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慌てて帰ると、ハンナが部屋の前まで様子を見に来てくれていた所だった。
「あぁ、よかった。御無事だったんですね。私心配で…」
「ありがとう。今日は特に何もなかったわ。フレイヤ様は?」
「それが…実はお部屋の前に……」
顔を曇らせたハンナが言うには、午後のお茶を取りに出た際に、部屋の前に動物の死骸が置かれていたのに気づいたという。幸いにしてフレイヤ様が目にする前に片づけることができたものの、そこからは、口にするものに触れるのは自国の人間に限定し、毒見を徹底するなど警戒を強化しているという。
「セオドア様の家令のクラース様にはご相談したのですが…」
家令のクラースさんは、私も到着したその日にご挨拶させていただいた。穏やかそうな老紳士で、背筋のピッと伸びた、矍鑠とした人物である。オーエンス伯爵家の家令であるブラウンとは大違い…もとい、大変安心感のある人物だ。彼は、セオドア様のハンナ・カーメルへの遊学には同行せず、こちらの国に残って、国家間の連絡などこまごまとした雑事を処理していたらしい。今回のフレイヤ様の視察も、セオドア様の指示を受け諸々の手配をしてくださったのはクラースさんだということだった。
「そう、セオドア様の信も厚い方みたいだし…クラース様が何とかしてくれるといいのだけど」
「はい。食事の件は、気になるようなら、別の厨房で作らせると」
「それは良かった。食べ物が安心できないのは困るものね」
ひしひしと感じる悪意にさらされ続けるというのはしんどい。
それに、城下町で広まっている噂も気になる…。火のないところに煙は立たないというし、誰かが、故意に煽っている可能性が高い。フレイヤ様の婚約者就任を良く思わない人物はいったい誰かしら…。
「今は大人しくお部屋で、セオドア様にお渡しする刺繍の図案を考えていらっしゃいます」
「そう、よかったわ」
「寂しがっておいででしたよ。体調不良なら仕方ないとおっしゃっていましたが…」
私は少し気まずい気持ちで目を逸らす。これで、街に降りていたとばれたら……。
そっと、抱えた包みを背中に隠す。
「あの、夕食はご一緒しましょうと伝えてくれるかしら」
ハンナはにっこり笑って了解してくれた。
◆
「オリビア先生、もう大丈夫ですか?」
「えぇ。心配おかけしてごめんなさい。 午後にゆっくりと休んだのでもう大丈夫です」
フレイヤ様の労りの視線を居た堪れない気持ちで受けながら、なんとか笑顔を作った。
「ハンナに聞きました。セオドア様にお渡しする刺繍の図案を考えられたとか」
「はい。アルストリアの紋章を刺繍しようかと…。紋章なら、図案もお手本がたくさんありますから」
「あぁ、良いですね」
恥ずかしそうに笑う彼女に、にっこり微笑む。私は、今日手に入れたタイピンとカフスのセットに合わせて植物の図案にしようかしら。何だか私の作るものなんて蛇足な気がするけれど、フレイヤ様も苦手なことを頑張るって言っているのだから、教師役の私が逃げたらダメよね……。
「明日からは、午前中に一緒に刺繍を刺しましょうね」
フレイヤ様は嬉しそうに何度も頷いてくれた。
何が危険か分からない以上、しばらく外に出るのは控えたい。
視察の予定はいくつか入っているものの、このまま実行するかは、クラースさんに文をお渡しして、セオドア様に相談した方が良いだろう。
あまり不確かな状態でお伝えするのは良くないが、自衛のためにもフレイヤ様に現状をお伝えする必要があるだろう。どのタイミングで、どう伝えるのがいいのか…私は自分の部屋への帰り道人知れず大きなため息をこぼす。あぁ、折角の視察旅行が。全く気が重い。
◆
部屋に戻ると、クラースさんが待っていた。私の姿を見て、慇懃に頭を下げる。
ただでさえ頭が痛かったのに、さらに眩暈がしそうだ。だって、クラースさんがわざわざ来ると言うことは、呼び出したのは……。
「夜分遅くに申し訳ございません。ご令嬢をお招きするのに相応しい時間ではないのですが、主がお待ちです」
案の定、セオドア様からの呼び出しだった。




