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正体  作者: ホソチヂレメンノビタ
9/9

実存

気になることは調べるに限る。

量子の父親が物理学者なら、量子がこれから進む道に必ず絡んでくるはずだ。

量子は宿禰すくね(母)の手帳を盗み見て、千歳烏山にある見覚えのない総合病院の院名を探り当てた。

昨日、進路相談の通知がポストに入っていた。

口実としては十分だろう。


量子「石原敏生という人がこちらに入院してると思うんですが」


事務員は顔を上げ、


受付「ご面会ですか?こちらにご記入をお願いします」


とカウンターのトレーにある書面を示す。

面会申請書に書き込んで差し出すと、ややあって受付番号で呼び戻された。


受付「あの、ご家族の方ですよね」


量子「はい。娘です」


受付「変ですね。ご家族なら何らかの形でお知らせするはずですが。

石原さんはもう大分前に退院されて、今はこちらにはいらっしゃいませんよ」


量子「そうなんですね。いえ、母親が父のことをずっと隠していたもので、

私は父がこちらに入院していたのも、つい先日知ったんです」


受付「そうでしたか。退院後のお住まいなどは、

個人情報ですのでご家族でもお教えできないんです。

申し訳ありませんが」


量子「いえ、いいんです。元の住所が分かってるので訪ねてみます」





宿禰「どうして会いたいの」


母は忌々し気に手元から目を上げた。


宿禰「十七年間、一度も向こうから顔を出さない人だよ。

どうせ子どもがいることも忘れてるよ」


量子「そうかもね」


宿禰「量子。あんた、お母さんじゃ不満なの」


量子「そういうことは関係ないよ。だけど物理学者でしょ。

私、進学したいと思ってるの。

相談に乗ってもらうのは有りだと思う」


宿禰「なんですって、本気なの?

確かに母さんは量子を大学に行かせるほど裕福じゃないけど…。

嫌だわ、みっともない」


量子「何がみっともないの?父親なら、面倒をみる義務はあるでしょ。

自分だって親に大学へ行かせてもらったんだから」


宿禰「あの人は神経が細いんだよ。

余計な負担をかけようなんて、よくそんなこと…」


量子「一人前の大人でしょ。

女房と子どもを放置してただけでも、気に病んで不思議はないよ」


宿禰「そんな心構えで行くんなら、絶対に許可できない。

せめて、あの人に決して無理を言わないと、ここで約束してちょうだい」


量子「お母さん。私、推薦取れるかもしれない。

x0ウイルスで出席日数の条件の調整があったから。

でも、それにはお父さんの力が必要なの」


宿禰「ああ…本当にあんたって子は」


母は眉間に刻み込まれそうなほど深い皺を寄せて、目を固く閉じた。

身体が弱くて散々気苦労をかけてきたことは承知している。

だが自分の将来にはっきりとしたヴィジョンが見えている今、頭を下げてでも協力を求めなければ、必ず後悔することになる。

しばらくの間、母は黙って考えていた。

量子は厳しい母の表情に変化が現れるのを待った。

母は心を決めたように静かに椅子を引いて、書類の引き出しへ歩いて行った。

戻ってくると、封筒と印鑑を机に差し出した。


宿禰「お父さんの実家の住所。これで戸籍を調べれば、今の住所もわかるはずよ」


何故か目に涙が溢れ出し、受け取ることもできず量子は何度も鼻をかんだ。


宿禰「お父さんもお母さんも、あんたに沢山我慢させてきたね。ごめんね」


普段、無表情な母も、この時ばかりは泣きじゃくった。

果たしてそうだっただろうか。

この静かな母との暮らしが、我慢ばかりの連続だったという認識は量子にはなかった。






量子は早朝に公園を散歩する。

人気が無くて、新しく発表された学説などを、社会的な意義に置き換えて考えたりするのに打って付けだ。

早朝独特の新鮮な空気は、夜は日中より車の往来が少ないというのもあるが、大半は降り注ぐ朝日と、植物から蒸発する朝露が作り出している。

量子がそう思うのは、この神々しい現象は、曇った日には左程感じられないからだ。

ベンチにも朝露が降りている。

タオルで拭いて、小鳥のさえずりを聴きながら、森のような公園の東側を見渡す。

晴れた朝は、水筒の熱いお茶をお供に、握ってきた梅干しおぎにりを頬張るのが格別なのだ。

目を細めると、黒ジャージのジョギング男が、一定のペースでこちらへ走ってくる。

しばらく見ていると、それが担任の芦原であるのがわかった。

芦原は量子の前で止まり、汗を拭った。


量子「先生」


芦原「来ちゃった。この前、お母さんから聞いたんだ。三者面談のことで電話した時」


量子「先生も食べる?」


芦原「お前の朝ご飯だろ。推薦のこと相談してみたのか」


量子「広いのに、よく見付けられたよね」


芦原「通ったよ。土日だけだけど」


量子「思うんだけど、先生って職業、ちょっと馬っぽいよね」


芦原「どうゆう意味だよ」


量子「違う生き物みたい。もう、走る能力が」


芦原「走る?何のこと?」


量子「調教させてやってるんだぞって感じなの」


芦原「わかんねえな。言ってることちょっと失礼だし」


量子「お父さんに会ったんだ。初めて会ったの」


芦原「へえ」


量子「進学は大丈夫だって。お父さんも一応生きてたし。

変な話、今までのこと全部、この欠片が見つからない感じ、

この人だったな、って。そんな手応えがあったの」


芦原「おう、そうか。よかったな」


量子「うん。会ってよかった。ただ、先生の方がずっとお父さんぽいよ」


芦原「ふうん」


量子「いいなあ。先生、いつかお父さんになるもん。狡いよね」


芦原「は、何が?」


量子「…何でもない。ただのやきもち」


芦原「や、やきもち?」


量子「そういう意味じゃないよ。

先生みたいなお父さんだったら、子どもは安泰だなってこと」


芦原「ああ…。じゃあ今度、お母さん紹介してくれ」



量子「別にお父さんが欲しかったわけではないの。

父は、会ってみたら想定していたのとは違ったけど」


量子はおにぎりにかぶりつく。


量子「考えてみれば、うちは母親だって母親らしくないし、

父親も父親らしくなくてちょうどいいんだよ。

二人の間には、そもそも父性とか母性の魅力とは、違う点で惹かれ合う関係があった。

想像できるの。

ずっと離れてるけど、やっぱり二人揃ってやっと、お母さんも人間らしい感じがした。

父性と母性だけが人間性ではないし、

男女関係といっても性的な役割に限った関係ではないんだよね。

お互いに人間性を感じてるとき、

『性』っていうのはむしろ、視野から除外する情報になる。

私が集団の中で、ずっと一緒にいられたらいいなと思うときは、

私が女だってこと、他の人が全く意識しなければいいなと、願ってるんだよね。

父親でなくても母親でなくても、子どもでなくても老人でなくても、

人恋しい情動は私にもある。

むしろ他の人に性を求めてない分、人恋しさは余計に強くなるよ。

私は女の子じゃない、お願い、あなたも男の子なこと、今は忘れて!っていう感じなの。

まともとか、成熟してないからだとか、

それは人が勝手に思うことで、実存に勝る観点ではないんだよ。

もしも誰かが遭難したとして、

最初に遭遇した人がどういう属性であれ『助かった』と思うのに似てる。

私、子どもの頃何度も同じ怖い夢を見た。

それはオスの怪物に襲われる夢で、いつもよく眠れなくて、身体も弱かった。

『あんなのは夢だ』って、これまでだって、何度も自分に言い聞かせてみたよ。

けど、実際私にとって、その行為っていうのは…死ぬっていう感覚で、泡なの。

溺れて、藻掻き苦しんで、息が詰まって、怖い。

死ぬ寸前まで、全部実体験だよ。

もしそれが私のせいだって人がいるなら、私は許されたくもないの」



顔を上げて、相槌ひとつつかない芦原の顔を見る。

蒼褪めていた。

ちょっと伝わり過ぎた、その顔を見て量子は思った。


悪夢のことを地獄の沙汰のように言うわりに、

量子がグラフ誌で山口の『吹雪の海』のカラー写真を見た時の衝撃は、

案外大したことはなかったのだ。

きっと情報を捉えるときに、無意識に防衛線を張った目で見るせいだ。

その海は本当に『吹雪』と言い表すよりほかない景色だった。

だが写真には実際の奥行きがない。

量子が夢で見たのと同じその現象は、

『カプチーノ・コースト』と呼ばれると解説がついていた。


量子「あ、先生ごめんね。私、喋り過ぎた」


芦原「うん。どうしようかな。俺、そこまで聞いたら、言わなきゃいけなくなった」


量子「え、何」


芦原「お前それ簡単には治らないぞ。

ああ、俺!

教師ならもっと励ますようなこと言わなきゃいけないのに」


量子「…そうだよね」


芦原「うん。昔、男子生徒でいた。

エロい話だと思わないで、医学的な頭に切り替えて聞いてほしいんだけど。

いいか、性刺激っていうのは微妙なもんでさ。

思春期に間違った刺激を受けたりしたタイミングで、

うっかりエロと違うボタンに掛け違えちゃうことがあるんだよ。

そいつは37歳になって、立派に教師面してるけど、まだ治ってないから」


量子「え…」


芦原「お前は自分がした話、自分以外に分かりっこないと思うだろ。

でもそれ、俺は身に覚えあるから。

異性だけどそう思われたくないとか、愛情は感じるけど性欲じゃないとか、そういうのも全部」



量子「だからか。なんか馬っぽいなって思ってた」


その時、芦原のむすっとした顔に光が宿った。


芦原「お前は興味があると思うから、俺がどんなタイプの変態か少々教えておいてやろう。

聞きたいだろ?」


量子「先生、怒ったの」


芦原「俺が?なんで?

馬は最初、嫌われるのが怖くて言えなかったんだ。

人に言ったら、通報されるかもしれない。

経験がないというのは、情けないものだ。

何を隠そう、それまでの俺は品行方正・容姿端麗・成績優秀な地区でも指折りの神童だった。

その片鱗は今も残ってるが、何しろ、人から嫌われた経験が一切なかったんだ。

どこへ行って何をしても、下手すりゃ嘗め回される勢いでチヤホヤされた。

本当に可愛らしい子どもだった。

しかし、昔の人は今よりテキトーだった。

ひょんなことから俺の性嗜好がバレてしまって、いや、想像してしまうだけで実際に行動に移したりはしないけどな。

すると世間は、臭い物に蓋をして、使い物にならん人間が育ってしまった場合は、物理的に有効活用するか、生かしてくださいと命乞いしてしまうくらい卑屈になるまで苛め抜いて叩き込む。

自己犠牲的な精神を植え付けて、特殊な役割を押し付けた。

そういう風潮は、つい最近まで日本にもあった。

みんなそういう人権蹂躙があるのを知ってて知らないふりをして、誰かがこんなことはもうやめようと言い出しても、そいつを嘘つき扱いして打算的に無視することにしていた。

俺はそんな具合に、危うく物理的に有効活用されかけて、命からがら逃げ伸びた。

その時俺は思ったね。

『これは、俺が人に悪人とレッテルを貼られる以上に、世の中腐っとる。

こんな被害がこれ以上続くのを、断固阻止しなければ』と。

考えるまでもなく、俺の前に道が作られることを止めるには、俺の後ろの道をじっくり思い出せばよかった。

子どもたちが血迷った選択をすることを、俺は誰よりも理解していた。

俺が血迷った道程だから。

そしてこれは大事な点だが、俺より賢い子どもなど、可愛くない!

お前がもしも馬ならば、大事なことは『他人から嫌われても、主張や要求を提示しなければならないことがある』ってことだ。

わかったか?」


量子「わかりました」


後で思い返すと、芦原がどういう変態タイプなのか結局わからなかった。

芦原は相変わらず、人に嫌われるのが怖いのだ。

芦原は恐らく進路のために学校に出席するように言いに来たのだが、なぜか最後は変態の末路について講義を受け、話し終えると芦原は一仕事終えたような清々しい顔で、ジョギングするふりをして立ち去った。

翌日から量子は登校を再開した。

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