貼紙
俺ももうすぐ大人になる。
誰か手本になる大人がいると、勝手がわからない社会で、あまり大きな恥をかかずに済むだろう。
身近な大人の筆頭にいるのが父だが、生憎俺には、父のような大人になれる自信は全くない。
まず父は長男で、俺は順番でいくと三男だ。
去年で勤続25年になる父は、今時珍しいほど真面目で一本気、浮気ひとつしたことがない。
さらに、父母は20年以上の付き合いなのに、未だに敬語で会話している。
サザ〇さん一家では波平夫婦の世代に相当する時代錯誤だ。
兄ならいざ知らず、俺は恐らく一つとして真似できない。
見た目から性格まで、あまりにも似ていない。
このことに気付いたのは中学の時で、今でも付き合いのある当時の友人等に話したところ、何かにつけて敬語家庭の問題と絡めて、コケにされるようになった。
例えば、弁当に正月の残りの伊達巻が入っていたら、
学校にお節を持たされるとは流石ボンボンは違う
などとからかわれる。
その年は、子ども等が伊達巻が好きだからと5本も買い込んだので、毎食出てきて飽き飽きした。
まだ幼かった俺には堪えた。
そういう訳で父に関しては、真似るのが難しいだけでなく、真似たい気持ちもない。
小中学校時代にお世話になった先生が何人かいて、中には自分の将来像に遠からぬ男性教師もいた。
当時からして一対一の深い観察対象というほど親しくなかったのだが、母校に顔を出す機会もなく、今では疎遠になってしまった。
親戚や父の兄弟は、東京から遠く離れた鹿児島にいて、たまに行き来するくらいだ。
母方は女系だから言うに及ばない。
そもそも自分がじき大人になるのだと意識するまで、社会人の見本が必要だということに思い至らなかった。
先日の化学部の一件で、芦原のような悪戯な大人もいるのだと、つまり大人との接点を始めて実感したのだった。
ただ勤務地と自宅を往復しているのではなく、大人にも色々考えがあるのだ。
時には彼らも、大人らしいかどうかなど考えずに、事を企てることがあるらしい。
いそいそとゴミ袋に塩化リチウムを詰め、子どもが興味を持ちそうな家の前に置いてくる不審行為の間、芦原は決して意気消沈していたということはないだろう。
芦原の行動に、俺が参考にすべき点はあるだろうか。
例えば生徒への並ならぬ興味においては、俺がいつか図らずも子どもを育てる立場になった時、あんな行動をとるべきなのだろうか、否。
空木の言う通り、人の心を弄ぶなど道徳に反する。
けれどそうしないならば、やんちゃな盛りの高校生を野放しにすれば、佐上の言うように他所にとばっちりを与えかねない。
そういう意味では、芦原の描いた策略は見事というよりほかない。
自らの将来を企画するにあたり、まず道徳・目的・戦略は念頭に置かねばなるまい。
まだ検討段階ではあるが化学分野を例に挙げると、代替エネルギーの中でどれが最も実用的で、倫理に適い、世界の目指すべき方向にマッチしているかだ。
それを俺が判断する。
人生の舵取りをするとは、そういうことなのではなかろうか。
これはいよいよ大それた問題になってきた。
何故なら、道徳・目的・戦略を立てるには、世界が目指すべき方向性までを推し量らなければならないからだ。
高校生には荷が重い。
『大器晩成』という言葉には、寛容なニュアンスがある。
道徳・目的・戦略と上手い具合に接触している点を、化学の分野に見つけた時、初めて俺は化学を志そうと決断できるのかもしれない。
緩やかに未来の手ごたえが感じられてきた、20x0年秋。
世界は例を見ない感染症拡大の緊縮ムードに飲まれている。
どこも不景気で、苦境の回避策に、飲食店など宅配に力を入れているのが目立つ。
木枯らしが吹く代々木八幡の商店街も御多分に漏れず、歩行者はまばらだがデリバリーの自転車だけは往来している。
そんな折、口数がめっきり少なくなった父が、平日だというのにスウェット姿で居間に座っているので俺は驚いた。
日下部家始まって以来の珍事だ。
二階の自室から階段を降りると、父がダイニングテーブルの椅子を引いて立つところだった。
俺は居間のガラス戸の前で立ち止まり、室内の父を目で追った。
父は俺に気付き、所在なさげに頬を強張らせて笑うと、缶ビールを片手にTVの前のソファに身を横たえた。
「あ~あ」
聞えよがしな溜息をつく。
俺はガラス戸を開け、居間へ入っていった。
「何かあったの」
冷蔵庫を開け、腹の足しになりそうなものを物色しながら、俺は言った。
唸る父。
回答に窮している様子だった。
「お前が不安がることはないんだが、ちょっとな」
「なんだよ、クビになったの」
このご時世だから、さほど要領の良いタイプでもない父が正社員ということで職を失わず暮らしていられたのは、景気がそこそこ維持されている証しのようなものだった。
正直で真面目だから人には好かれる父だが、流石にそうなると母も動揺したに違いない。
「偉く察しがいいじゃないか。まあクビと言っていいよな、お暇を貰っちまった」
「会社で感染症患者が出たというんじゃなくて?」
「そういうことなら、会社がそう言うだろう。
まあ、自宅で有給を消化する間に、次の職を探せってことだろうな」
「母さんは何て?」
「怒られちまった」
父は眉を寄せた。
「ずっと働いてたんだから、こんな時くらい家でしばらく水入らずをやってもいいんだけどな。
母さんはすぐにパートを探すって」
「退職金とか出るんでしょう?」
「出るけど、家のローンもあるしな」
「そういう時、残りは一括で請求されたりするの」
「そんなことはない。今まで通り、払えばいいんだ」
不謹慎だが、俺はむしろ良かったような気がしていた。
毎日同じパターンを繰り返している父は、男を捨てた人のように見えた。
世の中にはもっと生き生きとした中年もいて、自宅の前で車を磨いたり、少年野球の引率をしたりして楽しそうだ。
「何か始めるにはいい機会だね」
そう言うと、父は目を丸くした。
「驚いたな。お前、随分落ち着いてるな」
「兄貴は知ってるの」
「ああ、やっぱり怒ってた。当然だけどな」
そうではない。兄は父を見捨てた世間に腹を立てたのだ。
なぜなら、兄は真面目な父母を手本に育ってきた。
父が見捨てられるのは、自分が見捨てられるのと同じことなのだ。
父は渋い顔でビールを飲む。
「しかし、x0ウイルスってのは一体、何なんだろうな」
それは恐らく世界中の人の疑問だろう。
答えは少なくとも一般社会のどこかに転がってはいない。
ただ誰も病気にはなりたくないし、そのためには行政の指導を受け入れるしかない。
政府のやっていることも支離滅裂だ。
感染拡大を抑止しながら、地方には観光の財源確保を図ったりしている。
俺たち庶民は、事情を忖度して指示の通り動くことしかできない。
母は食費が五割増しになったとボヤくし、その上今度は、父が職を失った。
国民の収入は途絶えつつあるのに、復興といって消費を促しているが、それなら俺たちの家計は誰が補填してくれるのだろう。
「とにかく、何もしないのは精神衛生上よくないでしょ。
一階のトイレの便座が壊れてるから、修理でもしたら」
「おい、お前オニだな。
こんな時くらい、少しのんびりさせてくれよ」
「お父さんがそんな調子だから、みんな心配なんだろ。
材料はネットで注文しとくから、届いたら一緒にDIYしよう」
一階の便座はもう三ヵ月前に壊れたまま、ガムテープで補修して延命していた。
「なんだか立場が逆転だな。お前に励まされるなんて」
それでも父は妙に嬉しそうだ。
兄は情報処理の大学に通っており、根っからのインドア派だ。
体格はヒョロヒョロだが成績は優秀で、几帳面で融通の利かないタイプだ。
上には姉もいて、都内に部屋を借りて一人暮らしをしている。
アルバイトで生計を立てるというので、独立する時は父母と少し揉めたが、我が家は子ども部屋が二部屋しかないので、渋々了解を得た。
そんな訳で、今では俺にも個室を占有できる権限が与えられている。
階段を上がって右手の突き当りが二階のトイレで、左へ順に兄の部屋、俺の部屋が並んでいる。
兄の部屋はいつ見てもドアを閉め切って物音ひとつしない。
兄については、生まれた時から一緒に暮らしているが、正直、時々不気味に感じることがある。
食事の時くらいしか顔を合わせないのに、俺のことをすっかり見透かしているようなところがある。
それだけでなく、
『あまりみっともない真似はするなよ』
とか、
『いつどこで人に見られても恥ずかしくない行動をしろよ』
とか、どこか俺のことを恥じているような言い草をするが、それがいつも、俺が人知れずささやかな失敗をした後だったりするので不思議なのだ。
単にのびのびと育った俺が羨ましいのかもしれない。
それぞれの生き方は自由だと思うが、兄には兄の気負いというものがあるのだろう。
部屋をノックしてみたが、兄は不在のようだった。
俺は自室へ戻り、スマートフォンを起動した。
ショッピングサイトで『便座』と検索すると、便座が幾つもヒットしたが、一店舗から出品されているようで説明も写真も同じものだった。
検索ヒット率を上げるためなのか、価格に送料を含めたり含めなかったりした設定で、在庫の数だけ掲載ページを複製したようだ。
ふと思い立ち、俺は大型ショッピングサイトを介さず、建材店の通販サイトを探してみた。
木製の洒落た便座を扱っている店舗もあり、大型ショッピングサイトより値段も商品も選択肢がありそうだ。
「Amaz〇nに出品すれば、もっと集客できるのに」
知ったかぶりをしながら、『蔵人.com』という建材通販サイトで、気に入った便座を注文した。
店舗からメールで送られてくる振込み先通知を待っていると、兄が帰ってきた音がした。
自分の部屋に荷物を置くと、兄は俺の部屋へ入ってきた。
「よう。また勉強もしないで、ゴロゴロしてるな」
「勉強もしてるよ、たまには」
兄は眼鏡を外し、鼻筋を摘んで疲れた表情だ。
要件は大体察しがついている。
「お父さんが退職するんだって?」
「聞いたか?
まあ、俺ももう大学生だし、お前が心配することはないから安心しろ」
「だけど兄貴の学費だってあるでしょ。
お母さんがパートに出るって?」
「今日、ハローワークに行くって言ってた。
こういう時は、家族みんなで力を合わせないとな」
「俺、お好み焼き作れるよ」
「お前にやらせるとロシアンお好み焼きになるだろ。
お母さんだけじゃ心許ないから、俺も何かバイトを探すつもりだ。
いずれにしろ、そろそろやろうと思ってたし」
「いいね、ロシアンお好み焼き。考えてなかったけど」
「やめろよ。
だから俺も帰りが遅くなるけど、お前は自宅警備員としてしっかりやってくれよ。
大学も絶対いけるようにしてやるから、これに乗じて勉強を怠けるなよ」
「退職金も出るって言ってたし、貯金も少しはあるでしょう。
バイト、何やるの」
「まだわからない。居酒屋か家庭教師かな」
「楽しそう。
兄貴もまだ若いんだから、楽しくやりなよ。
俺のこと気にしないでさ」
「生意気言うな。
朋子はまだ知らないよな」
「さあ。俺もさっき聞いたから、まだじゃない」
「親父にはバレないように、そっと連絡入れておくか。
それじゃ、今までと変わりなくメリハリのある生活しろ」
兄は背中で言うと部屋から出ていった。
それから二週間経った。
父が再就職のために動き出す気配はない。
毎日、近くの公園を散歩したり、夕飯を作ったりしている。
レパートリーは少ないが、学生の頃に居酒屋の厨房を手伝っていたことがあるらしく、料理は割と凝っていた。
母は昔取った杵柄で子どものバレエ教室の助手の仕事を見つけ、僅かながら収入を確保した。
兄は家庭教師を始めたが、まだ生徒が一人で二教科だけなので、大した収入にはならないようだ。
口コミで子どもの親を紹介してもらえるかもしれないと言っているが、学校の片手間でそう多くの生徒は担当できないだろう。
ネット通販の『蔵人.com』からメールの返信はない。
何度も購入履歴ページを開いてみたが、発注済みとなっており、その段階から次の配送手配に進む気配はない。
通販サイトの末尾の方を見ると、企業情報があり、秦野の本社所在地と電話番号が記載されている。
何度か電話をしてみるが、呼び出し音は鳴るものの誰も電話口に出る様子はなかった。
諦めて注文した便座をメールでキャンセルし、今度はもう少し近場の、調布に店舗がある『ホームパーツASO』というサイトで、同型の便座を発注した。
自動返信の注文確認メールが届くが、こちらもそれっきりだ。
1週間待ち、別の取扱い店の通販サイト『ロハス滝川』と『南町田アウトレット』に直接電話で在庫確認をしようと考えたが、どちらも営業時間外のアナウンスが空しく流れるだけだった。
ネット通販サイトというのは企業の規模が見えない。
従業員が数名しかいない個人運営であれば、オンライン注文は優先度が低く、普段は施工作業や仕入れなどで忙しいのかもしれない。
蔵人.comは無店舗で、倉庫から直販と記載されているが、他の三つのサイトは全て、サイトに登録されている住所に実店舗があると書かれている。
この際、俺が直接店舗へ行って買ってくれば良い。
昼間でも冬の寒気が目立ってきた土曜、俺は痺れを切らし、スマートフォンのマップを開いて、調布にあるホームパーツASOを訪ねてみることにした。
丁度暇を持て余していた同じクラスの岸 和晃がLINEをしてきたので、同行することになった。
「ついでに陥没した道路も見物しようぜ」
カズが言うのは、SNSニュースで見かけた大深度トンネル工事の話だ。
調布の市街地で地面が陥没したらしい。
いかに暇とはいえ、他人の家の便座を買うために調布くんだりまで電車に乗って行くだけでは、物足りないのだろう。
青空が広がる日だが、まだ今年の寒気に慣れていない二人には厳しい北風だ。
「便座ショッピングなんて、自慢できるぜ」
カズは俺の友人だけあって少し観点がずれている。
俺は「どこが」などと笑いながら駅前ロータリーを見まわした。
ビルはまばらで、見晴らしの良い空が広がっている。
ロータリーを避けて左の道を進むと、新興住宅街らしきパステル調の地域にやってきた。
自宅周辺は古びた商店のテナントやアパート、見上げると高層ビルばかりの地域なので、郊外らしい景観に馴染みがない。
区画が広いのでどこも金持ちに見える。
その辺りを過ぎると、今度は昭和頃に建てられた家々が少しノスタルジックな地域に入った。
道幅の広い十字路の角にパチンコ店、その駐車場の金網を隔て、プレハブのような建物が見えた。
「あそこか。ホームパーツASO」
「ああ、やっぱり閉まってる」
照明は消え看板は下ろされているし、駐車場の入り口にロープが張ってある。
店頭の自動ドアに、養生テープでベッタリと貼られた見慣れない貼り紙がある。
営業時間やアルバイト募集とは違う。
ロープをまたいで敷地内へ入ると内容が見えた。
『〇〇銀行 譲渡担保権目的物件
令和2年8月3日』
『告示書
…動産を持ち出す場合、刑事罰を受けるものとする。
有限会社ホームパーツASO代理人弁護士』
「わぁ、嫌なもん見ちゃった」
カズが声を潜める。
「倒産かよ」
実際はそれが気になって来てみたというのもあった。
カズの言うように「やっぱり」というのが正しかった。
傷んだ建物の暗い店内を覗いてみると、商品は並んだままで、すぐにでも営業を再開できそうに見える。
「こんなに商品残したまま、倒産するもんなんだな」
自宅から遠く離れた郊外で、パンデミックの煽りを受けた世知辛い断片を目の当たりにして、今更のように実感する。
「辛気臭いな。行くか」
建物を背に歩き出すと、カズが慌てて追ってきた。
「なんだ。てっきり周りを探索したりするのかと思った」
「するかよ」
「しかし何だな。おっかねえよな、感染症ってのは」
「お前はオッサンか」
カズがやけに俺の顔を覗き込む。
「何だよ、何怒ってんだ」
「怒ってねえよ」
「怒ってるだろ、ほら」
「そうかな」
正直、少し放っておいてほしい気分だった。
「何かあったのか」
カズは少し立ち止まって、俺が止まらないのを見ると、また小走りに追い付く。
俺は親父のことを考えていた。
「気にすんな。見に行くんだろ、陥没したとこ」
その場所は各駅停車で何駅か戻った市街地で、身長ほども陥没したところに水が溜まっている様子はそれなりに衝撃的だったはずだが、俺は半分うわの空で何も感じていなかった。
何しに行ったのだろう。
本当に世間が言うほどの危機なのか、確かめたかったのだろうか。
少なくともその効果は十分にあったと言える。
まるで自分の家に貼り紙を貼られたみたいな気持ちだった。
父がサラリーマンだっただけで、同じことだ。