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正体  作者: ホソチヂレメンノビタ
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生魚について

ところで、最近、例の悪夢の前半部分を、動画配信サイトの中で発見してしまい、量子は失笑した。


何となくそんな気はしていたのだが、あれは核酸の中の様子をCGで再現したものだったのだ。


ただ、量子が夢を見ていたのは八歳の頃で、この動画はつい二年前に制作されたものだから、夢の方が八年先行してしまっている。


だからやはり、あれは予知夢だったと言っても良いのではないだろうか。


動画のCGを何度も見返しているうちに気が付いたのだが、夢の中で最も記憶に焼き付いている器官が、描かれていないのだ。


その器官は何なのだろう。どういう分子で構成され、どういう役割をしているのか、単なる空想世界の誤差で実際には無い器官なのか。


だがあれが予知夢だというなら、発見につながるのではないか。




細胞や核膜の中の構造など小学生でも知っていると思いがちだが、実は今年に入ってからも、未知の器官と機能が新たに見つかったりしている。


新発見といっても、その分野では多用されていて少しも新しくないものもある。


例えば、細胞培養や観察の技術は目覚ましく進歩した。


生き物の生態を知る上で「ゲノム解析」が必要であることを認めない人はいないが、解析するための「ゲノム編集」は許容できない人が多い。


ちょうど良い表現が見つからず理解が得られなくて、それを使わないで冗長な手順に甘んじることはいかにもありがちだ。


結果、方法は現場でだけ共有され、積極的に公表されない。


「201x年、コアラのゲノム解析が完了」


と学界の現在が年号的に報告される。



一般人が専門知識を徒に怖れるのは必要な五割程度の前知識も持っていないためだ。


ゲノムにまつわる情報量は前知識なしに話を聞くには多すぎる。


いよいよ一般人もその事実を受け容れなければならない段階にくると、


「この技術は是々数々の成果を出しており、業界では十数年前から常識」


などと言葉を添えて公表する。


一般人の日常にも、立証されたわけではないが経験上当たり前のことは溢れているから、納得せざるを得ない。


しかしその代償として、専門分野と一般社会の間に、埋め合わせようのない深い溝ができる。




「コアラのゲノムが解析完了か…そうするとアレに使えるな」


と思い浮かぶ人はまずいないが、例えばタンパク質を切断するのに使われるのが大腸菌の酵素なら、コアラのゲノムに治療の鍵が潜んでいても不思議はない。


自分に全然関係ない、どうでも良い研究などないのだ。


時には、人は自分や家族が病気になった時だけ、科学の進歩の拙い足取りを批難する。


「博学の徒らが、あらゆる視点から考察し、手間暇を割いて、粘り強く取り組んできた結晶」


に対してだ。


「コアラのゲノム解析でさえ完了しているのに、自分の遺伝子変性疾患を治療する薬がないなんて、怠慢だ」


そんなことを憚りもせず言い出す。


遺伝子変性症の創薬には、それこそ「ゲノム編集技術を惜しみなく」使わなければならない。


それでも必要とあれば然るべき機関に許可申請を出して、創薬に着手するのだが、有効成分の特定から、疾病に絡んだノックアウトマウスの発生から、あの手この手を試験していく根気が必要なのだ。


一朝一夕という訳にはいかない。




どんな壮大な分野を研究していようと、同じ人間だ。


一般人は生活を維持するために職業に従事しているのに、専門家だけが人を救うために人生を犠牲にする義務はない。


科学はいざという時、より信頼に足りる「根拠に基づいた判断」に繋がる。


そうと信じるから、人からは、「無駄だ」「役に立たない」と蔑まれても、弁証法による地道な啓発を続けるのだ。



「だから、箱Bにかかる摩擦力は…そう、こっち向き」



三年生の教室は三階で、廊下の突き当りの量子のクラスより先は、壁ごしに空に繋がっている。


こんなに高くまで澄んだ空なのに、日本海側では大雪が積もり、西の土地では飛散する微粒子の計器が振り切れている。


黒板に当たるチョークが、矢印をスタッカートに刻む。


階段で隔てられ孤立したこの教室は、音の響きが澄んでいる。


教師が静止摩擦力について説明する声は(芦原ではないけれど)BGMとしては適度に気が抜けていて悪くない。



授業中に量子は尚も、一途な科学者の葛藤を思う。


思わず、目頭が熱くなってくる。


疑問は、人間の知性の証しだ。


科学者くらい人間らしい職業が他にあるだろうか。


無論、科学者の頭には人間離れした情報が詰まっているから、得体が知れないことを言い出すこともあるが、どうして世間というのは、努力する他人からは、いくらでも搾り取ろうとするのだろう。


問題を解く気がない方が良いのだろうか。


根拠もなく疑問の芽を踏み潰す大衆の方が、よほど何をしでかすかわからないと思うが。


隣の席で舟を漕いでいた新関にいぜきは、量子が泣いているのに気づき、葬列でも見たように顔を背けた。


無性に億劫な気分が押し寄せる。


代々木公園の上空あたりで、雀だか椋鳥むくどりだかが雁群を成している。


城壁みたいな学校の周りの石段に飛び乗って、走って行ったら、一緒に中国まででも飛んでいけそうなのに。




負のスパイラルはどこにでもあるのだ。


「できて当然」か。


お互いに日々の積み重ねを労わない意識を貫いていて、進歩がない。


認めれば首でも取られると思っているのではないか。


科学者たちはもう、バレたら世界中を敵に回す覚悟で、好き勝手にやり始めるのではないか。


投げやりになれば、もはや善意とは評し難い。




どんなに抗っても、テクノロジーは複雑化しているのだ。


もとい、思ったより複雑だったことに気付き始めてしまった。


例えば、生体組織の反応を想像するのにスイッチを押すような単純操作を期待しがちだが、そういう構造にはなっていない。


膜を隔てた物質の濃度比に十分な差が生じるまでは、緩やかに反応するか、まったく反応に至らないで、量的な累積を静かに待ち構える。


突然、短気を起こして電源を落としたりしない。


人間そのもののように、自分の動作を上昇に限定して、下降の動作を放棄してしまうような動きはしない。


臓器のひとつひとつを意識して動かす必要が無いように、食うに困って議会を襲撃した人をボタンひとつで処刑する必要もない。


全ての器官は繋がっていて、連動して動いている。


あの空とこの空は、繋がっている。




組織から細胞へ、細胞から分子へ、より小さな物質に目線を移しても、そこにいる以上、ONにだけ働きはせず、環境が変わればOFFの働きも担う。


知性が産み落とした万能の手法も、手にした瞬間から惰性になる。




人間社会で見ると、採取欲求の飢餓を、情報獲得分野で埋め合わせているのに似ている。


情報を持っている優越感が報酬であって、情報を美味しく調理することや、情報を隅々まで味わうこと、栄養的意義、未来への発展性などにまで関心が到達しない。


つまり情報は所有感を満たすためにだけ働き、所有者は活用する場を得ようとしない。


所有者にとって情報は、盗られないよう幾重にもセキュリティで固めた金庫に厳重に保管するべきものなのだ。


その情報を必要としている人と分け合うようなことをすれば、たちまち飢えた人が群がって身包み剥がれてしまう。


情報が脳にとって捕食と同じであるとしても、食べないで埋めて、リスのように埋めた場所から取り出さないのでは、空腹は満たされるはずもない。


顕微鏡の中の細胞は目まぐるしいほど代謝していくのに、現実の世界はまるで、調理して栄養にすべき生魚を鍵付きの冷蔵庫にしまい込んだまま腐らせるだけで、親たちは子どもが冷蔵庫を開けようとする手をピシャリと叩いてこう言う。




「ここに食べ物は入っていない。


こんなものを食べれば腹を壊すぞ。


腹が減ったなら『干し椎茸』を食え。


いいか、ただ食べるのでは駄目だ。


必ず乾いたままで、ギネスを塗り替えるほど食べろ。


忍耐力を鍛えるんだ」




乾いた『干し椎茸』などそう大量に食べられるものではないと思うが、驚いたことに子ども達はとにかくよく食べた。


育ち盛りに栄養が偏っていることは明らかだった。


沢山の犠牲者が首を吊って世を去った。


なんと厳しい時代であることか。




そんなやり方だから、進歩するほど関心が遠のいていく。


細やかな人の情緒は、科学が予測可能性を次々に提唱するのに反比例して、予測不能な混沌の産物という説が優勢になっている。


生魚の例に言い換えるなら、予測可能性なんてものは、塩焼きにして仏壇に供えるしか用途がないのだ。


本来は、人が入り乱れた日常生活ですぐにでも役立つ情報なのだが、まず魚を食べたことがないし、生臭いし、どうせ腐っている。


心理学などに精通していて上手く焼く人はいるが、焼いた魚は献上して、学者としての地位を固めるのに活用しているようだ。


それ以外の目的で魚を焼く人には、実際、滅多に出くわしたことがない。




物事を科学的に観察すると、事実が浮き彫りになる。


事実から摩擦が生じることもあるが、摩擦がなければじっくりと観察可能な接点もできない。


問題は、海綿の個体同士がするように、相手も自身を観察してくるし、できることなら取り込んで融合しようとすることだ。


だが融合することは必要条件ではない。


それに接点には、ひとりひとりの成長につながる鍵も隠されている。


なんだって『干し椎茸』など齧って、憂鬱を反芻しなければならないのだ。


今時のドライな世の中では、最悪集団から距離を置いてしまえばいつでも回避できるではないか。


そんな集団より、世界の至る所で天災が、この世の終わりを想起する規模で起こっている事の方が余程恐ろしい。


天変地異は誰ひとり容赦しない。


地震、放射能汚染、災害そのもので命を落とすのは一瞬だが、負傷し弱った状態で避難所や医療機関に隔離された、その後の長い集団生活が心身を擦り減らす。


因みに量子は、そんな時は迷わず単独行動を選ぶ。


そもそも自分だけ生存すれば良いなら、人の手を借りる必要はない。


量子の見たところ、集団があれば10人中少なくとも3人は、焼き魚職人の地位を確立することに腐心している者がいる。


10人中3人が魚を焼き出すと、オセロのように波及して全員が戦場であると認識し「やらなければやられる」と思うわけだ。


戦場にしたくなければ、誰かが戦場ではないというもっと強い信号を発信して、中和しなければならない。


量子も中和しようと思えばできないことはないが、今の状況では無理だ。


たとえ量子が不満を持っていなくても、クラス全体が量子を「イジメを受けて不満を抱えている人」つまり反逆分子と見做しており、例のように全否定態勢で扱ってくるのが目に見えている。


だが量子が集団から距離をとるのは、何も爪はじきにされるからというわけではない。


弱肉強食において最も犠牲にされそうな他力本願の人たちが、集団での揉め事や目立つことを恐れ、支配者に賛同し、本来の解決策を避ける傾向にあるからだ。


賛同が得られないのでは、災害時に助けが必要な老人や病人や子どもらを助けたくても助けられない。


かくして、パニック映画によくある、パニックに乗じて体制がテクノロジーを独占し、民衆を搾取支配する構図が成立する。


魚焼き職人の独占前提では、魚知識は一般人にとって無価値だ。


つまり集団の安全を確保するには、優位独占と他者犠牲が処世術として認められている現状そのものを質す必要がある。


そこを疑義せずに、技術が本来の必要性を取り戻すことは難しい。



要するに、不効率だ。


量子が現代文明に求める創造的価値としての効率性が、十世紀前から人間形成に反映されていない。


もちろん人間は合理的な生物ではないから、合理化できない部分が十分維持されている社会は健全といえるが、日々発見され溜まり溜まった情報を少しも活用できていないという点では、人類の知性に失望せざるを得ない。


巡り巡って、一般人は技術革新に関心を持たない。


こんなことでは、ひとたび南海トラフ地震に見舞われでもすれば、流通は途絶え、人食い人種は蔓延はびこり、人々は正気を失う地獄の沙汰になるに違いない。


また舟を漕いでいる新関が、「僕を食べる気か」と怯える様が目に浮かんで、黒板が船酔いのように歪んで見える。


千年か万年前には確かにそうだったように、人は礼服か平服かに関わらず、もっと血の通った躍動感のある理性を纏えるはずだ。


それはきっと無様を晒して、人が無様なのは愚かだからではないと知った時に、聖人の袈裟みたいにその人の勇気の象徴になるものだ。


一説に欧州では、人々はそれを実在する気高さだとはもはや信じないそうだ。


大海に漂流者を見つけても、口をポカンと開けて通過してしまうに違いない。

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