与えられた意味
【9】
時は平等に流れる。
こんなことを言える人は、きっと最初から最後まで、とても平坦な人生を歩んだのだろう。
例えば高校に入ってからの一年は、常に同じテンポで、忙しくもなく、暇でもなく、体内時計と寸分違わず時が経過していった。
でも、中学の時は違う。
授業中、練習中、移動中、試合中、全ての時は不平等に流れ、上手くいってる試合と、そうでない試合とですら、時間の経ち方はまるで違った。
そして今。
ジェットコースターのように過ぎ去った夏が終わろうとしている、この時。俺は、終点が見えたコースターの座席で、アトラクションが終わってしまうことに酷く悲しんでいる。
時は不平等に流れる。
ならば、終わらないでくれ。
ブラックホールに飲み込まれるように、ただこの瞬間が、永遠に延び続ければいいのに。
淡島に行こうと言いだしたのはルカだった。
すっかり常連客になった、レッドローズクラウンのマスターに教えてもらったのがきっかけで、淡島神社を見つつ、ゆっくり島を一周したいと言ってきたのだ。
出かける日はルカが帰国する前日にした。それは俺の独断で、日本での最後の思い出に、たとえ近場でも少し珍しいところに行かせてあげたいと思っていたからだ。
そうと決まった俺とルカは、当然のようにトウマと高城さんを誘った。がしかし、お盆時だからか、双方共に用事があるからとあっさり断られてしまい、少し寂しいが二人での決行と相成った。
島といっても、小さい上に陸からかなり近いので、ランチにルカと沼津でかき揚げ丼を食べてから、のんびりと向かう。
たった五分程度の穏やかな船旅に、ルカは「乗った気がしない」と不満を漏らしつつ島に上陸すると、左右どっちへ進もうか考え、とりあえずといった感じでイルカのプール、もとい海を覗いた。
「ペンギンなら、あっちだよ」
小さな子供の声につられて、二人で視線を落とす。
足元にいたのは、まだ幼稚園に入りたてのような、小さな男の子だった。
リュックを背負って、黄色い水筒を肩にかけている。どれもこれもが全て小さいのに、その一人前みたいな佇まいが、俺とルカに笑みを誘った。
「ペンギン、見に来たんでしょ?」
「うん。でもその前に、神社に行きたいんだ」
外国人を見るのは初めてなのか、男の子はしゃがんだルカの瞳を、じっくり覗き込む。
「わぁ、ホウセキみたいだね。ラブラドライトみたい」
「素敵な褒め言葉だね」
「ラブラドライト?」
なんだそれ、と俺が小首を傾げると、男の子がよく通る声で「お母さーん」と叫ぶ。かなり向こうから慌てて走ってくるお母さんらしき人の胸には赤ちゃんがいて、俺は両手を振って走らないようにと伝える。
「すみません、うちの子が。もう、勝手にどっか行かないでって、いつも言ってるでしょう?」
今時ママと呼ばないのも珍しいなと感心していると、その子はお母さんの大きなバッグからスマホを取り出し、子供らしからぬ素早い操作で、一枚の写真を見せてくれた。
「これ。おばあちゃんちにあるやつ」
「これがラブラドライト?」
「そっ」
ルカと画面を覗くと、綺麗に磨かれた石の写真が映し出されていた。グレーのような、ブルーのような、空のようでいて、森にも見える、不思議な色をした石。一緒に写る猫と比べてみても、掌より大分大きいかもしれない。
「へぇ。綺麗だな」
「これ、私の母のものなんです」
バッグを掛け直し、お母さんが言う。
「光の角度によって色が変わるんですよ。いわゆるパワーストーンで、恋愛に効くらしいですけど、母は石の意味が好きみたいで家に置いてるんです」
「石の意味……ですか」
話をしている最中も、男の子はルカの瞳を見て「綺麗だねー」とはしゃいでいる。ルカは恥ずかしそうに、でもじっと目を開けてあげている。
「開放とか、自由とか、希望とか、そんな意味らしいです。自分の殻から抜け出したり、新しい世界へ向かいたい時なんかに、力をくれるらしいですよ」
自分の殻から抜け出したい時に、か。へぇ、石にも意味があるとは驚きだ。
「そうなんですか。いい意味で良かったね、ルカ」
「とてもいいお話をありがとう」
自分の知識を披露できて満足したのか、男の子は素直にお母さんと手を繋ぐと、帰りのフェリーへ向かっていった。「もう一回ペンギン見る?」と最後の最後に眠っている赤ちゃんに聞く男の子に、お母さんが「もういっぱい見たでしょ?」と呆れていて、そんな親子の姿から、何となく目が離せなかった。
「ミナト、子供欲しい?」
「うーん、どうかな。俺に似てたら嫌かも」
「同感。俺も俺に似た子供なんて嫌だ」
「そうかな?ルカの子供なら、いい子だと思うけど?」
「どうでも……な」
動き出したフェリーから手を振る男の子に応えて、俺たちは歩き出した。
マップを確認して、まずは島を左方向に進んでいく。ずっと道なりに歩いていくと、そのうちに山へ入っていく坂道と鳥居を見つけた。
「ここか?」
「あの石に淡島神社って書いてあるから、間違いない」
坂道はすぐに階段へと変わり、見上げれば、ずっと奥まで続く石階段。しばらく上がっていくと本格的な森の中になり、これは予想外の重労働だと焦った。
軟弱な左膝に、「お願いだからいい子にしていてくれ」と心の中で語りかける。せめて今日が無事に終わってくれさえすればいい。だから頑張ってくれ。最後の試合の、あの時のように。
ハイペースを保つルカに、俺は平気な顔を装って必死についていく。
「ミナト、大丈夫?」
「大丈夫だよ?」
この胸の鼓動は疲れか、小心者の古傷への不安か。
息が上がり、二人の間から完全に会話が消えた頃、ゲーム中にイベントが発生したかのように、ちょっとした観光スポットに辿り着いた。
「ミナト、少し休もう。疲れた」
「賛成」
夏真っ盛りの登山に、首筋から汗が流れる。それをシャツの襟ぐりで拭いながら、ベンチに座った。
観光スポットとはいえ、ベンチ以外は特に何もないそこから見えたのは、雲ひとつなく晴れた伊豆半島だった。海も今日は凪いでいる。
「絶景だな」
ルカがスポーツ飲料のキャップを開けながら言う。
「うん。誰もいなくて最高だ」
しばらく風に吹かれながらぐったりしていると、不意にあることを思い出した。
「そういえばルカのお母さん、どこか体が悪いの?」
本当は心配だったけど、余計なことを言ってルカの帰国日が早まってしまうのが嫌で、ずっと聞けずにいたこと。最低だけど、それが俺の正直な気持ちだった。
「お腹に子供がいるんだよ」
「お腹にって、ルカの弟か妹?」
「そう」
まずは病気じゃないことに安堵する。しかし、そんな喜ばしい話にも全く笑顔を見せないルカに、俺は最初の質問をした時より不安な気持ちが募った。
「おめでとう」
だから無難に、至極常識的な言葉を選ぶ。
「アンナにとってはね。俺にとっては別に関係のないことだよ」
思いきりテンプレートな返しを裏切ったルカに驚きつつ、俺はルカの気持ちを想像してみた。兄になった経験がある分、俺は下に兄弟ができる奴の気持ちを知っている。
「そうか。ママを取られちゃうのがイヤなんだな?」
俺は嫌だった。生まれてからも、さほど可愛いとは思えなかった。ギャーギャー泣き散らかす妹の声でテレビの声が聞こえず、我慢できずに一度だけぶったことがあるが、その時も当然怒られたのは俺の方で、それで俺が泣き出しても母は慰めてもくれなかった。俺のママなのに。俺の方が長くママの子供なのに。
可愛いと思えるようになったのは、妹が歩けるようになり、何かと俺のそばに来るようになってからだ。
今となっては、母を独占したいなんて気すら起きない。
「まぁ、そんなの最初だけだって」
「アンナは別に俺のママじゃないよ」
「え?」




