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正体  作者: ホソチヂレメンノビタ
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そこは車も入れない、家と家の間の細い通路だ。


門扉の前にはずっと半透明のゴミ袋が置かれているのだけれど、そこはゴミ収集車が集めるゴミ置き場ではないらしくて、いつからか忘れたが少なくとも1年以上放置されていた。


その家の前を通ると、他のどの家でも感じたことがないような、“吸い寄せられる”ような感じがした。


心霊現象的な逸話がなくても、その古家には間違いなく何かヤバい気配があった。


俺は嗅覚も霊能力も敏感からは程遠い、至って平凡な高校生だ。


だから、なぜあの場所にだけ異様に惹かれるのか、他の人間もそうなのか、誰かに確かめたかった。


そこで俺は、クラスの地味でオカルトに詳しい佐上という男に、不本意ながら接近してみることにした。


ありがちだが、こういうタイプは無難さという概念を取り違えていることが多い。佐上も気が小さく引っ込み思案なくせに、髪は長すぎるウルフカットで、目をほとんど覆い隠している。


俺にはそのセンスは理解できそうにない。


引きつった笑顔をこちらに向け、佐上は身を引いた。


「まだ何も言ってねぇよ」


俺は佐上の愛想笑いを鼻で笑っていなしながら、右斜め前の椅子を逆にまたいで、佐上の方へ背もたれを寄せた。


「よう、元気?」


こちらもできるだけ愛想の良い笑顔を向ける。


佐上はまるで内気な女子のように顎を引いて、


「う、うん…」


と明らかに動揺しながら答えた。


「まあ、どうせ怪しんでるだろうから、単刀直入に訊くわ。あんた、オカルトとか都市伝説とか詳しいよね?」


俺が佐上に用事があるなんて、日常ではあり得ないことだ。


放課後の教室に残っていた数名の男女は、これから何処かへ寄り道をする算段をしてそれぞれ片隅に集まっていたが、声を潜めた。


こちらに意識を向けているのは、俺が佐上に何かするのではないかと不審に思っているためだ。


だが俺にも、訊きたい事がある以上、専門家に頭を下げるくらいの常識はある。


「詳しいというほどでは…まあ、ちょっと好きなだけで」


「あのさ、俺らは同学年だろ?俺とお前は同い年。興味の対象も遠からずだ。俺、実はすごく気になってることがあるんだよ。それで、因みに霊感なんてある?」


佐上は何を思ったのか、置き勉を全てカバンにしまい、いそいそと席を立った。


「あ、ねえちょっと佐上君。からかったりしないから、ちょっと力を貸してくれないかな」


「どうせイジメのネタにするに決まってる。僕は霊感なんてないよ」


佐上は重そうな巨体を素早く翻し、3階から1階までの階段を駆け下り、俺はそれを捕獲する勢いでピッタリと背後につく。


「こんな大きなシンデレラいないね。おい、ちょっとは話聞けよ」


下駄箱が見えてきた廊下で佐上は、俺の言葉を聞くと不意に立ち止まった。


「そうだよ。僕は日下部君と違って繊細なんだ。ちゃんと親の言い付けを守って、勤勉に暮らさないと世渡りできないタイプなんだよ。だからちょっかい出さないで、放っておいてくれないか」


鬱蒼とした前髪の奥の小さな瞳が、俺を射るように見据えている。


だが俺も、佐上が思うほど立ち入った話はしていない。


「何言ってんだよ?この話が済めば、好きなだけ放っといてやるぜ。ただちょっと、経験を踏まえたお前の意見を訊きたいだけなんだから。因みに家は、どっち方面?」


「なんだよ。そんなに訊きたいなら、早く言えばいいだろう」


「ああいいぜ」


靴を履き替え、校舎から出て公道を駅の方へ歩きながら、その家の所在地や様子について少し説明する間、佐上は黙って聞いていた。


下校路の途中なので、話しているうちに丁度その場所までやってくることは計算づくであった。


「この道入った所だよ。知ってる?」


総毛逆立てるような態度で一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らす。


「まあ、知ってたくはないけど、知ってるかな」


通路の先へ視線を彷徨わせている。


「ゴミ袋がずっと置いてあるでしょ。ああいう家は気になる。でもそれだけだよ」


「それだけって?」


「僕が参考にしてる、そっち系の物件サイトが幾つかあるんだけど、どこのサイトにも特記事項はないから。つまり、過去におかしな事件は起こってないってこと」


佐上はしばし俺を見詰めた。


俺が興味を持っているのは、根も葉もない理由からだと、理解するのを待っているようだ。


けれどかえって俺は、妙なことが気になってきた。


「それって、お前もあの家のこと、ちょっとは調べたってことだよな」


多少の違和感ごときでは、人はわざわざ記憶に留め、帰宅してから検索してみるところまで至らないはずだ。


逆に大した異変もないのに都度都度調べ尽くしているのだとすれば、佐上は相当危険なタイプかもしれない。


俺が訝しむ目で見返すと、佐上は不快そうに眉をしかめた。


「たまたまだよ。だったら日下部君は、あの家の何が気になるの」


目に見えない現象を言葉にして伝えるのは難しい。


俺は瞼を伏せて、少し考えこみながら、「まあ、そうだな」と応えたが、行けばわかるという確信はあった。


「僕はこの道、避けてるんだ。じゃあまた明日」


佐上は軽く会釈して、日の暮れかけた街並みをわざわざ迂回する方へと歩き去った。



俺はやはり気になって、それが何だったのか確かめたくなった。


しばらくしてからだったが、門扉に掲示された番地を検索してみて、唖然とした。


事情が事情だけに、何だったのか具体的に言うことは憚る必要があるが、その住所は“他の同様の現場”と同じく、新聞記事になっていたのだ。


アレの波動というのは、ああいう厭な感じがするのだと、今の俺は体でもう知っている。


だからアレに纏わる何かがあれば、俺はもう体感で、“これはアレの気配だ”と判別することになるのだろう。


興味を惹かれるか、疎んじるかは、きっとその人の気迫によるのかもしれない。


少なくともまだ若い俺は、無性に好奇心を掻き立てられて、登下校のたびに必要もないのにその通路を通らずにいられなかった。



ヒトの生活環境では暮らせない生物で、ヒトからは衛生の観点で忌み嫌われながら、“どうしても”生命活動とは切り離せない、もし切り離せばヒトの方が生きられなくなる、そういう嫌気性の腸内細菌みたいなものだ。


生物の授業を子守唄に聞きながら思う。


俺は今日もあの家の脇を通過して帰る。


健康被害がどの程度なのかということより、その波動をできるだけ確実に記憶に留めたい。


それがいつか何かの役に立つような気がしてならないからだが、単に魅入られているだけでも構わない。



俺も17になって、この世間がどういう風に動いているのか少しはわかってきた。


たとえばインターネットや漫画や映画では、今この世界でどの程度のことが分かっていて、人類にはどういう限界があって、今まさに研究されている最先端技術があると、声を枯らして訴えている。


それらはある点では寡黙だが、分かっていることをできるだけ世界に知らせて、人類の知恵は素晴らしい!というようなことを賛美して聞かせる。


寡黙な点というのは、例えば証明されていないことや、倫理に反すること、悪用されそうなこと、専門分野だけで審議され拡散する範囲を管理している情報などだ。


どんな探求にも「予算」があり、最終的には「成果」「収益」が求められる。


ただ知るために探求しているのは学生だけだ。


それから、専門分野には固執や先入観や権威や独占があって、真実に到達するのを時には阻むことがある。


専門知識というのは、まるで資料室そのものみたいに埃が積もるものらしくて、新しい風を通さないとすっかり黴て腐ってしまうから、畑の肥やしにどっぷり漬かっていない新発想をインターネットや漫画や映画や、色んな所で募っているというわけだ。


つまり「これが今のトレンドです。これについてあなたがどう思うか、意見をどんどん出し合って、一緒に究明しませんか」と、素人を招き入れ興味を引いているのだ。


無論、ほとんどの人は勉強が嫌いだから、賛同とか称賛を与えるだけで、自分がそのトレンドに対し頭を使ったりしない。


だからなけなしの努力ではあるけれど、全然拡散しないよりは良い。


例えばインターネットなんてものは世界中に発信しているのだし、数十億の目に留まれば、一握りくらいは本当に究明したくなって学術の道へ踏み出すこともある。


そう言う俺も、そうやって有志の人たちができるだけ誰にでもわかるように親切に語って聞かせる学術的なサイトや、未解決の事件や、ピンからキリまでの価格帯で売られている斬新なデザインのスニーカーなどを、毎日鑑賞しているだけでレジボタンは押さない。


俺はまだ検討中なのだ。


未成年の特権で、世の中が俺たちを必要として呼びかけている様子を眺めている。


今どれか一つに飛びついて衝動買いして、もしも2~3か月でそれがいかに自分に不似合いで退屈か気付いてしまったら、場合によってはやり直しがきかないこともある。


スニーカーくらいなら飽きても高が知れているけれど、もし遺伝子工学など衝動買いしてしまったら、全部習得するだけでも悪くすれば数十年かかる。


既に分かっていることだけで数十年を費やした後、俺がはたと「違った、俺には動物生態学の方が重要だったのだ」などと気付いてももう遅い。


両親は昔ながらの考えを踏襲している。


男がこれと決めた道をふらふら迷ったりしてはいけない。


だから俺は英語も数学も政治経済も好きではないけれど、比較的嫌い方がましな理科が良いかなと今は思っている。


どれも好きではないというところが曲者なのだ。


では何が好きなのかというと、もちろん異性が好きだ。


経験上、異性が金と地位と頼り甲斐を選び、俺を放棄することは既に知っているのだが、それでも何よりも異性が好きだから、素直に選ぶなら異性が関心をもつことを生涯の研究にしたい。


ところが、人生とは中々うまくいかないもので、俺が好意を寄せる異性は軒並み、液体の入ったフラスコをアルコールランプに掛けているか、人体模型を一日中眺めているか、粘菌のために迷路を工作しているかだ。


一種のフェチズムなのかもしれない。


いや、試験管やシャーレや元素記号を手に持っている女性に何も感じるものはない。


全然違うシチュエーションから興味を持っても、一定期間観察していると本性が露呈するのだ。


女性が化学を好むというのは一般的な傾向ではないし、俺はできれば万人ウケする男子でいたいのだが、気付かないうちにそういう異性を選んでいる俺は、もしかしたら化学が好きなのかもしれない。


あるいは何かの陰謀で、俺が化学の道に進むよう暗示に掛けられているのかもしれない。


成人した研究者が収益に繋がる研究をするように、インターネットが研究者募集で溢れかえっているように、誰かの思惑が作用していない現象など夢想すべきではない。


何の得になるのか、誰かが俺に化学専攻のレールを敷いているとしても、今更煩わしいと感じるほど初心でもないから構うことはないのだが、本当にこれから先、俺は化学を好きになっていくのだろうか。


それが何よりの懸案事項だ。


何分まだ少しも好きでないだけに、疑念以外湧いてくるものが無い。



「佐上君、ちょっといいかな」


いつもの煩わしい表情で佐上は顔を上げた。


「そんな顔すんな、俺だって人間だぞ」


そう言うと少し申し訳なさそうにうつむいて、


「なんなのもう。僕は何も知らないよ」


と頭をかく。


だが俺はもう化学部に入部して、化学部の女子から波及してちょっとした噂にまでなっている。


佐上は少なからず驚き、感心しているに違いない。


俺は得意になって佐上に詰め寄る。


「またまた。知ってるんでしょう?俺は住所を検索してみたんだぜ」


運動が足りないので佐上の顔色は日頃から青白いが、コミュニケーションも足りないようで焦燥感を顕わに見せている。


「俺は勉強なんて好きじゃないんだけど、あの妙な家のお陰でバケ学の方に興味が出てきたぜ。もちろん気の迷いだけど、飽きるまで放射線について調べてみることにしたんだよ」


「へえ、いいんじゃない。僕は化学なんか苦手だな。得意なのはプログラミングの方」


「そっか、そりゃ残念。やっぱり驚かねえな、放射線の話」


「見てわからない?僕はビビってる」


「お前、面白いな。普通自分がビビってることを口頭で解説したりしないぜ」


「放射線の話なんかしないって約束するなら、もう少し話を聞いてもいいけど」


佐上は席を立った。


「おいおい、待てって。約束するから」


大きな身振りで不器用に椅子を戻しながら、佐上は何度か頷いて受け流した。


階段の踊り場にもう西日が射して、無数の埃に反射している。リノリウムの床の上に細い陽だまりを作っているが、佐上はその上を象みたいにのしのし踏み越えていった。


「で、今日は部活ないの」


早く行けと言わんばかりに皮肉を言う。


「ねえよ。お前さ、俺がこんだけ歩み寄ってるのに、友達になれそうだとか少しも思わないの?」


「なりたいわけでもないくせに。僕はこう見えて忙しいんだよ。二次元の嫁が家で帰りを待ってるんだから」


「羨ましいね。なあ、あの家の前にずっと落ちてるゴミ袋、放射性廃棄物じゃないの」


「だからその話やめろよ、そんなことあるわけないだろ。報道されてるってことは、発覚した時に防護服来た区の職員が総出でやってきて、持ち去ったはずだよ」


俺は大げさに拳を掌に打ち付ける。


「そりゃそうだよな。じゃああれは何だ?」


「だから、近所の人も気になるけど気味悪がって誰も手を出さないだけで、ただのゴミ袋だよ」


「どうしてそう確信があるんだ?まるで発覚当時からあの家を見てたみたいだな」


「僕は電車通学が嫌でこの高校に入ったんだ。つまり家はこの辺なんだよ。事件の時はそりゃ物々しかった。何か検査の機器を持った人たちが、繰り返し同じ所を行ったり来たりして要領を得ない慌て様だったし、車が入れるのがそこまでなもんだから、国道の方に十台くらいクルマが路駐されてた」


「そうか、お前はまだ小さかったもんな。10年近く前だし、ネットで調べたりできなかったよな」


「でもお祭りみたいで…いや、知らない大人の世界を垣間見てしまったみたいで、悪いことしてるような感じがして、怖かった」


「じゃあ、7歳頃からずっと、あの道を避けて暮らしてるのか」


佐上は首を傾げてしばらく強張った姿勢をキープした。


コミュニケーションの意味では全く伝わってこない仕草だが、違和感を感じていることは確かだ。


何か訂正したいのかもしれない。


「家に帰ると人だかりができてることを親に報告した。すると親は拳骨を僕の頭に振り下ろした。僕がびっくりして親を見たら、凄い形相で『あの辺に絶対近づいちゃ駄目だぞ』って言った。打たなくても言えばわかるのにね」


恨みに思っているのか、今にも震え出さんばかりに顔を歪めている。


「父が僕を殴ったのは後にも先にもその時だけだ。報道や防護服より、親が怖いと初めて思った」


「なるほどな、それで今日まであの道を避けてるのか。お前、偉いな」


佐上はようやく姿勢を元に戻すと、深いため息をついた。


「でも何度か行っちゃったんだ。だからゴミ袋が落ちてるのも知ってる。


因みにあれは立ち入り検査よりずっと後で出された。誰か他所の人間が不法投棄したのかも。


僕だって好奇心がないわけじゃないから、


何年か前、住所が表示されてるのに気付いて検索してみた。


割と最近になってからだけど、その時はじめてあの家で何があったのか知って、ますます怖くなった。


まだ子どもの時、お化け屋敷だと思って友達と侵入してた。


床板が目いっぱいはがされているのを見た。


その下に何か埋まってるのかと思って、死体だったらどうしようなんて思って、ドキドキしながら降りてみたりした。


臭いも残留物も何もなかった。何もなかったから安心して茶化したりしてたけど、


あの種類の放射性物質は、半減期が1601年もかかるらしい。


僕はもう二次元の嫁しか貰えないかもしれない。


子供ができて影響が出てたら、その子にどう謝ったらいいかわからない」



佐上は泣き出しそうだ。


俺は佐上を宥めようと空笑いをしてみたが、佐上はかえって俺を睨みつけた。


「それなのに、日下部君みたいな押しの強いタイプは、僕が善かれと思って行くのを止めても、振り払ってでも行くんだろう?


本当に腹が立つよ。


僕は心底後悔してるのに、どうやったらあんたらみたいなタイプを止められるんだよ。


本当に頭に来る。


何度も何度も、どいつもこいつも、


虫けらみたいに命を粗末にして、同じ間違いを繰り返しやがって」



話しながら、またあの脇道の入り口まで来てしまった。


恨めし気に睨む佐上。もしかして俺は、誰かのとばっちりで佐上に説教されているのだろうか。


「そうすると、あの家を含めここら辺の家は皆、空き家なのか?」


「いや、裏手に小学校の同級生が住んでるし、このブロックで空き家は多分あそこだけだよ」


「十年来、子どもは生まれてない?」


「その同級生の弟たちはまだ小学生だし、むしろ撤去以前に生まれたんだから同級生自身の方がヤバいだろうね」


「なんか障害出て来てる?」


「いや、S高校でサッカー部の主将やってる」


「そいつか」


俺は察しがついた。それが、押しが強くて嫌がる佐上を無理矢理廃墟探検に付き合わせ、俺にとばっちりを浴びせた友達だ。


「まあ、そいつだよ。畑中っていう」


「お前も相当なビビりだな。畑中君はお前より元気そうだぜ」


「あいつは殺したって死なないタイプだよ。


絵に描いたような健康優良児だし、性格もホント分け隔てがなくて。


同じことしても、俺が風邪引いてもあいつはピンピンしてる」


「なるほど、参考にならないって話か」


「一緒に悪さしても、俺はバレるけどあいつはバレない」


「羨ましい奴だな」


「日下部君も同じタイプだよ」


「大丈夫ってことじゃないか?」


「何が?」


「俺がビニールを開ければいいんだろ?」


「よせ。僕は帰るよ」


「開けたら中が見えるぜ」


「一升瓶だったら?」


「違うって言った。全部撤去されたんだろ?」


「何が?」


「床下埋蔵ラジウム」


「しっ」


佐上は近所の家々を見まわし、指を立てる。


どの家も午後の陽を浴びて静かに門戸を閉ざしている。


「好奇心は、近所がどこも引っ越してないことを肯定してるぜ」


「そうだけど…」


俺は細い脇道を進みだした。


佐上は躊躇っている。


「おい」


首を振って佐上を奮い立たせると、渋々後をついてきた。


「ああ。お前らは何で、そういつも自分勝手なんだ。


いつも他人を振り回す。嫌がっててもゴリ押しだ。


僕には理解できないよ。こんな状況で全然正当化できないだろ。


一体なんで、そんな風に人を使役できるんだ」


歯切れの悪い愚痴をぶつぶつと並べている。


「しっ」


俺は人差し指を立てた。


門の前にやってきた。


ゴミ袋は長期間雨ざらしになった重みで萎み、砂に塗れて雑草の茂みにうずくまっている。


「やっぱりやめよう」


佐上が挑戦的なほど声を張り上げた。


俺は再度、しっと指を立て、ゴミ袋の結び目を探る。


意味もなく腰が引けるが、結び目を探すのに手間取るうちに、屈みこんで正面から挑みはじめた。


地面に項垂れていた結び目をようやく見つけ、両手の指先で片結びをほどく反動で、ゴミ袋の総量分の重みが指に伝わってきた。


意外と重い。


5キログラムくらいあるかもしれない。


半透明だが内容物は推測できない。


ただ白いばかりの代物のように見える。


結び目がほどけ、ざわざわとビニールの音を立てながら露出させた中身は、白い塊だった。


「なんだ、これ」


そこらに落ちていた掌サイズの小枝を使って、表面を突きほぐすと、ザリという音がした。


「塩?」


佐上も覗き込む。


「舐めてみて」


「やだよ!」


佐上がまた素っ頓狂な声を上げる。


俺は口の前で指を立てながら、小枝に付着した僅かな粒子を指に取る。


「わ、何。バカなの?やめろ」


制止する声を聴きながら、俺は一粒舐めてみた。


「塩だ」


二人の頭にはそれぞれ当所のない推理が駆け抜けた。


佐上は口を開いた。


「お浄め…」


確かに門の前に塩といえばお浄めだ。


するとこの家には当初予想したように、心霊現象も起こったのだろうか。


「…なわけないか」


顔を見合わせる。


近隣の駐車場の片隅に、カップラーメンの空き容器があった。


一杯に溜まっていた雨水を捨て、ティッシュで拭いて、塩らしき塊を少し突き崩してそこに入れた。


「物好きもいいとこだ」


佐上が軽蔑の眼差しでその仕草を眺めている。


「これは明日、俺が部活で成分を特定する」


「そうですか」


佐上はひどく無関心に目を逸らした。


「暇だったら君も来たまえ」


「行かなくても後で報告しにくるんだろう」


「そんな顔するなよ。でも、ひとつ良かったことがあるぜ」


「へえ」


「ちゃんと聞けよ。俺の一連の考察のお陰で、お前は三次元の嫁を貰ってもいいってことがわかったんだから」


「どっちでもいいよ。今の嫁以外考えてないから」


脇道の出口で佐上と別れ、放射性廃棄物かもしれない塩を懐に忍ばせたまま、小田急線に乗って帰宅した。


力が漲ってくるような、小躍りしたくなるような気分だった。



俺の記憶では、塩味がする物質は地球上にそう多くはないはずだから、これは十中八九NaClと見て良いだろう。


だが確証がないので、確定するまでこれを試料と呼ぶことにする。


試料はまだカップ〇ードルの縦長の発砲容器に入っている。


台所で手ごろなタッパーを探し移し替える。


それから洗面所脇の物置に、父が東日本大震災の時に買ったガイガーカウンターがあったはずだ。


父と公園やら川へ行って試した時のことが、まだ幼い自分の姿とともに記憶に蘇る。


流石に理科室でガイガーカウンターを出すわけにはいかないから、自室に持ち戻って説明書を開いた。


紙を節約するためなのか、えらく文字が小さい。


日本語のほかに英語と中国語の説明書きが並んでいる。


「バッテリーが残ってるか」


どぎつい黄色の本体の電源を入れると、まだ半分ほど残っているバッテリー表示が現れた。


メモリは0から100まで振られており、70nGyナノグレイ以上は黄色、90以上は赤で色分けされている。


説明書の通りに計測するが、いくらやっても針は振れることはなかった。


「壊れてるんじゃないか?」


俺はガラス板を人差し指でコツコツ叩いたり、しまいには精密機械を乱暴に振り回したりしてみたが、一向に針が動く気配はない。


「まあ、汚染されてないに越したことはないか」


タッパーの蓋を閉じてカバンに放り込み、インターネットを開いた。


『未知試料の成分同定』


検索をかけると、メタボロームデータベースだのクロマトグラフィだの、高校生には手の届かない専門分野がヒットしたが、ほぼアナログで判定する方法もあるはずだ。


確か含まれる成分を外観や特徴から推定して、実験で固有の特徴を示すか判定する。


塩味から塩と予想を立てている場合、ほかの塩味がする成分とは明らかに違う結果が出るように、実験を計画しなければいけない。


『塩味、成分』


検索すると、他の物質では塩化カリウム・臭化ナトリウム・塩化リチウム・塩化アンモニウムがあるようだ。


そのうち塩化カリウムは塩味のほかに苦味もあるので除外し、判定は臭化ナトリウム・塩化リチウム・塩化アンモニウムに対して行えばいい。


それぞれの特徴を調べていくと、どれも中性から弱酸性で、常温常圧で無色・無臭だった。明らかに判定できそうな基準は融点のようだ。


およそ実験の見当がつき、俺はベッドに身を投げ出した。


机に出したままのガイガーカウンターの文字盤をしばし眺める。


本当のところ壊れているのではないか。


翌朝、やはりカバンにはガイガーカウンターを忍ばせた。


学校では使わないが、あの家で使えば反応があり、壊れていないことを確認できるはずだ。


まだ部室には誰もいなかった。


白い綿のカーテンが薄汚れたまま隅にまとめてある。


日の入らない北側一階に位置する理科室は、裏に楓や痩せた赤松の林が三階まで届くくらい高く伸びて五割くらい木陰を作っており、地面はほぼ土がむき出しだが、所々、枯れて剥げかけた芝が、申し訳のように藁色に色づけている。


その木立の向こうは、住宅街の公道に面したブロック塀で、錆びた鉄柵が施され、塀の左端に作業用の白塗りの古通用門があり、いつも閉まっている。


窓の下は全面作り付けの物入になっていて、窓辺はカウンター状の細長い作業場になっている。


細長いカウンターの両脇を挟む教室の両隅に、アルミ製のドアが二カ所付いていて、裏庭と呼ぶには貧相なその屋外へ出られる。


黒板と並んで小窓付きの黒いドアが理科準備室、その奥には教師自らが寛ぎの空間にリメイクした資料室がある。


先に職員室を当たったが顧問は離席中で、部活の日は会議がなければ資料室にいると聞いていた。


ドアをノックするが、中にいる気配はない。


すると教室側のドアが開く音がして、サンダルの踵をペタペタと鳴らす顧問の芦原の足音が聞こえてきた。


俺は準備室のドアから顔を出し、探していた旨を伝える。


「熱心だね。日下部が化学部なんて、みんな驚いてただろ」


「そうですね。そんなに意外かな、授業ではいつも起きてますよ」


「そういや寝てるのは見たことないな、目立ちもしないけど。それなに?」


芦原は手に持ったタッパーを指さす。


きつい天然の癖毛にウェリントン眼鏡をかけたM大出身の芦原は、四十代前後だが年齢より若い印象を受ける。


クラスで三番目の身長の俺と比べても少し背が高いから、大人としても高身長な方だ。


理科系の教師の御多分に漏れず、こなれた態度で生徒からも信頼されている。


雑談でたまに話す学生時代の出来事などから、昔はそこそこやんちゃだったことが推察できて、親しみを覚える。


「何に見えます?」


俺はタッパーの蓋を少し開けて中を見せた。


芦原はマスクの上から口と鼻を手で覆い、警戒した態度を示す。


「白い粉だね。日下部、学校にそんなもん持ってきちゃダメだろ」


こういう冗談を言うから生徒から人気もある。


「わかりますか。これは空き地で採取した物質で、何なのかこれから調べるんです」


芦原はニヤニヤと目を細め、嬉しそうに資料室の奥へ行き、棚の二〇センチ角の機材を抱え持った。


「融点を調べるんだろ?舐めてみた?」


「しょっぱいです。塩かもしれない」


「…塩?」


芦原の顔が白々しいほど笑っている。


「…一個訊いていい?放射線量、調べた?」


「先生、もう調べたんですね?」


「何が?」


「なるほど。いえ、誰でも気になりますよ。そうやって少しずつ誰かの手で減っていってるのか」


「問題ないだろ、ほんの1カップほどだ」


「放射線量は調べましたよ。でも二年も前にしまったきり放置してたガイガーカウンターだから、壊れてるかもしれない」


「拍子抜けしただろうね。俺もそうだった」


「じゃあ、あれでよかったんだ」


「中には入るなよ。絶対」


「で、これは何だったんですか?」


芦原は融点測定器を実験台の中央に置き、電源コードを引き延ばす。


実験台の隅に差込口がある。


「ダメ、教えない。せっかくだから自分で調べてみて」


芦原が説明書を機材に沿えて黒い実験台の天板の上に置くと、廊下のドアが開いた。


以前は木漏れ日を背負って立っているかのように可憐だった、二年三組の空木万里江が、すっかり構わなくなりやつれた髪をして立っていた。


空木は俺と芦原を見ると何か雷にでも打たれたように立ち尽くした。


それから台上に置かれた融点測定器や半透明の容器に釘付けになり、つかつかと歩み寄った。


「これは」


空木の目は死んだ魚のようだ。


「彼が」


芦原が俺を指さす。


「何を?」


空木は少し視線をずらし、白い容器を見る。


「多分、塩?」


俺は答えた。


空木は誰に言うでもなしに、


「八〇〇℃」


と呟き、


「また、新入部員をからかってるんですか?」


粘っこい動作で芦原へと首を向ける。


バサバサしたセミロングの黒髪が、空木の顔に被さって、悪霊にでも憑りつかれているようだ。


「誰が?」


「八〇〇℃って?」


芦原と俺の声はほぼ同時だった。


空木は俺の問いを採用した。


「塩の見当はどうやって?」


「…味?」


「塩味の物質に、この機材で融点を測れるものはない」


確かに塩の融点はおよそ八〇〇℃だ。


「ほら」


空木は台上に置かれた説明書を取り上げ、俺の鼻先に突き付けた。


広げてみると、計測範囲は三〇〇℃以下と表記されている。


「塩化リチウム六一三℃。塩化アンモニウム三三八℃。臭化ナトリウム七五五℃」


空木はしょっぱい物質の融点を洗い浚い並べ立てた。


「凄い、全部覚えてるの」


「私も引っ掛かった」


空木はタッパーの中の試料を指先で舐めた。


「これは正しくあの二丁目ラジウムの…」


「何だよ、空木。台無しだぞ!これは洗礼だ。“塩の同定”目当てで入部してきた者に課せられた、試練なのに」


芦原が喚く。


「日下部君、先生だと思って迂闊に信じてはダメだよ。


この人は生徒が自分と同じ順に間違いを犯すかどうか見たいだけなの。


あなたは実験台にされているの」


芦原は狼狽えている。


「馬鹿野郎、答えを教えるだけが教師じゃない。


暗中模索して、いかに沢山の方法を知るかが大事なんだ。


それが俺の教育哲学だ。


お前は日下部の可能性を摘んだんだ!」


「そうやっていつの間にか、皆、理科実験室の住人になって廃人と化してしまった。


優しかった伊藤先輩も。マドンナだった川西さんも、みんな」


去年の俺が片想いしていた女子たちだった。


そして今年の俺は空木に秘かに思いを寄せていた。


こんな偶然があるだろうか。


空木が言う通り、全員が今では理科実験室の廃人と呼ぶにふさわしい変貌を遂げている。


「そんなバカな。伊藤先輩も、川西も、塩繋がりだったって?…そして俺まで」


空木と俺は、芦原を見た。


芦原は斜に構え、眼鏡の反射を巧みにとらえて目線を誤魔化している。


「もしかしてあの塩も…」


空木は言いかけて口を噤んだ。


俺は言葉を失った。


化学部に入部したのは間違いだったのか。


「お前ら、むしろ俺に感謝するべきだ。理由は大人になればわかるさ」


芦原は口惜し気に肩を落とし、籠もるために資料室へ退散した。


本気なのだろうか。


とても大人のすることとは思えない。


「でも、先生の言うことも一理ある。屁理屈だけど」


「あんなの出まかせよ」


「大人げないけど、なんか可哀相だ」


「構うもんですか。


人の心を弄ぶなんて、不真面目が過ぎる。言語道断だよ」


空木は融点測定器のコードを畳み始めた。


「それで結局、これは何なの?」


俺は採取してきた大切な試料をしまわれないよう、容器を確保しつつ言った。


それを横目に空木は手際よく機材を箱にしまう。


「…そこは芦原先生の哲学を立てようかな。


ただ教えても確信できないでしょ」


「結局実験するの?何なの、化学部の人たちって」


「日下部君、燃焼に詳しい?」


「全然。料理だって手伝ったことないまったくの素人だよ」


「そっか。多分、融点を調べたあたりで、見かけたんじゃないかな。


物質は燃焼した時の反応も、結構個性的なんだよ」


空木の乾いた声を聴きながら、頭に白い花火の閃光が描き出された。


「マグネシウムの燃焼実験だったら覚えてる。あの実験は楽しかった」


「化学に興味を持つきっかけとして十分だよね。とりあえず燃やしとけば、子どもは喜ぶし」


「わかった、炎色反応で判別する?」


「なんだ、知ってるじゃん。じゃあやってみよう。あっちに資料があるよ」


箱を手に、空木が先に立って資料室へ入っていく。


奥の一角に本棚があり、整頓された全集の褐色に灼けた背表紙が並んでいる。


『理化学入門』、『動物生態学の基礎』、『実験器具カタログ』。


空木は棚の隅から『carbo』という月刊誌の一冊を抜き取った。


「炎色反応っていうのは金属イオンの作用だから、


ナトリウムやカリウムには表れるけど、塩素や酸素はあまり関係ないらしくて」


ページをめくっていく。


以前にも同じページを開いて、そこに目的の試料があるのを知っているようだった。


「塩味の物質である塩化ナトリウムとか、塩化リチウムなんていうのも、


金属イオンを持ってるナトリウムやリチウムの部分で色の違いがでるの。


あった」


深爪をした空木の素朴な指先が、ページを指し示す。


「へえ、綺麗だね」


化学雑誌『carbo』には、暗い室内で青や紫や10色の炎が並んだ写真が掲載されていた。


ピンク色の炎の下にはLiリチウム、黄色い炎の下にはNaナトリウム、淡い紫色の炎の下にはKカリウム、濃紫のルビジウム、赤紫のストロンチウム、水色のバリウム…そしてCu(銅)の下には、青みがかった緑の炎が燃えている。


「アンモニウムは?」


俺は塩味の物質の中に臭化アンモニウムという物質があったことを思い出した。


「アンモニウムは燃えないよ。白煙が出るから、それで見分けられる」


実験室に戻ると、台の下の収納扉を開けて空木は燃焼実験の道具を出し始めた。


ガスバーナーをセットして長いステンレス製の薬匙を手渡すと、


「炎の色を見るだけだから、小さい方の匙で十分だよ」


とタッパーの蓋を開け、俺の方へ差し出す。


外はもう日が暮れかけ、炎色反応を確認するために誂えたように、暗がりが実験室の床を侵食し始めていた。


俺は薬匙の先に半匙、さらさらとした白い粉末を掬い、ガスバーナーの青い炎の先に翳す。


炎というのは文明の契機だ。


だから原始的な魂が沸き立って喜ぶのだろう。


静かにバーナーの上で匙が熱されていく。


これがただの塩で、見慣れた黄色い炎を上げたら、少し落胆しそうだ。


せっかく炎色反応の実験をするなら、他にも燃やす物質を用意しておくべきだった。


だが、誕生日でもないのに、空木と暗い教室で、二人きりで炎を見詰めている。


「量がもっと少なくても良かったかもね」


空木は燃焼がなかなか始まらないのを見て言った。


それでもしばらく待っていると、匙の上にバーナーの炎とは違う小さな火が蠢き始めた。


「ほら、どう?何色に見える?」


「うーん」


赤ん坊のような拙い火だ。


色は、そう、ピンク色に見える。


だが答える代わりに台の上に揃えた指先を見ていた。


短い爪が揺れる炎に合わせ、光っている。


「気が利いてるだろ」


資料室のドアに、芦原がいつの間にか立っていた。

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