ちょっとした気付きの話
私は、所謂怪談というものが滅法好きだ。
思い返すに、幼少の頃は全く真逆の、お化けだ幽霊だと揶揄される度に大泣きするような純粋無垢なお子だった。
……だった筈だ。
お化け屋敷も、足を運んだのはただの一回。
それも、先行する友人の服の裾をしっかと握り締め、瞼も抜き身の真剣を挟んで止められるのではないかと思うくらいに……例えが分かりにくい。
基、死んだアサリの如く閉じたままだったと記憶している。
どこかのタイミングで頭を強かに打ったか、或いは天狗に攫われたのか。
この辺の件は、この後何の話をしようかと思案する時間を作る、ただの枕だから気にする必要はない。
そういう訳で、下手の横好きとばかりに、今では無作為に怪談の類を蒐集してはリスト化し、時には友人知人に披露しては楽しんでいる。
そんな中で、時たま聞かれるのは、所謂体験談というものだ。
これが一番難儀する。
何せ私に霊感などといったものが皆無だからだ。
何も見たこともない。
背筋がゾクッとするなんてことも、凡そ霊の予兆のようなものも一切感じた記憶がない。
故に、そのリクエストには華麗にスルー、とっておきのコレクションを以て応じたい。
ただ。
ただだ。
怪談蒐集家の端くれとして、それもそれで寂しくもある。
些か沽券に関わる、気もする。
なので、実はそういう時用に、ちゃんと幾つか体験談めいたものもストックしている。
なんだ、結局心霊に遭遇しているんじゃないかと呆れられるだろうが、別に嘘は言っていない。
百聞は一見にしかず。
否、百聞は一聴にしかず。
まずは一席。
幽霊も怪異もない、ただ少々奇妙で、少しだけ脳の隅にこびり付くような、そんな禄でもない話をしていこう。
尚、以上は適当にそれっぽく見える様に体裁を整えただけの文章であり、意味は何もない。
だから、ただの枕だ気にするなと言っただろ?
私の自宅は、最寄り駅から徒歩15分。
丘の上にある、閑静な住宅街の一角にある。
繁華街とは真逆のエリアで、駅の出口からスーパーを1軒、牛丼屋を1軒、そしてコンビニを2軒……目は車道拡張計画の煽りで建物ごと消滅してしまい、これまた1軒。
ランドマークと言えなくもないそれらを通り抜け、食べるラー油のキャッチフレーズ程度の急な坂道を上る、特に変哲もない帰路だ。
随分と昔の話だ。
季節も冬ではない、くらいにしか覚えていないが、日は差していた。
当時勤めてた早朝からのバイトの帰り、前述のランドマークでいう所の、消滅したコンビニから数分直進した辺り。
あとは自宅に戻って寝床に入るだけの気力だけを残して、重い足を引き摺る。
ここまで来れば、あとはまっすぐ、上り坂までざっと200メートルというところだ。
その時は何を考えていたんだったか、まあ、何も考えていなかったろう。
そうして、坂に挑む猶予期間が残り半分程度になった所で、唐突に喧噪が耳を突いた。
あるアパートで人だかりができていた。
周囲のそれ等と同様に、ごく有り触れた木造アパート。
車道を隔てた向こう側には、見るからに野次馬といった見物人が数人。
そして、アパートの下には10人程度の男たちがいたが、こっちの素性も遠目からでもすぐに分かった。
制服姿の警官。
狭い車道にはパトカーが数台、縁石沿いに並んでいる。
何か事件でもあったか。
怪訝に思いながらも変わらぬ歩幅でその場に近付く。
正直好奇心もあったが、その辺は危うきに近寄らずの精神が勝る……とはいえ、避けようにも他に迂回する術もない一本道だ。
不本意ながらもどんどん危うきとの距離を縮めると共に、私の眉間にも皺が寄る。
やがて、その人だかりの中に私の身も同化し、程なく向こう側へと抜けた。
そう。それだけだ。
当然だろう。
こちらは端から関わりたくない。
そして、向こうさんも徹頭徹尾こちらに感心はない。
立ち止まらないし、呼び止めないなら、大体はこうなる。
話はそれだけ。
アパートの短い辺を抜けるまでの十数歩。
掛けてもこれまた十数秒の間、人の目のほとんどが一点を見詰め、何気なくその視線の先を辿った所に。二階の角部屋から矢張り制服警官が数人、何やら異様に長太い寝袋のようなものを、重そうに運び出していた……ように見えたが、気のせいかも知れない。
話はそれだけ、と言ったが、本筋はここから、とも言える。
この、気のせいかも知れない、というものがなんとも厄介な存在になってきた。
断定も否定もできず、各々重要なファクターを未来永劫喪失したまま、宙ぶらりんに頭の片隅に常駐するわけだ。
「ヤベェもん見ちまった」
なら貰い事故みたいなものだと諦めもつくし、どんなにショックを受けたとして時間の経過と共に折り合いを付けていけるだろう。
だが、現実は、
「ヤベェもん見ちまったかも知れない」
更に言うと
「その場の状況から十中八九ヤベェもん見ちまっているが、決め手になる部分を流してしまったからワンチャン気のせいかも知れない」
この「気のせいなのかも知れない」に、時として不安を覚え、またある時は心の縁となる。
災いにして、私は前者一点買いの、少々神経の細い部類の人間である。
まあ、あれこれと余計な話が付いてしまったが、要するにこの一言に尽きる。
―その日から、あのアパートを見上げることができなくなっていた―
先にも述べた通り、あの道は自宅と最寄り駅とを繋ぐ唯一の手段だ。
どうしても避けることができない。
翌朝、早朝7時の仕事に向かうべく、いつものこの道を進む。
アパートから路地を進み、切れ間の先は既に例の坂道になる。
そこを気持ち大股で下りながら、遠目に目的地の最寄り駅を眼下に捉える。
坂を歩き切ると、コンビニ(当時)までの200メートルを只管直進するだけだ。
毎日使っている、日常風景を進むだけのルーティン。
ある程度目算で半分を少し超えたくらい、120メートル程度を歩いたところで、見慣れたアパートの前に辿り着いた。
昨日まではそんな特徴のない家路の背景だった筈なのに、この日は異様なまでの存在感を放ち、私は後ろ首にズキンとした鈍痛を覚えた。
心持乱れた呼吸をそのままに、視線を一組のスニーカーがアスファルトを交互に踏んでいく様を追わせることに終始する羽目になる。
そうして、言いようのない緊張感と忌避の念で重くなった身体を動かして……ものの十数秒後にはまたケロリとルーティンに戻った。
毎日毎日朝と夕方、取るに足らない日常の中に出現した異物を嫌が応でも意識させられる。
毎日毎日、毎日毎日。
これで徐々に精神が摩耗し、遂には発狂……とはならなかった。
少し大仰に盛った感が否めないが、実際のところ、なんか嫌だな程度の、犬の糞が定位置に必ずポップしているような、うんざりなんて言葉が妥当か。
うんだけに。
気が滅入るが、それだけだ。
それでも多少は影響が出るらしく、これは言うなれば、防衛本能の類なのか。
数日こんなことを続けていると、いつしか憂鬱エリアに突入する際、その直前に周囲からの予兆を感じ取るようになっていた。
例えば、最寄り駅方面から坂道までの一本道に至る場合には、袋小路になっている小道を2本、それから道向こうのコインパーキングを横目に一瞥すると。
翻り自宅側からであれば、坂を下りて自販機を2台通過し、かつて個人商店だった形跡と郵便ポストの先十数歩。
気が付けば、変哲のない風景が、隈なく情報を備えた記号の塊になっていたのだ。
その間を、ただただ嫌な気持ちになりながら通過していく。
ネットは広大だ、などとこんなショボい話に立派な名フレーズを使うのは憚られる限りではあるが、私にはこの手の情報に特化したデータベースに心当たりがあった。
まあ、例の製作者の先祖だかの名前を冠するアレだ。
昔からの住宅街だ、当たり前のように周囲にマーキングされた物件が散見される。
そこを一つ一つクリックしていくと、大半は自然死と事故死、そして予想以上に少ない自殺。
考えてみれば、首吊りなり風呂場で手首を描き切るなりなどという行為が、そこまで頻繁に行わるものではないのは自明。
少なくとも前者を超える訳ではないはず。
表面上では、とか、氷山の一角、とか、含み笑いと共に宣うのは高校生か、精々デビュー失敗の大学生までということは各々自覚していただきたい。
そして、その中には該当の物件は入っていなかった。
自宅アパートのすぐ近所に「心理的瑕疵あり」という謎の記載を見付け、別の意味で恐怖を覚えたが。
こうして、何の解決も、落としどころさえ見いだせないままに、私の自宅周囲は得体の知れないものに浸食されていく。
間もなく最寄り駅前のバイトをクビになったのを契機に、一つ前の駅から迂回するようになり、そこの商店街が使い勝手に定評があるとかで、利用する内すっかり生活圏をシフトしてしまった。
何が言いたいか。
これが所謂「結界」の原理なのではないかと、最近になって思い始めている。
中に閉じ込めたり、外部からの侵入を防ぐ物理的な障壁だったりという、漫画やアニメで非常に映える効果ではなく、心理的、物理的にその場所を避ける、そもそもそこに足を運ばなくするという類の方。
或いは、これも一種の「呪い」なのか。
これ以上は言葉遊びになってしまうが、この「気のせいかも知れない」という不安定さが骨身に染み込んだ結果、本能的にその場所を忌避するようになる。
この話では顕著にそれが出ているが、誰もが大なり小なり程度の違いはあれ、思い当たるフシはあるのではないか。
あってくれお願いだ。
そうでなくては、一人で怖がっている私が可哀そうすぎる、いや怖くないが。
あるを前提にして、巷で特別視、神聖視されている事象は、案外身近な所から発生したものなのかも知れない。
時を経て、現在。
件の道は拡張工事の余波で軒並み取り壊しや建て替えが行われ、すっかり風通しが良くなった。
駅前の再開発も進んで、この度めでたく推しのファストフード店が降臨なされた。
何かの拍子に店舗検索を眺めて漸く存在に気付くとは、ほとほと彼の地の変貌に興味がなかったのだろう。
見付けた瞬間、スマホと財布を鞄に詰め、一目散に部屋の扉を開け外に飛び出した。
やや駆け足で坂を下り、自販機を尻目にボロボロ具合に磨きのかかった商店跡をすり抜ける。
そうして、ふと、立ち止まる。
かつて何かがあったであろう、不自然に四角い空き地。
言いようのない違和感に苛まれるが、一呼吸してすぐまた目的地へと駆け出した。
あの何もない、一辺数メートルの空き地を過ぎるまでの間、終ぞ視線を上に向けることはなかった。