや、正確にはたった数歩の助走で水場へと跳躍し――スキュラに食らいついていった。髪の毛を掴むと、そのまま力任せに魔物を引き倒し、顔面に膝蹴りを叩き込んだ。人間相手だったらひとたまりもない攻撃をためらいなく繰り出すハイジの表情は怒りに燃えているかと思いきや、そこに何の感情も見出すことは出来なかった。ただ機械的に相手の急所を的確に攻め、死に至らしめる――ブルーはハイジとの再会のときに抱いた違和感の正体を知った。
ハイジの内には、誰かの命を奪うという目的のためだけに研ぎ澄まされた刃がある。一切の温情も躊躇もなくその刃を振り下ろす時、彼女自身も傷つき、グランマの言っていた「自分の中の魔物に食われ」ているのだろう。
そんなハイジを見て、ブルーが感じたものは、恐怖だった。スキュラとハイジ、どっちが本当の魔物なのか、ブルーには区別を付けることさえ困難なように思えた。銃口を向けてはみたものの、自分が狙うべきはどちらなのか、頭では分かっていても天使としての本能が彼女を混乱させた。
ハイジが援護を求める声と、胸の悪くなるようなスキュラのおぞましい咆哮で我に返ったブルーは、スキュラの下半身に向けて数発、銃弾を放った。何発か命中したらしい音がし、今度は耳がおかしくなるような悲鳴を聞いた――その次の瞬間、スキュラは蛇の身体を立ち上げるようにし、上半身をめちゃくちゃに振るわせた。その勢いに負けたハイジは岸辺まで振り飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「ハイジっ!」
ブルーがハイジの元へ駆け寄ると、すでに水辺にはスキュラの姿はなく、揺れる水面とそこに漂う体液らしきものだけが残されていた。ハイジはうめき声を上げて身体を起こしたが、自らの力で立ち上がることも出来ない様子だった。
程なくして、ランチから小型のトラックに乗ったマムと数名の女がやって来、子供とブルーたちの無事を認めると歓声を上げて喜んだ。マムは倒れたままのハイジを毛布にくるみ、トラックの荷台に寝かせると、ブルーに付き添うように言った。女達に目配せをしたところを見ると、話したいことがあるようだ。
トラックの座席には、運転する女と、まだぐったりしているリケ、彼を抱きかかえる母親のノーラの3人が乗り、他の女はハイジのバギーを運転して一足先にランチへ報告に向かった。荷台に寝かされたハイジはどういうわけかすうすうと安らかな寝息を立てており、マムとブルーは彼女を気にせずに話をすることが出来た。
「あんたは、ハイジがべらぼうに強い子だっていうのは知ってるんだよね」
「ええ……何度か戦うところを見たわ。でも……」
「でも?」
「……なんというか、さっきスキュラを相手にしていたときは――」
ブルーはこめかみに手を添え、慎重に言葉を選んだ。
「あれは、戦いなんかじゃない。如何に相手の命を奪うか、ただそれだけの」
――殺戮だ、という言葉は飲み込んだ。
彼女の言わんとすることを察したらしきマムは、しばらく天を仰いで、一息ついてから話し始めた。
「ハイジは自分を魔族の混血だというが、ありゃ嘘だね。彼女の血のほとんどは人間だ。そして、彼女に混ざってる血は――ブルー、あんたと同じ天使だよ」
ブルーは驚きのあまり、自分でも信じられないくらいの強い口調で否定した。
「天使と人間が混血ですって?ありえないわ、そんなこと!」
「ハハン、天使様は人ごときと交わりません、ってことかい?」
「違うわ!私達天使にとって、それはしてはならないことなのよ?父が生み出した人と交わることは何よりも重い禁忌のはず――」
「どしたんだい?」言いよどんだブルーに、マムが訊ねた。
「あ……いえ、私の気のせい。なんでもない――」
ブルーのなかには、はるか昔、自分がまだガーディアンになって間もない頃の「ある記憶」が蘇っていた。
自分が隊を率いた初めての使命として、禁忌を犯した高位の天使を罰する令が下されたのだ。結果、彼女が手を下して堕天したその天使は、その後も天上界から送られた追っ手を逃れ、未だこの下界のどこかで生きているという。
しかし、彼であるはずがない。彼が人と交わって生まれたものは全て怪物となったではないか。いくらハイジが強いからと言って、あの怪物とは似ても似つかない。
「天上界には堕天の例も少なからずあるわ。そしてそのまま魔族になった者もいるというし――天使と魔族は対極にあるようでとても近い存在でもあるから、ハイジもきっと……」
ブルーは自らを納得させるかのように言い、マムもそれには答えず、そっとハイジの髪を撫ぜた。
遠くにランチの灯りが見え、ブルーは安堵とともに急に疲労を覚えた。
――今夜は何も考えずに眠ろう。そして、ハイジが目覚めたら彼女と話さなくちゃ……。
中編に続きます。