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正体  作者: ホソチヂレメンノビタ
8/9

文書

不思議な景色だ。

昨晩、今年最初の雪が降って、今日の昼までに五十センチくらい積もった。

新潟だから、それ自体は珍しい事じゃない。


線路の脇に並んでる照明は、あれはやっぱり街燈と呼ぶんだろうか。

竹邨たけむら範信のりのぶが立っている高台の下から、這い出すみたいに線路が突き出して、そこから先はもうひたすら、彼方の山間に這いこんで見えなくなるまで、ずっとずっと長い街燈の光点が伸びている。


線路の上に高架線が何本も張り巡らされていて、それは範信のすぐ足元を見下ろすと、凄い密度で重なり合っている。


雪が降り出す前夜は、決まって少し気温が暖かく感じられる。

昨夜も夕飯時あたり、気持ち悪いくらい生暖かかった。


範信は高台から真下の線路を見下ろす。

高架線越しの線路は細く、そこまでの距離の開きをまざまざと感じさせる。

いたる叔父は脇腹が痛いと独り言みたいに言った。

範信はいつものことだろうと、気にもかけなかった。

夕飯の献立は近くの漁港で水揚げされた目鯛の煮付けと、葱ヌタ、芋と焼き豆腐の入ったごった煮に、油揚げの味噌汁だった。

夕飯の席に、叔父貴は既に居なかった。

田舎の古家なので平成の今でも風呂を薪で沸かしている。

母屋の裏手に回って薪を風呂釜にくべていたら、ぼた雪が降り出した。

風呂に入るのは夕飯が済んでからだから、夜八時過ぎ頃からだ。

大家族なので全員入り終える頃には十一時を回る。

その間に何度か薪をくべて炊き直さないと、この季節はすぐに湯が冷める。

八人もいるので、誰が何時頃風呂に入ったかなどはわからない。

なにしろ古臭い家庭なので、家族が一人夕飯に揃っていないということは珍しい。

けしからんということになり、本人も居ないのに、小言は祖父母から、長男である範信の父や、行き遅れの叔母にも波及した。

これもまたいつものことだ。

末の叔父だけは、いつも我関せずの表情で食欲を謳歌している。

僕はこのドライな叔父が一番好きだ。

だが、今朝の知らせを聞いた時も、末の叔父は一人冷静だったので、範信もこのときばかりは末叔父のことが少しわからなくなった。

中三で叔父貴兄弟に比べれば付き合いの浅い範信ですら、この訃報を聞いて胸が苦しくなった。

それ以来、胸騒ぎは今も続いている。

昨日までぴんぴんしていた之叔父が、もうこの世にいない?

そんなことを急に言われても、受け止められるものか。


線路以外何もない山奥みたいな路傍で、真っ暗な闇に浮かび上がる線路の街燈を覗き込んでいても、昨夜何が起こったのか、範信の目には感じ取れなかった。

ただ、ここから落ちるにはそれなりの覚悟がいるということは十分にわかった。

昨夜はまだ積もっていなかったはずだが、今は線路の方へ下っている購買のきつい藪も、真っ白な新雪に覆われている。

身を乗り出して、線路が駆け込んでいるトンネルの中を覗き込む。

橋の付近に処理の痕跡がないから、雪の振り込まないトンネル内で轢断されたのだろう。


「竹邨、何やってる?」


不意に呼び止められて、驚いて振り向くと、同級生の市川が自転車にまたがってこっちをうかがっていた。


「…線路を見てる」


市川は自転車を降りて両手で引きながら、橋桁の傍まで寄ってきた。

範信をじろじろと眺め回す。

範信も市川を見る。

片手で欄干に触れると、市川はさっきの範信と同じように、橋桁の下を覗き込んだ。


「なんかあるのか」


顔を上げて、また怪しみながら見る。

範信がそこから飛び降りるとでも思っているのだ。


「昨日、叔父貴が亡くなった」


どうせ田舎だ。

こんな噂はすぐに広まる。

それに叔父貴は、この界隈じゃちょっとした有名人だ。

良い評判ならいいが、残念ながらそうではない。

市川はどういうことなのか直ぐに察した。


「そうだったのか。…気の毒だったな」


戸惑いながら、お悔やみの文句を探している様子だった。


「いいんだ。少しほっといてくれないか」


市川は俯いて、まだ立ち去ろうとしない。

範信と叔父がどのくらい親しかったかまでは知らないから、額面通りの意味に受け取って良いのか判断が付かないのだろう。


「気にするなよ。叔父貴が死んだって、信じられないだけだ」


そう言うとぴんときたようで、小さく「ああ」と相槌を打って頷いた。

市川は再び自転車にまたがり、何度も振り返りながら去っていった。

範信はまた、昨夜までのことを思い返した。

叔父貴が脇腹が痛いと言い出したのは、半年くらい前からだ。

物静かで、喋るのはあまり得意ではないようだった。

四人兄弟の次男で、長男は範信の父、その下が之叔父貴で、叔母、末叔父の順だ。

母は気丈で、よく祖母と揉めている。

父が中立の態度な為、叔父貴は母に肩入れして、相談に乗ったりしていた。

気が弱く神経が細いが、弱い者に味方する優しい人だった。

母は決してなよなよした女性ではないが、家族では新参者で、気性の荒い祖母を恐れて叔父叔母兄弟の誰も母と親しくしたがらなかったため、叔父貴が陰ながら母の肩を持つことで圧倒的な劣勢を緩和していた。

だがその反面、板挟みや叔父貴自身の抱える悩みなどで、年々病状は悪化していたように思う。

叔父貴に良く学校のことなどを訊かれたので、範信も叔父貴の話を色々聞き出した。

思春期は不安定だから、相談相手になってくれようとしていたのだろうけれど、範信は自分より叔父の方がずっと危ういと感じていた。


ふと、叔父貴との会話の中で、叔父貴がまめに日記を付けていると言っていたことを思い出した。

範信は道を引き返し、積もった雪の新雪の部分を選んで踏みしめながら帰路に就いた。

自宅に着くと、叔父貴が亡くなったことで、家族はてんやわんやだった。

範信はそれを横目にまっすぐ叔父貴の部屋へ上がり、日記を探した。

叔父貴の部屋に入るのは初めてだ。

日記というからには分厚いハードカバーのノートを想像しているのだが、叔父貴の本棚をいくら掘り返しても、学生時代の授業のノートしか見当たらなかった。

しかもノートの文字は範信が知る叔父貴の性格に反し、渦を象ったのかと思うほど極度の丸文字で、罫線が見えていないとしか思えない無軌道な巨大さだった。

喩えるなら、文字を書くという概念に不慣れな児童が、書き方のノートのマスをありったけ使い切ることに歓喜を覚えて、絵画的な法則に基づいて描いた文字という印象だ。

しかもところどころ単語になっておらず、特に固有名詞などは尽く省かれている。

その割に、教師の雑談と思われる内容だけは、やけに緻密に書き留めてある。

これで成績は優秀だったというのだから、叔父貴の頭の中がどういう構造になっていたのか理解に苦しむ。

ドリルなども残っているが、やはり解答欄に書き込んでいることは珍しい。

回答は問題文中に、印字された文字に重なった状態で書いてあるものが多かった。

まさにクレイジー。

この記入方法だと、試験でも解答用紙を使わなかった可能性があるが、成績が良かったということは教師は彼の回答に正解を与えていたのであって、教師からの深い譲歩と信頼があったことがうかがえる。

かと思えば、たまにドリルの欄外に、“欄内に書いてね”などと教師からのメッセージが朱書きされているのを見つけた。

教師もこれでいいと思っていたわけではないのだろう。

その後のページも叔父貴の回答はやはり解答欄からはみ出しているが、やや解答欄との距離が縮まっていて、注意された後は何とか欄内に記入しようと努力した跡が見える。

しかし数ページ進むとまた、これまで通り問題文中に回答が記入されていた。

ダメだこいつ。

範信は教師の心の声を聴いた気がした。

叔父貴は脇腹の痛みを訴え、家族の勧めで病院を転々とした。

どの病院で検査しても、身体に異常はなかった。

恐らく神経性だろうということになり、幾つかの病院では薬も処方された。

しかし叔父貴はそれを全部飲み切らず、通院もしなかった。

病院へ行くのは家族を安心させるためで、自分の脇腹の痛みには現代医療では解決できない原因があると思っていたようだ。

叔父貴の死は「脇腹が痛い」という最後の言葉と、関係があるのではないだろうか。

机の引き出しを開けて、中を物色していると、部屋のドアが開いた。


「あらあんた、何してるの?お通夜の準備で人手が足りないっていうのに。

下へ行ってお婆ちゃんを手伝いなさい」


叔母は範信を部屋から追い出そうと歩み寄ってきた。


総子ふさこ叔母さん、どうしていたる兄ちゃんがこんなことになったのか、教えてよ」


叔母は立ち止まり、範信の目をじっと睨み返した。

眼に不安と焦燥が浮き彫りになる。


「あんね、叔母ちゃんもそれは、わからない。多分、うちの者は誰もわからないよ。あんまり急すぎて、信じられないんだよ」


叔母は、見る間に目にこみ上げる涙を堪え、目を瞑った。

それから振り払うように深く息を吸い込み、


「とにかく今は、お通夜の支度をしなきゃなんないの。そのことは少し落ち着いたら、皆でじっくり考えよ。さ、わかったらお台所へ行きな」


泣いた顔を見られたくないのだろう、顔を背け、ドアを支えて範信が部屋から出るのを待っている。

引き出しの奥を探った時、指先に携帯電話の感触があった。

静かにそれを探り当て、ポケットに忍ばせて部屋を出た。

ドアを潜る瞬間、高い耳鳴りが響き、驚いて振り返る。

室内の低い場所から聞こえてくるように感じられた。

耳を澄ますと、耳鳴りは止んで代わりに叔母が呼んだ。


「のんちゃん、ほら早く」


階下へ降りると、廊下で母親に会った。

叔母はそそくさと、つやの会場になる居間へ姿を消した。


「範信。お婆ちゃまのところに行ったの?」


母親は割烹着に三角巾と、本式に人を招く際の臨戦態勢で、両手にお膳を十段ほど重ねて抱えている。

範信はお膳を半分引き受け、母親の行く先へ同行した。


「母さん、之兄はどうして死んだの?」


母親は範信を見ず、前だけを見ながら、


「…あんたはまだ赤ちゃんだね。

こんなことになってるって時に、そんな大事な事を考えられるわけないだろ?

あんた、そんなことお婆ちゃまに一言でも言っちゃいけないよ」


と答えをはぐらかし、お膳を所定の位置に置くと範信を追い払った。

確かにその通りだ。

祖母も非常事態だから、どうにか正気を保っていられるが、気が緩めばぷっつりと切れてしまうような心境のはずだ。

それは逆に、範信は祖母ほど叔父貴に感情移入していなかったという事になるのだろうか。

身内が亡くなったのはこれが初めてだ。

家族が一人かけてしまうということの、本当の意味が範信にはわからない。

叔父貴という人を、一貫した人格として捉えたことが、あまりにも少なかったように思う。

祖母にどんな態度で接すればいいのか、範信は台所までの短い距離で精一杯推し測ったが、これというものに行き着かないまま流しにやってきてしまった。

祖母は普段使わない来賓用の食器類を戸棚から引っ張り出し、片っ端から洗っていた。


「婆ちゃん」


木偶の棒のように真後ろに立って、範信は呼びかけた。

祖母は返事をしなかった。

範信の身長が最近祖母を超えたせいもあるが、祖母の身体が萎んだように感じた。

顔を覗き込むと、息を吹き込まれたように範信を見る。


「ああ、範信。これ、拭いてあっちへ並べて」


まさかそれが自分の仕事だとは思いもしなかったので、改めて食器の山を見渡す。

祖母が埋まりそうなほどある。

気が遠くなるが、力仕事よりは楽かもしれない。

和室の障子を開け放って、末叔父と父が何か大きな物を担ぎこんでいる気配がする。

範信はテーブルに大量に折り重ねられたサラシの布巾を一枚取って、濡れた食器を拭き始めた。


範信「婆ちゃん、この後はどういう流れ?」


範信が問いかけていることに気付くまでに少し間が空いて、祖母は答えた。


祖母「あ?…ああ。お通夜っていうのはね、親戚を呼び集めて、揃った頃にお坊さんがやってくる。


それからお焼香をして、飲み食いして、あとは夜通し灯を絶やさないように、交代で番をするのよ」


範信「その当番は、僕もやる?」


祖母「いいえ、子どもはやらないの。大人だけでいいのよ。

お爺さんが先に仮眠をとって備えてるから、心配しなくていいよ」


範信「お経は何時から?」


祖母「そうだね、ええと、六時からだね。

あら、もうこんな時間か。あんたちょっと、お爺さんを起こしてきて」


台所から廊下に直接出ることもできるが、範信は様子を見に居間に入った。

今度は天井の辺りから、強い耳鳴りが突き抜けた。

左耳が裂けるように痛んで、範信は片手で押さえながら天井を見回した。

天井には特に何もなく、居間に繋がっている和室に座布団が敷き詰められていた。

父親と末叔父が準備した祭壇には、もう蠟燭が灯されていた。


父「範信、用事が済んだら客間へ来い」


祭壇の準備が済むと、父親はそう言い残して居間を出て行った。


客間は親戚一同が集まる時くらいしか開けることはない。


普段は布団部屋にしていて、八畳の和室二部屋が隣接している。


襖を取り払うと、何もない十六畳の和室になる。


父が長男なので、我が家にはこんなほとんど使わない部屋があって、遠方の分家さんが急に泊まりに来た時の為に、日頃から母親が手入れだけはしている。


「範信くん、大丈夫か?」


普段から範信が之叔父とよく話していたので、末叔父は範信が気を落としているのではないかと気にかけているのだろう。


まだ大学生だが、之叔父と違い体格が良く、澄ました印象がある。


服装は奇抜ではないが全体に派手で、顔つきも整っている。


「鵬さん。今夜は火の番をするの?」


末叔父は少し考えて、


「ああ。起こされたらな」


と答えると、父の後を追って廊下へ出ていった。

範信も祖父を起こすために部屋を出て、階段を上った。

背後の玄関が開き、階下がにわかに騒がしくなる。

もう誰か到着したようだ。


生前人付き合いが全く無いかに見えた之叔父だが、狭い町内から代わるがわる弔問者が訪れた。


式の間、之叔父の引き出しから持ち出した携帯電話の、電話帳機能や着信履歴などのデータを物色していると、メモ帳に書き付けた取り留めのない走り書きの中に、"N.I. (Neo Individual)"というタイトルの長い文書を見付けた。※文書は本編末尾に添付。


日付は昨年の晩秋だから、二ヶ月ほど前だ。


『インディヴィジュアル…個人主義のことだったかな』


そう思いながら目をしばたたかせると、その隙に、正座した自分の膝辺りから、大きな鳥のような影が飛び立ったように感じた。

驚いて腰を浮かせると、


『のんちゃん、それだ』


今度は耳鳴りに混じって、之叔父の声が自分の名を呼んだ気がした。

前後を見回すが特に異変はない。

疎らながら参列した弔問客は皆俯いていて、範信の挙動に注意を払う様子はない。

範信は痺れた足を引き擦って席を立った。

別室に弔問客をもてなす仕出し料理が並んでいて、数名が飲み食いしながら話し込んでいた。

鵬叔父が座っているのを見つけ、範信はその横に立った。


鵬「どうした、疲れたかい」


座布団を示して範信を座らせる。


範信「鵬兄、俺なんだか変だ」


鵬「具合でも悪いの」


何から話せば良いかわからない。

ただ、鵬叔父は大学生だから、之叔父の文書を見せれば何かしら伝わるだろう。

範信は之叔父の携帯電話を鵬叔父に差し出した。


鵬「携帯?」


範信「之兄の携帯だよ。さっき気になって之兄の部屋を見に行ったら、見つけたんだ」


鵬「これが?」


範信「画面にメモ帳があるでしょ。これ、之兄が書いたんだと思う」


鵬「ネオ・インディヴィジュアル…社会学のノートかな」


範信「書いてあること読んで。きっとこれ、之兄のオリジナルだ。ネオ・インディヴィジュアルなんて、聞いたことないもの」


鵬「のんちゃんと関係あるの」


範信「参列席でこれ読んでたら、之兄に呼ばれた気がして…。

振り向いたら気のせいだったけど、この携帯持ち出したときも耳鳴りがして」


鵬叔父は微笑んだ。


鵬「疲れてるんだよ。こんなことがあって動転してるんだろ」


範信「そのメモの意味、わかる?」


だが鵬叔父は、携帯より範信の顔ばかり見ている。


鵬「お前、部屋に上がって少し寝た方がいいよ。

なんか顔色がひどいぞ。

昨日の晩、寝れなかったんじゃないか?」


範信は早くメモを読んでほしくて、もたもたと渋る。


鵬「ほら行けよ。読んどいてやるから」


差し込む月明かりが影を落とす天井の木目を見ながら、何度かまた之叔父の声が聴こえた。

何か言っているようでもあるし、自分の名前を呼んでいるのも聞こえるが、他の語は言葉になっていなかった。

眠りに引き込まれてはまた天井を見ているということを繰返し、どれが夢なのか判然としない。

虚ろな時は返事もしていた感触がある。

だが意識がはっきりしてくると、誰もいない所に発声するというのは案外抵抗があるものだ。

我に返ると声も聞こえなくなった。

四時間ばかり転寝うたたねした後、


『下ではまだ夜伽をしてるんだ』


と思い出して、範信は布団から這い出した。


祭壇をしつらえた部屋には、祖父母が座布団を並べて静かに座っていた。


祖母「あら、のんちゃん。起きたの」


祖母が迎えるのを制しつつ、範信も座布団を引き寄せて座る。


範信「鵬さんは」


祖母「用事があるって、どっかへ行ったね」


範信「お爺ちゃんお婆ちゃん…」


祖父「大丈夫だよ。どうせ寝ようったって眠れないし」


祖父は煙草に火をつけた。

畳に置いた灰皿は、もう一杯だ。


祖母「ありがとうね、のんちゃんも。

之がこんなことしたせいで、疲れただろ」


祖父「君江。範信がどう思うか、聴かせてもらったら」


祖母「そうですね。本当にね」


祖父は目を細め煙を深く吐いた。


範信「僕は之兄からは何も聞いてないけど。

人の事ばかり気にしてて、自分の事で死ぬような暇はないように見えたよ」


之のことを思い返すほど、周りの人間を目で追っている姿が浮かぶ。変人だが、陰気ではなかった。内向的というよりは外向的だった。誰かが困ることがないように先手を打つことに生き甲斐を感じているのかと思う節もあるほどだ。


範信「之兄にとって人生は…」


そう言うと祖父はさらに目を細める。

祖母は、「ほほ」と笑って頷いた。


範信「いや、あくまで僕の知る範囲だけど…」


二人は緩んだ表情を正して、範信の言葉を待つ。


範信「パズルだ」


祖父は「ほう」と感心して、また煙草を口に運ぶ。

それから言葉が続かず、他に良いたとえ話もないのに、そのイメージだけは範信には手に取るように確かなものに思えた。

まるで説明を付け加える必要もないほど。


祖母「だからだねえ、きっと。私たち古めかしい年寄には、なんだかロボットみたいに思えて、心配だったよ」


祖父「何度プログラムし直しても、てんで直らない。ポンコツのロボットだよな」


祖母「あなたが厳しく躾けすぎたんじゃありませんか。

あんなに何回も頭を引っ叩いたりして。余計おかしくなったのよ」


祖父「頭が悪くなる程叩いたりするもんか。

あいつはわかってたよ、親父の気持ちくらい」


祖母「…そうね。人の気持ちは分かる子だった。分かり過ぎるくらい」


祖父「だけどなあ。之は、やりたくてもできない。

俺がどうしろと言ってるのか、あいつは分かってたけど。

だから、やろうとしてたら、できなくても褒めてやったんだ。

それが愛情ってもんだろ」


範信も頷いた。

祖母はタオルで顔を覆った。


祖母「なんだろうね、本当に。あんなに信じ合えてたと思ったのに」


範信は、言い出すタイミングを見計らっていた。

携帯電話の中の“ネオ・インディヴィジュアル”の文書の存在が、きっと、之叔父の死を解き明かす鍵になる。


範信「ねえ。僕、鵬兄に、之兄の携帯を渡したんだけど、知らない?」


祖父母は、若干不意打ちを食らった様子で顔を上げた。

啜り上げていた祖母が、まだタオルで目を拭いながら答えた。


祖母「携帯のことは、聴いてないよ。持って行ったんじゃないかしら」


祖父は何気なく


祖父「そういえば、之が前に言ってたな。

大事なものはオンライン上に保存してるんだって」


範信の身体が走るように脈打ち出す。


範信「それだよ、お爺ちゃん。俺、それ見つけたんだよ」


祖父「なんだ?」


範信「少なくとも之兄が大事にしてたものの一つだと思う。

タイトルは、ネオ・インディヴィジュアルって言う。

だから、『新・個人主義』みたいな感じかな。

内容は、人間が発達段階をもっと意識的に取り組む方法が書いてあったと思う。

それが入ってる携帯電話を、俺、鵬兄に預けたの。鵬兄なら、その文書を書いたのが之兄なのか、それとも既出の学説なのか、わかると思って」


祖父「鵬が…あいつ、どこへ行ったって?こんな日に」


祖母「さあ。ちょっと出てくるって」



午前四時を回り、玄関ホールに呼鈴のブザー音が鳴り響いた。

範信が駆けて行ってインターホンに出ると、


客「夜分に申し訳ありません。県警の福田と申します。

ご遺体の所見が出まして、今日はお通夜なので、どなたか起きておいでかなと思いまして、直接伺いました」


範信「少しお待ちください」


祖父母が驚いているところに、裏口の方から急発進する車のタイヤ音が聴こえた。


事態が呑み込めず、室内で顔を見合わせていると、外から警官が声を張り上げる。


警官「竹邨鵬さん、今ご在宅ですか」


祖父「鵬?鵬は今、出かけてます。鵬が何か?」


観音開きの玄関のガラス戸を、二、三度指で軽く叩くが、祖父が玄関の鍵を開けていると、


警官「あ、今いらっしゃらない?ちょっと裏手を確認して参りますので、後ほどまた来ます」


がらがらと戸を開けるが、警官の姿はもう無かった。

範信の身体を戦慄が走り抜ける。

胸騒ぎが止まらない。


範信『鵬兄…まさか』


祖父が逸早くサンダルを引っ掛け、玄関先の除雪した砂利の上へ駆け出す。


祖父「鵬の奴、あのバカ!」


生垣の向こうをパトカーが走り去り、祖母はよろめいて上がりがまちの上にへたり込んだ。


その時、範信の耳には、之叔父の声が今度ははっきりと聞こえた。


『携帯なくても大丈夫。もうネットに拡散されてるよ』


耳元に秘密を打ち明けるような調子だが、いつもの少し間延びした、之叔父の声だった。


鵬叔父は自分のサンバーバンで夜明けまで逃走したが、波渡崎温泉の方へ向かう海岸線沿いで身柄を確保された。


之叔父の頸部に扼痕があり、爪に体毛が付着していたことから、自殺ではなく他殺であり、体毛から鵬叔父が特定されたそうだ。


鵬叔父は既に之叔父の携帯を海に投げて処分していた。


*********************************************


N.I. (Neo Individual)


<乳児から老衰までのヒトの発達は9段階>


ヒトは誕生した時、人間の知性を習得する素質を具えて生まれるが、知性そのものは段階を踏まえ学習していくことでしか修得できない。知覚に関しても、知性を習得することによってヒトらしい知覚に発達する。

ヒトの知性を与えられずに育った場合、社会との意識の共有が困難になり、人間を同属として知覚する神経が阻害される。

以下は、人間を育成する中で、いずれも欠くことのできない発達段階である。いずれかの段階を欠いた場合、遺伝子継承された試練が次世代に解消されず、克服されるまで世代をまたいで引き継がれる。場合によっては、問題点は、快方に向かう途上段階として、または、深刻化する途上段階として遺伝する。個人の発達段階は、社会の現状における発達段階に連鎖して引き下げられる。

社会が長期にわたり著しく人間育成環境から逸脱し続けると、住まう人間は種を維持することが困難となり、種は変異する。



<ヒトの発達-9段階>

竹邨 之


①狩猟者

食餌欲求(愉悦)


②被食者

守護から外れ、捕食対象とされる(恐怖・怒り・喪失感)


③傍観者

狩猟の傍観者、逸脱回避、主体性なし(静観)


④批判者

狩猟の批判者、逸脱需要、優位(保護欲求)


⑤知覚者

自己の喜怒哀楽、善悪への客観性、五感知覚が安定し、人倫と整合した判断力が付く、人倫に共感する良心の芽生え


⑥監督者

狩猟の監督者、主体性をもって人情味を保ちながら、狩猟を監督し、人間らしい道へ①~⑤を引率する


⑦成熟者

生存における狩猟の正当性/愉悦における狩猟の不当性 の分別

視野拡大

より深い愛情を供与できる大人に成熟


⑧観察者

老化し、社会的強者から保護される側へ(違う視点から見た社会の大筋を倫理的に評価)


⑨継承者

・不備:評価した不備を指摘

・許容:評価結果は許容範囲と判断

・継承:不備に対処する代役がみつかる


このような段階を身をもって体感して、成熟するにしたがい人間社会の知性を修得していく。そして一定の段階に成熟すると社会に参加していく必要がある。人間社会には「自由」という概念が認められているが、これは上記の段階を順当に成熟まで達した者に認められる概念である。様々なオートメーション化が進むこれからの社会における、人間の社会参加の概念を以下にまとめてみた。



<不動要素>


・人の認知力

表面的な情報・数字等つかみどころがある部分で判断しがち

内面的な抽象的なものが肉体を動かす(行動・具象化の原動力は抽象)が、外界から知覚できるのは具象のみ


・地球の活動

地球の活動を任意に操作することは技術的に可能となってきた(クラウドシーディング・灌漑施設など)が、操作が地球に及ぼす影響は未知の領域であるため、人類の生命活動に必要な範囲での操作に控えるのが賢明


・人類の自己保存欲求

主を保存する本能的欲求から、人類は様々な防衛行動・合理化を推進する性質がある

防衛行動:武装・貯蓄・社会通念の統一・排他・情報秘匿・違反処罰 等

合理化:産業技術・経済活動・競争による活動の活性化・集団形成


・生態系の生命力

各生態圏に気候・濃度・成分の違いがあり、その条件を生存のために必要とする生物が生息している。変化は種の増減を大きく左右する。生態系の各層が、種の増減によりバランスを崩したり回復したりし、人類由来以外にも地球の活動・宇宙の影響を受け、常に変化しているが、種が減少すると食物連鎖の緩衝が生まれ、人類の生存環境にも不利が生じやすい。



<可動要素>


人類は種の保存に有効な条件を活発にするために、歴史上で多くの方針転換を受け入れてきた。科学が未発達な時代に未知の分野において誤って広まった悪習等もあり、その結果現代に環境破壊や人権蹂躙を招いている潜在的問題が依然拡大、深刻化している場合もある。

したがって、人類は種の保存に有効で、不動のものに属さない部分においては、方針を現状から転換していく可能性を秘めている。

ただし、誤認や未知の領域があることを前提とし、方針転換の際は慎重を期さねばならない。



<課題>社会の不完全さを社会参加意欲につなげる教育を


成年に達するまでに基本的な人類と地球・宇宙の活動のあゆみを学習し、成年してからは、各々の得意分野を活かし、


・生存を補助する役割

・不足・問題点を見出す役割、解決策を実施


等のような形で社会活動に参加し、人類の生命・精神活動の成熟に貢献していくことが求められる。

また、単独でできる活動は僅かとなりがちであり、より大きな協力体制を築けることが望ましいが、社会集団は成熟者に対し、個々の特性によってできる形を選択できるよう自由性を尊重する。

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