いつか、あなたが来た時に
【8】
早朝に到着する便で帰ってきたメアリーは、長旅の疲れも見せずに早速キッチンに立って料理をしている。リビングには久しぶりにご馳走の匂いが立ち込め、ソファで派手にガンプラを広げているルカが、今日のランチはジャンバラヤだとはしゃぐ。
メアリーは帰宅早々『暁』を一瞬だけ手に取るも、作品がちゃんと届いたことだけ確認できると、すぐにルカへ向き直って食べたい物を聞き、冷蔵庫を開けた。中にはルカがあらかじめ準備しておいた肉や野菜が所狭しと詰め込まれていて、メアリーはボウルを出すと、まずは肉の下処理から始めた。
孫のことが心配でたまらなかったであろう祖母の顔をするメアリーに、俺はルカに対して小さな子供がするような嫉妬心を抱いた。それなのに当の本人は、全くお構いなしといった表情だ。
ジャンバラヤの完成を見守りつつ不在中の報告会をしていると、インターホンが鳴った。
オモチャに集中しているルカを置いて急いで出ると、ドアの向こうに立っていたのは宅配業者のお兄さんで、サインと引き換えに小包みを手渡された。
差出人を見て、すぐに中身が思い当たった。
「メアリー、『暁』のキャプションボードが届きました」
「ありがとう。後でセッティングするから、そこに置いておいて」
フライパンにオリーブオイルを垂らしながら、メアリーが電話の横のスペースを見る。
「ねぇ、いま開けようよ。どんなのか見たい。いいでしょ、メアリー」
ルカが寝転びながら両手を掲げるので、プラモデルを片付けさせてから荷物を渡した。ルカは豪快にガムテープを剥がすと、梱包材をよけてプレートを取り出した。
「ルカ、傷つけないでね」
呆れ顔のメアリーが、心配そうにこちらを見る。
「分かってるって!あぁ、ちゃんとイメージと同じデザインになってるね。【模写】も入ってるし」
「これならすぐに公開できそうだ」
パラパラに炒められたジャンバラヤはピリッとした辛さが効いていて、暑さで少食気味になっていた胃にどんどん収まっていった。そして何より、商店街で調達してくるお惣菜の味に飽きはじめていたルカには、天にも昇る旨さのようだ。幸せそうなルカの顔が時折、共感を求めるようにこちらへ向く。
「二人とも、いい顔して食べるわね。帰ってきた甲斐があるわ」
「メアリーの帰国が当初の予定通りだったら、ルカはきっと痩せちゃってましたよ」
「料理は教えていったでしょう?」
「自分で作るとマズいんだ。それに、余る。ずっと同じのは嫌だ」
スプーンを止めることなく、理央さんから聞いた『暁』の情報を二人で補完しながらメアリーに伝え終える頃には、フライパンに山盛りになっていたジャンバラヤも一粒残らず完食していた。
食後に出したジャスミンティーを飲みながらメアリーがポツリと話したのは、あの絵に関する意外な事実だった。
「ハルが言っていた『暁』に書いてあるサインのSというのは、セツナの頭文字じゃないかしら。あの子……柊平が前に一度だけ、教え子の作品を撮った写真を見せてきたことがあるの。この世界でやっていけるかって、何人かの画商に聞いて回っていたみたい」
「メアリーは藤堂さんのこと、直接ご存知なんですか?」
「それは勿論。『斜陽』だって、私が柊平に依頼して描かせたものよ」
「そうだったんですか」
「私は単純にあの子の絵のファンだったから、取り合いに巻き込まれないように偽名を使うように指示したの。そう、それで、その時に柊平が言っていた名前が確か、柳澤刹那、だったはず」
柳澤刹那。
刹那。
久遠の反対語。
もしも宇野久遠という偽名を理央さんが考えたものだとするなら、若くして亡くなってしまった友人の遺品に、理央さんは永遠に続く価値を望んだのかもしれない。
「柊さんがどこまで事情を知っているのかは分からないけれど、宇野という偽名が偶然じゃないのなら、きっと彼女は柊平の気持ちを汲んでくれたのかもしれないわね」
「藤堂さんの気持ち、ですか」
「ええ。柊さんは師匠思いの、いいお弟子さんだわ」
そう言うとメアリーはまたグラスに口をつけ、ジャスミンの香りを楽しむように目を閉じた。
「そんなことより、早く飾ろうよ。この後もスケジュールが詰まってるんだ」
ルカに急かされ、「はいはい」とメアリーが立ち上がる。ギャラリーへ行って『斜陽』の横に簡易的に『暁』を固定すると、ルカが代表して慎重にキャプションボードを貼りつけた。
「ちゃんとしたセッティングは、近いうちに業者さんに来てもらうから」
後ろに下がり、三人で二枚を眺める。
本当に同一人物が描いたように見える師弟の絵は、まるでずっと昔から並んでいたように、しっくりとそこへ収まっていた。
いつかフラッとここを訪れた藤堂さんがこの二枚を見たら、喜んでくれるだろうか。そうなったら、真っ先に理央さんへ伝えなければならない。
それだけは忘れないようにしないと。
「そうだ、ルカ。ニューヨークへ寄って、アンナに会ってきたわ」
「うん」
突然メアリーが口にしたアンナとは、ルカのお母さんのことだ。そういえば、ルカはアンナさんと連絡を取っているのかな。普段、全く話題に上らないけど。
「体調は落ち着いたみたい。貴方のことも気にかけてた」
「うん」
体調は落ち着いたって、アンナさんはどこか具合でも悪いのだろうか。それならルカは、ここにいても大丈夫なのだろうか。メアリーの不穏な言葉に、思わずルカの横顔を見る。
「貴方は貴方のしたいことをしなさい。私が側にいるわ。それに、母親気取りのクレアもね」
「うん」
安易に口を挟める空気ではないから、俺はただただ黙ってそこに佇む。
「うん」としか答えないルカは、『暁』の空より遥か向こうを見ていて、手を伸ばせばすぐに届くほど近くにいるのに、俺たちはまるで次元の違う場所に立っているかのように遠く感じた。
毎日顔を合わせているのに、俺はルカのことをあまり知らない。
それだけじゃない。
ルカだって、俺のことはあまり知らない。
俺はルカに、人生で最も幸せだったことを、辛かったことを、未だ話せないでいる。




