兆候
上條真澄の両親は一昨年から脱農した。
今では祖父母と曾祖母だけで菜園と水稲栽培を続けている。
重機の免許がある父は林業の運転士を始め、母は弁当屋のパートを始めたが、二人合わせても、家族7人と広い田舎家の光熱費や畑といった、経費を賄うには足りない。
それでも農家一本でやっていた頃に比べれば楽になって、真澄にもようやく高校生らしい小遣いが入るようになった。
そんな状態で『ゲーム制作の専門学校へ進学したい』などと言い出せるはずもない。
選択欄の『就職』に〇を付け、活動状況には『なし』と記入して、面談では具体的な方向性が定まらないまま、いくつかの選択肢を話し合うに留まった。
真澄「進路相談」
丙三「ああ」
真澄「うちの親は矛盾しちょる。
稼業で生活はえらい※とか自分で言うちょいて、
担任を前にすりゃあ地元におれ言うてくるし」
※苦しい
丙三「上條の田圃も爺ちゃん世代で終わりじゃな。
マー姉、地元離れっそ?」
真澄「学校では『真澄先輩』言うたやろ。
新卒でコンビニバイトって、進路相談ちゅうそ?」
丙三「コンビニは最低賃金っちゃ」
真澄「家はあるんじゃから、じゃって。
結局上京するにも元手がいるっちゃろ。
はあ無理じゃから、自分で貯めろっちゅう…」
丙三「じら※言うないやー。家族は協力せにゃあ」
※じら:わがまま
真澄「あんたんトコはええよね。地代で左団扇じゃろ」
丙三「うちはむしろ、逆パターン。バカやのに進学から逃れられんっちゃ」
真澄「まあ、そりゃそうじゃな。身分が違うっちゃあ」
丙三「マー姉、進学できりゃええんにの」
真澄「学校は行かんでも、ゲーム理論の勉強はヤメんよ。
田舎でも都会でも、クリエイターは自腹で精進するもんじゃろ。
そこは変わらんよ」
丙三「東京で?」
真澄「地元には未来を感じんのう。時給八百円じゃ服も買えん。
私が稼いじょったら、家も宛にするじゃろうし」
丙三「同じ仕送りでも、東京なら時給千三百円か。
どう考えても効率がええっちゃ」
真澄「東京は二倍速じゃ」
丙三「寿命も二倍速じゃろう」
真澄「なんでよ」
丙三「井上陽水が言うとるよ」
真澄「都会じゃのうても、こねえ状況では首括るじゃろ」
丙三「親のとこへな、Ⅰターンじゃとかゆうて、
たまに東京の人が脱サラして来よるんじゃけど。
いきっちょるんは最初だけっちゃ。
オフィスワークでももたん人が、農作業に耐えよるっちゅうことは稀じゃ。
もちろん、配達やってくれちょる桑田さんみたいに、
はあ本気で決意固めてきちょる人もおるんじゃけど。
若い人が時代を読んだ気になって、田舎は自給自足できるとか。
自然を舐めとるんじゃろね」
真澄「菜っ葉だけ食うちょる人じゃったら可能っちゃ」
丙三「まあどっちが辛いか言うたら、向き不向きの問題じゃな」
真澄「向き不向きだけじゃの。優劣やのうて」
丙三「へでも儲けは優劣がありありとつくじゃろう。
地元で畑の手伝いもせんで、パソコンさ齧りついとってさ。
どっかの兄さんやないけど、プログラミングで就職する方が優秀な田舎モンじゃ」
真澄「えずいのう。プログラミングは堅いな。
ヒキコモリが勝ち組やって、解せんっちゃ」
丙三「食糧は要らんのかん言う話」
真澄「食わんのじゃろ。ダイエットばあしちょって頭がおかしゅうなるっちゃ」
丙三「はは」
悔し紛れに悪態を吐くが、実際問題、田舎だから電気代や通信費が安いということはない。
裕福な暮らしは期待できない未来だ。
真澄「ああ。どうなるんじゃろうね、この国は」
丙三「うちのお父みたい」
真澄「こねえに物流が、海外と断絶するゆうことは、思い付かんかったかね」
丙三「へでも農水省では備蓄は十分あるっちゅう話じゃったね」
真澄「ウイルスも果てが見えんじゃろ。今回どうにかなっても、次はわからん」
丙三「国内自給率より、現代的合理主義じゃ」
真澄「阿呆のフリしとっただけじゃろ。
首相は方々から睨まれとって、危険視されるのを恐れとるっちゃ。
輸入に頼ったにしても焼け石に水じゃろ。
農民は大昔から貧民と決まっちょるんよ」
丙三「長いもんには巻かれとかんと、しばかれたら損やけ。
農民が大儲けできる場合、食料が高騰するんじゃろうし」
真澄「解せんっちゃ。食料をお金で買うシステムが変わればええ」
丙三「…税金を租税で払うとか?江戸時代っちゃ」
真澄「冴えんのう。もっとええ方法があるっちゃないかん。
そういうの得意っちゃ。
よっしゃ、考えてみちゃるけぇ、
あんたちょっとお父のコネで、議員に立候補しいさん。
政治家になって東京を動かさんことにゃ、どこまで行っても烏合の衆じゃろう」
丙三「政治経済の成績見てから物言わんと。絶望しかないわ」
真澄「あ~あ。一次産業は茨の道じゃのう」
困窮するパターンの第一を一次生産従事者とするなら、農業だけの問題ではない。
生産業は厳しいが儲けにならない。
この国を支えるために生産業を続けている人の中には、量産機器の導入資金はなく、生産量が乏しくて支援でやっと生活している世帯もある。
休む間を惜しんで働いていても、収入が足りず支援を受ける時は、働かずに給料をもらっている無職の人と同等に惨めだ。
そして貢献しているのに半永久的に貧しい。
それどころか、海外からの輸入主体で賄った方が『人件費の節約』になり『効率的に量産』できるという考えさえある。
国全体が税収を上げる商業に肩入れしていて、国内の食糧生産が減っても大した問題にしていない。
感染症拡大に伴う物流凍結で、一時は地元の生産力が命綱になることを目の当たりにしても、実際に物資が店になくならない限り、対策を渇求する声は挙がらない。
丙三も言うように、『儲けを得ようとすると、生きとし生ける者だれもが不利益になる商売』というのがある。
直接人の生存に関わる商売は、恩恵は万人にあるのにお金を要求できない。
元々群を抜いた功労者だった人が、生活に困窮して心の余裕を使い果たし、働くのが馬鹿馬鹿しくなってしまうこともある。
こういう人は、貢献に一切関わることができない『第二のパターン』に移行する。
『第二のパターン』というのは、自棄を起こして破壊行為に走るような危険な状態だ。
他にも、こん睡状態にあるか、判断という概念そのものがない無垢な悪戯好きの赤ん坊や、「怠け者」の問題が第二のパターンに含まれる。
怠け者は何もしたくない。
呼吸することすら面倒で、許されることなら、生きるのも面倒臭い。
現代に蔓延している『無気力』は、誰でも患う可能性のある、『病気』の症状だ。
そうでないなら、人間にも生存本能があるのだから、健康な人が空腹なのに食べたくないわけがない。
『無気力』とは、立ちはだかる断崖絶壁のようなものだ。
あまりにも膨大な労働が眼前に見えていて、一生やっても終わらないから、心が折れてしまうのだ。
とはいえ、カモシカのような発達した後ろ脚も蹄も付いていないのだから、途方に暮れるのも無理はない。
ピッケルとアイゼンが必要なのだ。
道具が在れば、恐らくこの登山者の目にも、断崖はずっと低く見えてくるのではないか。
つまり『無気力』は絶望ではない。
自壊する病だが、不治の病ではない。
人間の文明は大木のように多岐に成長した。
今自分が持っている知識は、正解なのか、どこと絡み合っているのか、最新情報なのか、判断が難しい。
あまりにも多くの分野への分岐があって、誰もが道に迷って途方に暮れる。
ピラミッドさながらに積み上がった大皿を前にして、大食漢だけが水を得た魚のように嬉々としている。
だがそれも、将来的に見れば、単純作業や重労働から順に、道具ができて出番は減っていく。
農業・漁業・畜産・工業がオートメーション化した場合、労働者は肉体労働から頭脳労働(機械の操作や保全)へ移行するしかない。
上條家の土いじりが生き甲斐の古株連中が、世を儚むのが目に浮かぶ。
だが、ハズキルーペをかけてコンピュータ制御された機器の計器を読んだり、作物の出来不出来をタブレットに入力している光景は、腰を曲げて田植えをする姿より人道的とすら思える。
これぞ未来のスマート婆ちゃんの姿だ。
情報大食漢でなくても、少しは何か食べなくては暮らせないが、無気力を患わないように、皺くちゃの人差し指一本で操作できる、使いやすい道具にしてあげたい。
人間は肉体的な進化を遂げたわけではなく、頭脳や情報や経験において進化した。
これからの人類が『働く』本当の意義は、人間の『知恵』あってこそであるべきだ。
僻村には高齢化問題もある。
心が元気なら高齢化しても悲観することはないが、痴呆症率が上がると嫌でもしんみりしてくる。
記憶には可塑性があり、人は誰も年を取れば相応に脳が消耗して可塑性が盛んになる。
だが、色んな分野の脳細胞を常に開発している人は、消耗した分だけ新しい脳細胞も開発されているから、ボケていないかのように見える。
その理屈から推察すると、想像力だけを駆使して無秩序に思考する脳も、一つ一つの発想が理性的に連携していないので、一か所が消耗し欠落した場合、接点を失いボケるという理屈になる。
脳の話に関しては科学的な根拠はない。
詳しくは脳神経医学者が研究している事だろう。
健康な老後、健康な社会では、誰もが勤勉な社会貢献者になり得る。
生きている限り創意工夫し、新しい人生の岐路へ挑んで、心を躍らせていれば、多少の衰えに意気消沈している暇はない。
上條家のご老体たちは最高齢で八十代後半なのだが、身体は衰えても、心は命ある限り燃え尽きずに暮らしてほしい。
老若男女全ての層が、この大樹文明の操縦士だ。
コンピュータを扱う現代に適応すれば、老いは時代からの隔絶ではない。
未来へ進む文明の軌道が破滅に向かわないよう、全人類が参加して舵をとるのだ。
「なるほど」
自由に思考が飛び交うところには、アイデアが生まれる。
思春期は自分探しだから不毛だと言う説もあるが、こうしてああでもないこうでもないと考えを巡らせることは、あたかも熱帯雨林を川が蛇行するかの如く、脳全域に栄養と潤いを行き渡らせる。
つまり、試行錯誤とはまさに知能の発達を実演している行為だ。
真澄の頭に、欠落とそれを埋めるためのアイデアが閃いたのだ。
例えば、生産活動や慈善活動、テクノロジーや人生経験を集積する、サイトを起ち上げるのだ。
ただ投稿するだけでは、これまでと変わりない情報や物資の『無償奉仕』だ。
このサイトの利点は、票数に応じて行政が『資本ポイント』を給付し、活動を支援する。
一般人が活動内容や生産品を投稿すると、それを必要とする大衆や専門家が購入のために投票する。
資本ポイントには、商品購入の代金から水道料金まで現金と同等に支払える、通貨としての価値がある。
『現金』と『資本ポイント』の違いは、『資本ポイント』は大衆が必要だと思うものほど儲かるという点だ。
もちろん、現金も価値を維持し続ける。
だから新たな通貨の出現によって所有を脅かされる心配はない。
資本ポイントは必要性を裏付ける通貨として、現金とは別に機能する。
買い替えや消費を煽る商法に市場を圧迫されることなく、安定した供給力を維持できるようになる。
無償で運営されている情報サイトも、資本ポイントサイトの投票が必要なサービスの一つだ。
資本ポイントで雇用や運営が賄えれば、会費や情報価格化の必要はなく、これまで通り無償で情報を提供できる。
過去に一体どの政治家がここまで画期的で斬新なアイデアを捻出できただろう。
私腹を肥やすことに頭を使うより、公共の利益に頭を使った方が、澄み渡った爽快感がある。
「うち、マジ天才っちゃ」
たとえ供給者にとっては生きるための商売であっても、WIN-WINでなければ押し売りであり、社会悪だ。
S駅に向かう下校路は、浜と海の絶景が望める。
先週支給された小遣いで、PSPの新しいゲームソフトをネット購入した。
この『蓋録』は、密かにブームになっている推理ゲームだ。
見所は『サイケデリックな世界観』と『謎解きのパズル性』だ。
絵柄も凝っていて、呪術的な指向を駆使する必要があるらしい。
最近ゲーム業界では、『赤偲綴』という、江戸時代末期から明治時代を舞台にした『鬼』育成ゲームが流行していて、『蓋録』はそのシリーズの5作目だ。
青海島の上空に黒雲を認め、真澄は足を止めた。
台風だろうか。
6月初旬の天候が激しくなるのは珍しいが、その雲は積乱雲に見える。
湿度が度を越していなければ、晴れた天気より、雨の方が好きだ。
海を見渡す防波堤によじ登り、鞄から持物検査での没収を経て放免されたPSPを取り出す。
いつでも持参しているわけではない。
今日は丙三が下校してくるのを待たねばならない。
駅から見えるここらで待機していれば、じきに通りかかるはずだ。
丙三は田圃を隔てた隣家の三男だ。
大友の家の子ども達とは、幼い頃から兄弟のように育った。
丙三はPSPを常時持ち歩いている手合いだが、どういう手段を使っているのか、持ち物検査で没収されたことはないようだ。
O高校は地域柄、農漁業の職能教育に重点を置いた高校なのだが、持ち物に関してはほぼ毎日検査を実施する厳格さで、非行に対して半ば恐怖症レベルで取り締まっている。
丙三「マー姉」
丙三がやってきた。
踏切を超えるくらい離れたところから、PSPを持った手を振り回して叫んでいる。
真澄「なんやあいつ。アホじゃのう」
鞄をガサガサ言わせながら駆けてくる、大きな仔犬だ。
余程良い事でもあったのだろう。
丙三「買うちゃった」
防波堤に身を乗り出して真澄のPSPを覗き込む。
丙三「あ。ああー」
画面を見て声を上げる丙三。
抗議するように画面を指さすが、あーあー言うばかりだ。
真澄「そないあーあー言いないや」
丙三「儂が先じゃと思っとったけえ」
丙三は防波堤に肘をついて、PSPのゲームソフトを起動させた。
丙三「ゲーム画面見しちゃろうと思ったんに」
真澄「はあ見ちょるよ。昨日からじゃけど」
真澄も丙三の画面を覗き込む。
以前、買うなら『蓋録』にすると意気投合していた通り、お互い『蓋録』のオープニング画面まで、揃えたように一緒だ。
真澄はニューゲームの文字を選択しながら、
「はあプレイしたそ?」
丙三のオープニング画面に『つづきから…』の文字を探した。
やはり表示されている。
週末に買って帰って、すぐに始めたのだろう。
丙三「まあ、最初のところだけ。親に時間制限きめられよった」
真澄「何時間?」
丙三「1日2時間まで。まあどこの家も、言うだけは言うっちゃろ」
真澄「守る者はおらん」
笑うが、自分のゲーム画面をちゃんと見る気になれず、妙な間が空いた。
丙三「あれ、考え事」
丙三は怪訝な顔をした。
ふと思いつき、咳払いをする。
流し目を向けて言った。
真澄「ちょっと見せちゃって」
『蓋録』のゲーム画面は最初から少しサイケデリックだ。
それはバグではなく、シリーズの全てに共通したデザインなのはわかっている。
自分のPSPを丙三に持たせ、丙三のPSPを奪う。
丙三は既にデモムービーを終え、最後にセーブした囲炉裏の間のシーンに進んでいた。
丙三「あ、ちょっと。何しよるん」
真澄「どこまで進んじょるん、て見とるだけじゃろ」
そう言いながら、真澄はショルダーバッグを背負い、防波堤から駐車場へ飛び降りた。
丙三「え、え?」
丙三は寄りかかっていた身体をのろのろ起こし、真澄を目で追う。
真澄「今日一日だけ。うちのフタロク、好きに進めちゃってええから」
丙三「いや、何言うとるそ」
真澄「交換しちゃろ、交換。明日返すけ」
幼馴染とはいえ、女子の秘密を覗けるかもしれない、こんな恰好の機会だ。
丙三は戸惑いながらも事態を察し、真澄を追うのをやめた。
丙三「いや、マー姉のじゃったら、間に合っとるけ」
背後から叫んでいる。
これで大友にも例の現象が起こるようなら、真澄のPSPが壊れているだけだ。
事情を説明しても、どうせ信じないだろう。
丙三「保存しとるデータ、全部見ちゃるけえの!」
真澄「ええよ。変なの見えたら報告しちゃって」
何も知らない丙三に向かって、目にするかどうかもわからない現象の伏線を叫びながら、駐車場を駆け抜ける。
海岸線沿いのS駅のホームに立つと、青海島にますます低く垂れ込めた積乱雲が、湾へと接近してくるのが見えた。
「あれ、お母さんおるん」
帰宅して玄関の鍵をかけながら、母のいつもの靴があることに気付いた。
「お母さん」
台所の照明は消えている。
寝室にもいない。
トイレから水を流す音がして、タオルを持ったまま母が出てきた。
「はあ夏じゃのー。雑菌臭がしとる」
「何ぞあったそ、今日早ない?」
冷蔵庫の前に満杯のレジ袋が置かれている。
そういえば、母は昨日から微熱があると言っていた。
真澄は冷蔵庫を開け、買い物の荷崩しを手伝いながら、夕食の献立を推測した。
どこからか弾けるような軽やかな音がし始める。
「いけん、洗濯物干しちょったんじゃ」
母親は物干し場へ足早に出ていった。
大窓を開けると、バタバタと豪雨の音に変わった。
日没前だが室内も真っ暗だ。
「パクチー」
野菜の小分け袋の表に印字された文字を読む。
メニューは母の得意な肉団子入りスープだろうか。
やはりそうだ、挽肉とチューブ入りのおろし生姜もある。
数秒の間に雨は激しくなり、雷鳴までし始めた。
干していたシーツとバスタオルを抱えて、母が室内へ入ってきた。
「一瞬でこんなに雨びっしゃじゃ。一日干した甲斐がないっちゃ」
レジ袋の中に内田病院の飲み薬の紙袋も放り込まれている。
「まだ熱あるそ」
真澄がレジ袋から薬を取り出して母を見ると、母は発作のように咳込みだした。
カーペットに手を衝いて、濡れた洗濯物の上に倒れこむ。
グラスに水を注ぎ、急いで母に飲ませるが、ゼェゼェと喉を鳴らしている。
「甘く見ちょったぁ、やっぱり風邪っちゃね。あ、やけどPCR検査は陰性じゃったけえ」
真澄の手から薬袋を取り、ぐったりして寝室へ引っ込んだ。
濡れタオルと水差しを盆に載せて、父母の寝室へ行くと、母が布団を敷いていた。
「ええよ、うちがやるけえ。お母さんは休んどって」
「息が苦しゅうなってきよった」
「いけんのう。じっとしとって」
盆を台に置いて、母の手からシーツを取る。
「ありがとうね。ほんまに何じゃろうね」
「経験上言うんじゃけど、喉が腫れとる時は仰向けに寝んほうが楽っちゃ。
そうじゃ、少し体起こせるようにしといちゃろう」
来客用の枕を4つ出して重ね、母を寝かしつける。
「ほほ。経験上じゃって、真澄も大きうなったわ」
「スマホおいちょくけ、用があったら呼びさん」
「はいはい。ナースコールじゃの。勤めに出るゆうんで買うたけど。
何でもお金に余裕があるうちに準備しとくもんっちゃねえ」
真澄は見様見真似で肉団子のスープを作りながら、食卓でPSPを始めた。
セーブデータを起動すると、丙三の見ていた画面が現れる。
ゲーム内のキャラクターであるお爺さんの語り部が、鬼の血を引く子どもを説得するシーンだ。
昨日はここで妙なバグが発生して、ゲームがシャットダウンしてしまった。
『お前には鬼の血が流れておる。
人を見下し、脅かし、盗んで
独り占独り占めにせんと
自分の自分の価値も覚えられんられん。
られお前は親に見捨てられた。
あああああわれな子じゃ。膜細胞膜ながいない。
この世にはお前のような
親に見捨てられた子の世話を
引き受けてくれる余裕のある
大人はおらん。おるがおらん。
じゃがもし
それでも自分のいのちを無駄にせず、
生きたいと思うなら、
お天道様は膜膜見捨てはしない。
天罰と思うは安直じゃ。
兆しがある。兆しはあるが裏はない。
膜膜膜膜膜膜膜膜あらぬ。さがせ』
「なんじゃろ。やっぱりソフトがバグっとるっちゃね」
それにしても不気味なバグだ。
画面がフリーズし、どの操作ボタンを押しても反応がない。
文言もほぼ昨日と同じで、後は強制終了することしかできなかった。
ネット上の情報にはそのような報告はなかったが、発売したばかりのゲームだし、丙三のソフトでも起こるのであれば、今後続報で上がってくるだろう。
長門の海は暴風雨が明けぬうちに朝を迎えた。
早めに家を出たため、日頃から空いている山陰本線も通学時間から外れていて、人っ子一人乗っていない。
海沿いを通る電車なので、悪天候は運行状況に直撃する。
K駅を出て、いつもの散在する田圃や民家の隙間から、水平線が時々覗くが、何か景色が違って見えた。
台風で荒れている景色とも違う。
ビーチハウスを過ぎると、視界一杯の砂浜と嵐が叩きつける海が見えるはずだった。
実際に見えたのは、一面の白い泡だった。
水平線が歪んで見えたのは、盛り上がった泡が視界を遮っているせいだった。
津波を見た事はないが、海岸線は明らかに競り上がって輪郭をなしていない。
N線道路と砂浜を分けるガードレールに被さるようにして溢れ出し、もう片車線は海と同化していて、沸騰する牛乳さながらに目に見えて嵩を増しながら、風に千切れて飛び散る。
すぐ傍まで水位が上がって来ているように見えるが、砂浜から道路までの高さは、低い所でも二メートルはある。
霧が出ていて視界は良くないとはいえ、浜は見渡す限り覆い隠されていて、泡しか見えない。
真澄は座席から跳ね上がり、海側の窓に貼り付いた。
驚嘆の声を上げるが、言葉にならない。
「嘘、どうなって…」